きぼう屋

生きているから生きている

十字架の主を信じる

2011年04月18日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

********************

「十字架の主を信じる」

19日から22日にかけて、私は石巻と気仙沼に入ります。
そこで既に現地入りされている方からアドバイスを頂きました。
それは、広がっている風景に言葉を失い、心身が反応すらできず、
その瞬間に重たくなり、疲労し、押し潰される、というものです。

私は、十字架の主をと出会うことがゆるされている事を、今ほど実感した時はありません。

街、命、交わり、日常、歴史、慣習、文化など、
すべてが壊れている状況と出会い、
私たちは何ができるのでしょうか。

恐らく現場で直接出会うならば、
まず知らされるのは、
こちらからかけることのできる言葉がないことだろうと思います。
被災生活を送られている方と目を合わすことも容易いこととは思いません。
ただただ、私の弱さを思い知り、私の限界性の前で身動きがとれなくなり、
自信を失うどころか、私という存在を見失うことになる経験をするのだと思います。

つまり、これまで私が40年かけて養ってきた知識や技術、経験はほとんど役に立たないはずです。
それらを役立てようと試みるならば、その時点で大きな失敗をしたことにすらなるはずです。

そんな中で、唯一できること。
それは、
ただただ、同じ時間と空間に一緒にいること。
ただただ、一緒にいることがゆるされた被災者や街の声や表情、体のちょっとした動きを共有すること。
それは、
ただ黙って一緒に泥をかき、一緒に汗を流すと言うことかもしれませんし、
避難所の子どもたちと遊ぶことかもしれません。
でもその中で、
隣の人の行為のひとつひとつが、予想以上に脳裏に焼きつくだろうと思います。
全神経が集中され続けるのだろうと思います。
そして、隣の人の苦難をいつの間にか共に背負うのだと思います。

主イエスが、その現場に伴われるから、
それも、力強くではなく、破壊された街と人々のすべてを十字架で背負い、
その苦難を最も味わっておられる方として伴われるから、
私たちも、十字架の主に委ね、被災地の苦難を共有できると信じています。

十字架の主が道を開きます。