きぼう屋

生きているから生きている

イエスさまのいる風景

2012年03月06日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会週報巻頭エッセイです。

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「イエスさまのいる風景」

私たちバプテストが大切にしている総会を、先週無事終えることがゆるされ、主とみなさまに感謝いたします。
そしてみんなで決めることのゆるされた事柄に、主と共に挑戦できればと願います。
また、来年度からの新執事として、TさんとMさんを私たち総会は選びました。
お二人のために続けてみんなでお祈りをして参りたいと思います。

先週私たちは、イエスさまが子ロバにのりエルサレムへ入場される場面を分かち合いました。
そして礼拝後、Sさんが私にこの場面から想像できることを語ってくださいました。
私はそれを聞いて曇りが晴れて、この場面の風景が豊かに見えてきたという経験をしました。
ですので、この場所でもぜひ分かち合わせていただきたいと思います。

Sさんは、子ロバに大人であるイエスさまが乗り、オリーブ山の下り坂を進む場面の画を説明してくださいました。

もともと入場といえば立派な馬にまたがるのが常識の中で、
本来あまりに小さいために大人が乗るはずのない子ロバにイエスさまがまたがられたならば、
そのイエスさまを乗せた子ロバは、
しりもちを何度もつきながら、どちらかというとずるずるすべるように下っていき、
イエスさまも、子ロバにまたがりながらも地面に着く足で、
逆に子ロバが転がるのを踏ん張って支えながら、
必死こいて坂道を下っていったのではないか、というものです。

日常生活にロバがいる人たちは、
きっとこの物語から、
そのような子ロバとイエスさまの吉本新喜劇のような風景を想像するに違いない!
と、私は思わされました。

そして、この常識からはかけ離れたコントのような風景こそが、
イエスさまのいる風景であり、
それはユーモアあふれる風景だったのだろうと思わされました。

イエスさまのいる風景はユーモアにあふれている!
とこのことを、聖書を読むときの前提にしていいだろうと私は思います。
先週の場面で言うならば、
「主がご入用なのです」と私たちが主に用いられるとき、
それは私たちが完璧に主のために奉仕するというよりは、
主が踏ん張って私たちを支えながらも、しかし私たちに期待し、
さらに共にドタバタ劇をこなしてくださるという、
なんとも楽しい出来事が起こるわけです。
 
私たちのイエスさまと共なる日常生活でも、
そこでは人間が思うところの真面目さで事柄が起こされるのではなく、
まるでコントのような楽しさの中でイエスさまが働かれるに違いありません。

もしかしたら、先週のような総会も、
さらには礼拝も、
ドタバタコントのような場面を起こしつつイエスさまが共にいてくださるのかも知れません。

政治、宗教、教育、勤労など、
人間感覚では真面目さが常識的に求められるところで、
イエスさまも本当にそれを望まれておられるのか?。
私は単純に疑問を抱きました。

もっとすべてがユーモラスであるままにユーモラスである風景が起こされはしないかなあ?と。

しかもこういう風景に生きることはこの国では関西が最も得意するところかも知れません(笑。

いかがでしょうか。