今日は第二コリント1:3~11を読んでみました。
私たちの神は「慈愛に満ち」「慰めを豊かに下さる」神ということを、この言葉のまま信じることができてうれしいです。信じるべきだし、信じるしかないし、信じないなんてもったいない!。
この神は、「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰め」てくださるからありがたい。あらゆる苦難!。
神が慰めてくれる苦難と慰めてくれない苦難があるわけではないからこれまた感謝。
人は、実は苦難を分けます。助けるべき苦難と助けない苦難を分けます。
それは、人の判断による加害と被害というかたちで分けることが多いと思います。
被害者の苦難は慰めるけど、加害者の苦難は覚えることなく、裁きのみ行われたりします。
聖書は、裁くのは神のみと言います。そこでは人は裁く必要がなくなります。
その裁く神は、しかし、同時に、いや、裁く以前に、慰める神です。
慰める神だから裁くことができるわけです。
神はまず慰め、赦すから、裁くわけです。
慰め、赦された者は、裁きを聞き入れることができるようになり、新しく生まれ変わることができるに違いないわけです。
まず、すべての人のすべての苦難は神に慰さめられます。
そして、神に慰められた人は、「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるようになります」。
そして、慰められた者に対して、神のみが、必要なときに裁きます。
人が裁くとき、そのときは、慰めることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、神の慰めをしることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、その人が苦難から抜け出せないことを意味するのだろうと思います。
裁きは主にゆだね、その主の慰めにすべてを委ねることができるから、
私たちは命あふれて生きることができます。
私たちに満ちる神の慰めは、直接届くのではないようです。
「キリストによって」届くようです。
そして、キリストを仲介して届く本物の慰めとは、
私たちに満ち溢れている「キリストの苦しみ」と同時に届くことが明確に書かれます。
私たちが慰めに満ち溢れるということは、キリストの苦しみに満ち溢れるということです。
だからこの慰めを受けた者は悩み苦しむことができるようになります。
さらに、慰めを受けた者が悩み苦しむとき、それが、他者への慰めと救いとまでされていきます。
苦難にある私たちは、神の慰めを受け、同時にキリストの苦しみを受け、キリストの苦しみに比するならば軽いところの自らの苦難を悩み苦しむことができ、悩み苦しむことが、実は他者への慰めと救いになる。
さらに、慰められた者は、共に同じ苦しみを苦しみ、それに耐えることさえできるとまで書かれていきます。
この共なる苦しみと共なる慰めがあるとき、
私たちの「希望は揺るぎません」。
私は、共に苦しんでくれる仲間がいてくれて、共に慰めあう仲間がいてくれるから、
絶対に希望を捨てない!と、今の状況だからこそ宣言します。
「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。
アーメン。
自分を頼りにするのではなく、人の経験や知識や技術を頼りにするのではなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするから、
私は希望を捨てません。
「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。
アーメン。アーメン。
おしまい。
私たちの神は「慈愛に満ち」「慰めを豊かに下さる」神ということを、この言葉のまま信じることができてうれしいです。信じるべきだし、信じるしかないし、信じないなんてもったいない!。
この神は、「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰め」てくださるからありがたい。あらゆる苦難!。
神が慰めてくれる苦難と慰めてくれない苦難があるわけではないからこれまた感謝。
人は、実は苦難を分けます。助けるべき苦難と助けない苦難を分けます。
それは、人の判断による加害と被害というかたちで分けることが多いと思います。
被害者の苦難は慰めるけど、加害者の苦難は覚えることなく、裁きのみ行われたりします。
聖書は、裁くのは神のみと言います。そこでは人は裁く必要がなくなります。
その裁く神は、しかし、同時に、いや、裁く以前に、慰める神です。
慰める神だから裁くことができるわけです。
神はまず慰め、赦すから、裁くわけです。
慰め、赦された者は、裁きを聞き入れることができるようになり、新しく生まれ変わることができるに違いないわけです。
まず、すべての人のすべての苦難は神に慰さめられます。
そして、神に慰められた人は、「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるようになります」。
そして、慰められた者に対して、神のみが、必要なときに裁きます。
人が裁くとき、そのときは、慰めることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、神の慰めをしることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、その人が苦難から抜け出せないことを意味するのだろうと思います。
裁きは主にゆだね、その主の慰めにすべてを委ねることができるから、
私たちは命あふれて生きることができます。
私たちに満ちる神の慰めは、直接届くのではないようです。
「キリストによって」届くようです。
そして、キリストを仲介して届く本物の慰めとは、
私たちに満ち溢れている「キリストの苦しみ」と同時に届くことが明確に書かれます。
私たちが慰めに満ち溢れるということは、キリストの苦しみに満ち溢れるということです。
だからこの慰めを受けた者は悩み苦しむことができるようになります。
さらに、慰めを受けた者が悩み苦しむとき、それが、他者への慰めと救いとまでされていきます。
苦難にある私たちは、神の慰めを受け、同時にキリストの苦しみを受け、キリストの苦しみに比するならば軽いところの自らの苦難を悩み苦しむことができ、悩み苦しむことが、実は他者への慰めと救いになる。
さらに、慰められた者は、共に同じ苦しみを苦しみ、それに耐えることさえできるとまで書かれていきます。
この共なる苦しみと共なる慰めがあるとき、
私たちの「希望は揺るぎません」。
私は、共に苦しんでくれる仲間がいてくれて、共に慰めあう仲間がいてくれるから、
絶対に希望を捨てない!と、今の状況だからこそ宣言します。
「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。
アーメン。
自分を頼りにするのではなく、人の経験や知識や技術を頼りにするのではなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするから、
私は希望を捨てません。
「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。
アーメン。アーメン。
おしまい。