きぼう屋

生きているから生きている

光に生きる

2012年03月31日 | 教会のこと
今週(といってもあと一日ですが)の週報巻頭エッセイです。

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「光に生きる」

聖書から学ぶならば、私たちは光を受け、光を見、光を目指し、光となり、歩むこととなる。
徹底的に光にこだわる人生となる。
聖書は、神が光であり、キリストが光であり、さらに私たちもまた光であることを語りきる。

逆に、闇を好み、闇に留まり、闇に歩むことを聖書は禁じる。

光は力を持つ。
心や体がしんどいとき、夜中に不安であったとしても、
朝日が昇るとそれが解消される経験を恐らく多くの方がされているだろう。
単純に暗闇を歩いているときに、月の明かりが精神を安定させる経験もあるのではないか。
寒いときに日光に当たりホッとした経験もあるだろう。
真っ暗な部屋に帰ってきたときに、電気のスイッチをつけて蛍光灯が点灯してもホッとするものだ。

事柄の見方、考え方はいかがだろうか。
直面している出来事を光を通して考えるだろうか。
それとも、その出来事の闇の部分ばかりにこだわるだろうか。
聖書は、私たちが光を見つめ目指しつつ事柄を把握し進めることを強く要求する。
逆に闇の部分の除去にこだわるとき、それは呪いとなり、事柄がますます神から離れることをも聖書は教える。
私たちは「闇は光に勝たなかった」という神の宣言に立ちつつ常に具体的に思考し選択せねばならない。
そして、それが主ゆえにできるのだ。

とりわけ聖書は、光について「異邦人のための光」と語る。
つまり光は、私と最も質の異なる者、
つまり単に付き合うことをも含めて、最も関係することの難しい者に対して、
光が備えられていることを語る。
そう、光を受ける私たちは、常に敵と認識する他者まで含めて、
どんどん交わりが広がることを、光ゆえに知ることができるのだ。

私たちはそれぞれ、様々な場面での様々な困窮を抱えつつ歩んでいる。
困窮は時に自らの歩みが暗闇に完全に閉ざされていると私たちに思わせ、閉塞感に苦しむことへと導きもする。
しかし「闇は光に勝たなかった」。
私たちは必ず光に救われる。光で生きる。閉塞感から解放される。

単純にどんなに暗闇でも、光は必ず見える。
暗いほどに光はなお強調されもする。
だから私たちは光を見失うことがない。
光が必ず私たちの目に、心に、魂に飛び込んでくる。

また聖書は私たちが闇を好み、闇を正義と思うことすらあることをも語る。
その時は、パウロが浴びたような強烈な光が、私たちが気付かずに信奉している闇を打ち壊してくれる。
私たちは光を受け、闇から光へと復活する。
「世の光」として、「光の子」として復活する。

私たちは、本当に光に生きることがゆるされており、そうするよう神より招かれており、そうすべきであり、それができるのだ。