今週の日本バプテスト京都教会週報巻頭エッセイです。
*************************
「311を生きる教会」
東日本大震災から一年。本日の礼拝はまさに礼拝であることが求められる。
同時に主がいつもに増して特別に礼拝を礼拝とするのではないかとも期待する。
今なお震災における十字架があふれる。死、苦難、悲痛、不安、叫びがある。
この十字架は被災地だけにあるのではない。京都の地にいる私たちの間にもある。
地震、津波、原発事故の十字架はすべての者が負っているはずのものである。
私たち教会、信仰者は昨年の3.11から今に至るまで、
「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか(ガラテヤ3:1)」
という事実と向かい合っている。
否、
向かい合うべきでありつつ、十字架の主の姿を見ぬふりをしている自分たちをも発見する。
その時に私たちは、
十字架の立つ被災地と、それの立たない他の地域に区分することで、
被災地にいない私たち自身に安心感を植える。
ガラテヤ書でパウロはそのような区分のことを律法と呼んだのだろう。
十字架を負う者とそうでない私たちという区分こそ律法である。
そして私たちは自らが十字架を負わないために律法を守ることに懸命になる。
しかしそのような私たちに向かってパウロは、
「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています(3:9)」と語る。
呪いとは、一部の者に十字架を、責任を、苦難を押し付けることなのだ。
続けてパウロは、霊を信仰により受け、祝福が全体に及ぶ道を示す。
まさに全体である。
パウロはユダヤ人とギリシア(異邦)人、奴隷の者と自由な者、男と女という区分を否定し、
「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ(3:28)」と語る。
被災地とそれ以外の地域という区分はない。
私たちは目の前で十字架につけられたキリスト・イエスにおいて一つなのだ。
逆に言うならば、
十字架のキリストにおいて私たちは3.11の十字架を背負う者とされるのだ。
この十字架を私たちにつなげるものこそが霊なのだ。
一年が経ち、私たちはこの間に多くの律法が生まれていることを知る。
震災において困窮にある他者との出会い、つながりのない中で、なんらかの結論が語られるならば、
それらは全て律法となる。
苦痛あふれる顔を正面から見ることなしに震災に関する総括めいた言説が起こるならば、
それらは全て律法となる。
その中で私たち信仰者はまさに信仰を選ぶ。
それは二つのものを一つとする霊の働きに委ねることだ。
霊は必ず私たちを現場の十字架とつなげる。
その前では今なお沈黙せざるを得ない十字架とつなげる。
十字架抜きの結論を恵みと勘違いすることに注意したい。これは律法であり呪いである。
私たち教会は信仰者の群れとして、
十字架を担いあう祝福へと導かれるままに導かれたい。
その道は始まったばかり。
キリストが私たちを「律法の呪いから贖い出して下さった(3:13)」。
*************************
「311を生きる教会」
東日本大震災から一年。本日の礼拝はまさに礼拝であることが求められる。
同時に主がいつもに増して特別に礼拝を礼拝とするのではないかとも期待する。
今なお震災における十字架があふれる。死、苦難、悲痛、不安、叫びがある。
この十字架は被災地だけにあるのではない。京都の地にいる私たちの間にもある。
地震、津波、原発事故の十字架はすべての者が負っているはずのものである。
私たち教会、信仰者は昨年の3.11から今に至るまで、
「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか(ガラテヤ3:1)」
という事実と向かい合っている。
否、
向かい合うべきでありつつ、十字架の主の姿を見ぬふりをしている自分たちをも発見する。
その時に私たちは、
十字架の立つ被災地と、それの立たない他の地域に区分することで、
被災地にいない私たち自身に安心感を植える。
ガラテヤ書でパウロはそのような区分のことを律法と呼んだのだろう。
十字架を負う者とそうでない私たちという区分こそ律法である。
そして私たちは自らが十字架を負わないために律法を守ることに懸命になる。
しかしそのような私たちに向かってパウロは、
「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています(3:9)」と語る。
呪いとは、一部の者に十字架を、責任を、苦難を押し付けることなのだ。
続けてパウロは、霊を信仰により受け、祝福が全体に及ぶ道を示す。
まさに全体である。
パウロはユダヤ人とギリシア(異邦)人、奴隷の者と自由な者、男と女という区分を否定し、
「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ(3:28)」と語る。
被災地とそれ以外の地域という区分はない。
私たちは目の前で十字架につけられたキリスト・イエスにおいて一つなのだ。
逆に言うならば、
十字架のキリストにおいて私たちは3.11の十字架を背負う者とされるのだ。
この十字架を私たちにつなげるものこそが霊なのだ。
一年が経ち、私たちはこの間に多くの律法が生まれていることを知る。
震災において困窮にある他者との出会い、つながりのない中で、なんらかの結論が語られるならば、
それらは全て律法となる。
苦痛あふれる顔を正面から見ることなしに震災に関する総括めいた言説が起こるならば、
それらは全て律法となる。
その中で私たち信仰者はまさに信仰を選ぶ。
それは二つのものを一つとする霊の働きに委ねることだ。
霊は必ず私たちを現場の十字架とつなげる。
その前では今なお沈黙せざるを得ない十字架とつなげる。
十字架抜きの結論を恵みと勘違いすることに注意したい。これは律法であり呪いである。
私たち教会は信仰者の群れとして、
十字架を担いあう祝福へと導かれるままに導かれたい。
その道は始まったばかり。
キリストが私たちを「律法の呪いから贖い出して下さった(3:13)」。