きぼう屋

生きているから生きている

救い主に逆らっても損なんだけど・・・。

2012年11月03日 | 聖書を読んでみました
なんとなく眠れない夜。
聖書を読むことにしまして。
マタイ福音書2:1~12

救い主イエスがユダヤ人の王としてお生まれになったことを占星術の学者たちが知りました。
星が昇るのを見たことで、救い主であり王である主の誕生を知ったとのことです。
占星術の学者を、星占い師と理解することもできますが、
私は、もっと信頼され尊敬され社会的地位があり、影響力があった人たちと考えています。

つまり、現代でいうならば、あらゆる科学技術に精通した有名な学者たち、ということではないかと思っています。
そして、星が昇るということでもって救い主の誕生を知ったということは、星が昇ることが誕生の原因、条件であるということで、現代で言うならば、あらゆる科学技術を駆使して因果関係を明確にし、何が起こったのかをはじき出すということが起こったということだと思うわけです。

今も暗い時代です。
もしかしたら人類の歴史はずっと暗いのかもしれないなあとも考えます。
そしてその暗い時代にはいつでも、それを突破する出来事が求められ、あらゆる人がさまざまに突破する希望を語ります。
当時も、暗い時代に救い主の誕生を、精密な因果関係を証拠としてあげつつ、はじき出したのだと思います。

救いの出来事はしかし、歓迎されるばかりではありません。
たとえば昨今の脱原発による経済復興的な希望は、歓迎されないところではまったく歓迎されません。
当時の王様は、救い主の誕生を聞いてとても動揺したことが聖書に描かれます。
それはユダヤの王の新たな誕生であり、単純に言うならば、王の地位が脅かされるからとも考えられます。
脱原発もまた、地位を奪われること、それに準ずることが起こるために、歓迎できない人はたくさんいるわけです。

だいたい歓迎できない人は、暗い世界の中なのに十分に満足している人でもあるようです。

しかし、それは偉い人だけの話でもなく、
わたしたちみんな、小さな世界でも、自分の小さな利益を守るために、新しいことを歓迎しないケースは多々あります。
別に新しいことがなくても、利益を守るためにつまらない行動をとることは多々あります。
誰でも経験していることでしょうが、ほんの小さなプライドを守るために、小さな嘘をついてしまったりします。

そのような、実は自分自身の現在のスタイル、所有物、アイデンティティなどを守るというある意味生存維持のための本能的行動は、ヘロデ王と同じように、救い主の誕生を拒むことになるのだろうと思います。

私たちは、救い主の誕生を受けるとき、同時に、自らが砕かれるということをも経験することを知らされます。
救い主の誕生は、私たちを救うために、私たち一人ひとりをいったん破壊することでもあるはずです。
そこでは、私たちは、古い自分が一度死ぬという経験をし、救い主と共なる新しい自分が与えられることに期待することがゆるされるのでしょう。

もちろん、この救い主による破壊は、私たちにとっては恐ろしいことであり、ゆえに、救い主に逆らってでも、自らが壊れない選択をしてしまうことが多いわけですが、まさにこれが罪なわけです。

私たちは、神を信じ愛しますが、同時に、本気で、神を怖れる必要があるわけです。


動揺したヘロデ王は、占星術の学者、つまり、当時の科学技術のブレーンと、大祭司、祭司長、律法学者、つまり、閣僚議員と与党議員と野党議員をみんな集めて、救い主がどこに生まれるのかを聞き出します。もはや総動員です。
建前上は、救い主を拝みたいということになっています。社会を救う新しい改革を歓迎すると言います。でも本音としては、その新しいかたち=救い主と、総動員で戦うということが起こっています。

そして、その後の聖書箇所で、ヘロデ王は救い主との全面戦争、つまり殺害計画を実行するわけです。

私たちも、とりわけ苦しいときほど自分の現状維持という生命維持機能が働き、本当は自分を壊してくれて新しくしてくれてハッピーにしてくれる救い主であるのに、その救い主と、自らのあらゆる知識と経験と言い訳を持ち出して、実は決闘するということが、少なからず、いや、ほとんどの場面で起こっているわけです。

だから今なお、主イエスは十字架につけられるのです。わたしによって。私たちによって。

クリスマスは、喜びの知らせを聞くけれども、それは決して心地よいばかりでなく、私が壊され変化させられるという、苦難と不安をも覚える出来事です。
しかし、その苦難と不安をも包み込む、救い主の誕生の出来事がクリスマスでもあります。

クリスマス。
救い主の誕生の出来事に身を委ねたいと思います。