きぼう屋

生きているから生きている

スポーツ・宗教・教会・世界

2007年10月16日 | 教会のこと
ボクシングにおいて亀田家の行動が大問題になり
また相撲においても時津風部屋の行動が大問題になっております。

これら一連の行動と
それが大問題になるということと
それによって世間が処分を求めていくということ

見ていくうちに

わたしはスポーツは実は宗教学的に考えねばならないんだなあ
と思うようになりました。

私たちの世界は
実はいつでもどこでも
自分が生き残るために
勝利するために
相手を蹴落とし
負かし
時に殺します。

とりわけお金というものでそれが数字で表れる昨今は
なおますます
それを激しく互いに行っていきます。

そして
そのお金でまわる世界では
どこであっても
ありとあらゆる狡賢さでもって
勝利し生き残ることが目指されています。

そして持っていない者はますます搾取され持てないようになった世界が
いま広がっています。

みんな
そうやって死をあまりにも身近に感じている人がたくさんいることを知っています。

でも知らないふりをします。
あるいは
冷笑的にふるまう術を身に付けます。

そうやって
ますます狡賢くなって
生き残り勝利するために動き始めます。

そうしないと生きていけないから・・・


でも
同時にみんな知っています。

それはあまりに悲惨な現実であること
実はみんなで滅びに向かっていること
みんなでいわば集団自殺しているようなことであること

だから実はみんな願っています。
こういうサバイバル競争でない
みんなが生き生きと
まさに復活し快復し生きることができる世界であってほしいことを。


まさにそういう復活の世界を信じ
そのために行動し続けるというのが
信仰であり
宗教であるわけです。
(内面の安定という宗教はただサバイバル競争における力の一つであり本来の宗教とは正反対のものです)


実はそういう信仰的宗教的事柄を
人々はスポーツに求めているのだなあ
と思いました。

実生活における金の勝負ではあり得ないですが、
蹴落とす相手が具体的にわかっているけれども
でもその相手を尊敬し、
そういう中で勝負し
終われば勝っても負けても互いにさらに敬い
それをスポーツマンシップという
ひとつの教義としている
それがスポーツなのだなあと思いました。

だから金の勝負である今の変な経済社会においては問われないけれども
スポーツでは反則は徹底的に問われるわけでもありましょう。

スポーツくらいは
あの集団自殺社会とは違うものであってもらわないと
希望が消えてしまうのだろうと思いました。


だからこそスポーツにおける関係性は
宗教的な関係性になるのかも知れません。

時津風部屋や亀田家のように
カルト宗教の形態における関係性を持つようになったり
いやいや
これは多くの学校における
体育会系の部活等における関係性もあり・・・
実はスポーツをする団体が
宗教的に知恵と知識の足りないような形になっていることが多いのもうなずけます。


これは一方でキリスト教会も問われるわけで
同じような形態の群れは
少なくないはずです。

また
今、家族というものもまたカルト的であるケースが増えているのは

実社会における生存競争という集団自殺行為に疲労しているゆえに
家族には違うものを求めるゆえに
でも
信仰の本質や宗教の歴史は
この国では無視されるケースが多いゆえに

カルト的になるのかも知れません。

実はこれはキリスト教会のテーマであるわけですなあ。

今後も少しづつ考えていきたいと思います。