1) はじめに
原発事故がレベル7となり、未曾有の体験をすることとなった。しかし地震や津波と異なり、また戦争とも異なり、放射線被災は目に見えないため、実際の被災地域がどこであるのか、誰が被災しているのかが、目視にて確認することができず、情報から判断するしかない。そして情報から死にもかかわることを判断することこそ、未曾有の体験である。
地震や津波、戦争においては、命を脅かすことがあきらかな場合、我々は避難する。放射線においても同様のはずである。しかし、放射線においては、どの情報を元にして、命を脅かす度合いを導き出したらいいのかが難しい状況となっている。さらには五感を通じて確認できないことから、命が脅かされていることに気が付くことができない場合さえある。
2) 放射線被災地の確定と確定後の施策
放射線による被災地がどの範囲におよぶかということは、自己責任にて決定すべきことではない。政府を始め各行政は範囲を確定している。そこでまず私たちは行政府に委ねることができる。しかし情報が錯綜している今、また信頼性を失っているとも語られている今、各団体は、各自情報を分析し、独自に被災範囲を確定するに越したことはない。
各団体が独自に被災範囲を確定した後は、そこからどのような施策を導きだすのか。それはそれぞれ団体の理念にかかわってくるが、私は牧師であるので、キリスト教会の場合を考えることとする。各教派や教会は、それぞれ、信仰的な決断として、施策を導きだすこととなる。
それは極端に言うならば、情報から判断してもわからないので、ただ主に委ね、祈りつつ、それまでの生活形態を保つという信仰から、最悪のケースを語る情報に従い、神に創られたいのちを守るために、できるだけ避難する、というものまであるだろう。
さらにそこに、教会の交わり(関係性)という大切な問題も絡む。どんな苦難にあっても共に生きている仲間と一緒に苦難の中を歩み続ける、というものだ。
その中であらゆる信仰的決断が起こされる可能性がある。しかし未曾有の経験においては、正しい決断と誤った決断を見分けることはできない。どのような決断が下されたとしても、その決断が信仰的に選び取られたということが大切なのである。
3) 被災者に寄り添う活動と、それ以外の活動は異なる。
そして恐らく2)の結果としては、爆発などの五感でわかる出来事があった場合は別として、主に委ねつつ、主の十字架の下で共に生活し続ける、と選択されるケースがほとんどと思われる。
そこで教派、教会は、その決断と同時に、被災地内で生活する者の苦難、不安に寄り添う施策を用意する必要がある。全国の教会にて、覚えてとりなしの祈りをなす活動から、現地に入り寄り添う活動まである。
そして、寄り添う活動の場合は、教会の確定した放射線被災地の内側であろうと、活動者は主と共に現場に入り活動をする。そして全国の教会は、被災者と活動者を全力で支える。
しかし、他の場所でも可能である会議などは、教会の確定した被災地外で行うことが望ましい。とりわけ公の活動の場合は被災地外ですべきである。つまり、数十年後にしか症状が現れない被害に対して責任をとる方法はこれしかないからである。
被災者に寄り添う活動と、それ以外の活動を同じ基準で判断することはできない。
そして寄り添う活動以外の活動が、被災地内と確定された場所で行われる場合には、信仰的決断ゆえに、そこに参加できない者があることを尊重せねばならない。
4) 放射線被災関連の出来事は比較すべきものがない
放射線の恐怖がある中で、その恐怖を覚えつつ活動をするか、恐怖を覚える必要のない環境で活動するか、を、選択をする機会が起こる。もし原発が今後さらに被害を及ぼすならば、数年は事あるごとに選択を迫られることとなる。
その場合は、他のあらゆる事象と比較をすることを避けねばならない。放射線物質による被災は未曾有の出来事である。未曾有である以上比較はできない。
たとえば、過去の大きな災害のとき(地震、戦争など)にはこうした!というケースから導き出すことはできない。それぞれの団体の歴史的事件と比較することもできない。たとえばバプテストならば、「バプテストはこういう苦難の只中で起こったのだから、今回も!」ということにはならない。
当然のことであるが、命の安全のために被災地と確定された場所に入らない者と、被災地に入って活動する者を比較し、優劣をつけることはゆるされない。「危険を顧みず」「命を惜しまず」という言葉は使用されてはならない。これらは戦後破棄された言葉であるはずだ。
あるいは、津波被災者は選択肢のないまま生きているから、放射線物質が降る可能性があっても私だってこの土地に残る、というような、とくに現在において起こりやすいところの、地震や津波被災者との比較もする必要がない。
さらに、放射線を浴びた場合の癌発症率などを、交通事故死や自殺者の率と比較することもできない。交通事故で死ぬ確率と同じくらい、という理由で「大丈夫」と言ってはならないはずだ。
