きぼう屋

生きているから生きている

教会生活

2012年03月20日 | 教会のこと
日本バプテスト京都教会の今週の週報巻頭エッセイです。

*************************

「教会生活」

私は「教会生活」という言葉が好きです。キリスト教会でよく用いられる言葉です。
同時に「信仰生活」という言葉もあります。これはキリスト教会ではもちろん、きっと全ての宗教で用いられると思います。

でも、キリスト教会は、
神によって不思議と出会った者たちが、常にさらに出会わされていくことを知りつつ、
決して閉じることなく、霊により自らが開かれて、
具体的に出会いの生活をする現場であるゆえに、
つまり単に内面や心の状態だけに作用する場ではないゆえに、
私は、その具体性を表す「教会生活」という言葉が好きです。

昨日土曜日の礼拝準備、会堂清掃には、男性5名、女性7名が参加されました。
本日の礼拝に集われるだろう、そしてそこでさらに出会うであろう仲間を覚えつつ、掃除し、準備をしました。
そして共に昼食を囲みました。食後のデザートとコーヒーも戴きました。
この場所に共に主イエスがいておられることをそれこそ感動しつつ実感できたと思いました。

一昨日金曜日の市役所前炊き出しにおける教会での事前準備には、男性6名、女性8名が参加されました。
共に夕食を囲み、市役所で提供する雑炊を準備し、たくさんおしゃべりし、市役所へ向かいました。
とてもあったかく、主イエスの温もりを実感できたと思いました。

火曜日、水曜日、木曜日は、それぞれ祈祷会が持たれました。
火曜日と木曜日は食卓も囲みました。

月曜日や土曜日のホームレス支援奉仕もいつも多くの方が参加されます。
いずれもとてもあったかいです。

聖書は、救いがこのような生活のただ中にあることを語ります。
生前の主イエスは当時の生活のただ中で人々を救われました。
また救いの場面では宴会をはじめ食事を囲むケースが多いことは偶然ではありません。
そして「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:21)」と主イエスは宣言されます。
人々が共に生活するその間に神の国が現われるのです。

私たちは、いよいよ増改築に向けて本格的に歩みだします。
増改築の本質は、
実は、単に礼拝のみならず、いろんな教会生活を繰り返す中で、
その神の国の感触が体に染み付いたときに発見されるのだろうと思います。

会堂を清掃するとき、
食事を囲むとき、
教会学校で交わるとき、
会議をするとき、
子どもと遊ぶとき、
ちょっと疲れて教会のどこかで休むとき、などなど、
そういうときに主が伴われる会堂の本質が発見され、イメージが膨らむはずです。
必要とされるスペースの広さ、色、肌触り、におい、音、などなどが、見えてくるだろうと思います。
そして何よりも同じ空間に十字架を背負いつつおられる主イエスが生々しく見えてくるはずです。

一般の家庭でも、
外に働きに出る者に比べ、常に家で家族と交わり、家事をしている者が、
より鮮明に家の本質を体全体でつかみ、イメージを広げると思います。

「教会生活」の充実は、実は救いの充実であり、増改築の充実となる!
と、私は思うのです。

いかがでしょうか。