唯一、比較しながら参考にできるのは、チェルノブイリの事故のみであろう。チェルノブイリ事故後の施策から、今回の施策を導き出すことが可能な部分も多いと思われる。
しかし基本的には、比較対象がないことを肝に銘じる必要がある。
原発事故がレベル7となり、未曾有の体験をすることとなった。しかし地震や津波と異なり、また戦争とも異なり、放射線被災は目に見えないため、実際の被災地域がどこであるのか、誰が被災しているのかが、目視にて確認することができず、情報から判断するしかない。そして情報から死にもかかわることを判断することこそ、未曾有の体験である。
地震や津波、戦争においては、命を脅かすことがあきらかな場合、我々は避難する。放射線においても同様のはずである。しかし、放射線においては、どの情報を元にして、命を脅かす度合いを導き出したらいいのかが難しい状況となっている。さらには五感を通じて確認できないことから、命が脅かされていることに気が付くことができない場合さえある。
2) 放射線被災地の確定と確定後の施策
放射線による被災地がどの範囲におよぶかということは、自己責任にて決定すべきことではない。政府を始め各行政は範囲を確定している。そこでまず私たちは行政府に委ねることができる。しかし情報が錯綜している今、また信頼性を失っているとも語られている今、各団体は、各自情報を分析し、独自に被災範囲を確定するに越したことはない。
各団体が独自に被災範囲を確定した後は、そこからどのような施策を導きだすのか。それはそれぞれ団体の理念にかかわってくるが、私は牧師であるので、キリスト教会の場合を考えることとする。各教派や教会は、それぞれ、信仰的な決断として、施策を導きだすこととなる。
それは極端に言うならば、情報から判断してもわからないので、ただ主に委ね、祈りつつ、それまでの生活形態を保つという信仰から、最悪のケースを語る情報に従い、神に創られたいのちを守るために、できるだけ避難する、というものまであるだろう。
さらにそこに、教会の交わり(関係性)という大切な問題も絡む。どんな苦難にあっても共に生きている仲間と一緒に苦難の中を歩み続ける、というものだ。
その中であらゆる信仰的決断が起こされる可能性がある。しかし未曾有の経験においては、正しい決断と誤った決断を見分けることはできない。どのような決断が下されたとしても、その決断が信仰的に選び取られたということが大切なのである。
3) 被災者に寄り添う活動と、それ以外の活動は異なる。
そして恐らく2)の結果としては、爆発などの五感でわかる出来事があった場合は別として、主に委ねつつ、主の十字架の下で共に生活し続ける、と選択されるケースがほとんどと思われる。
そこで教派、教会は、その決断と同時に、被災地内で生活する者の苦難、不安に寄り添う施策を用意する必要がある。全国の教会にて、覚えてとりなしの祈りをなす活動から、現地に入り寄り添う活動まである。
そして、寄り添う活動の場合は、教会の確定した放射線被災地の内側であろうと、活動者は主と共に現場に入り活動をする。そして全国の教会は、被災者と活動者を全力で支える。
しかし、他の場所でも可能である会議などは、教会の確定した被災地外で行うことが望ましい。とりわけ公の活動の場合は被災地外ですべきである。つまり、数十年後にしか症状が現れない被害に対して責任をとる方法はこれしかないからである。
被災者に寄り添う活動と、それ以外の活動を同じ基準で判断することはできない。
そして寄り添う活動以外の活動が、被災地内と確定された場所で行われる場合には、信仰的決断ゆえに、そこに参加できない者があることを尊重せねばならない。
4) 放射線被災関連の出来事は比較すべきものがない
放射線の恐怖がある中で、その恐怖を覚えつつ活動をするか、恐怖を覚える必要のない環境で活動するか、を、選択をする機会が起こる。もし原発が今後さらに被害を及ぼすならば、数年は事あるごとに選択を迫られることとなる。
その場合は、他のあらゆる事象と比較をすることを避けねばならない。放射線物質による被災は未曾有の出来事である。未曾有である以上比較はできない。
たとえば、過去の大きな災害のとき(地震、戦争など)にはこうした!というケースから導き出すことはできない。それぞれの団体の歴史的事件と比較することもできない。たとえばバプテストならば、「バプテストはこういう苦難の只中で起こったのだから、今回も!」ということにはならない。
当然のことであるが、命の安全のために被災地と確定された場所に入らない者と、被災地に入って活動する者を比較し、優劣をつけることはゆるされない。「危険を顧みず」「命を惜しまず」という言葉は使用されてはならない。これらは戦後破棄された言葉であるはずだ。
あるいは、津波被災者は選択肢のないまま生きているから、放射線物質が降る可能性があっても私だってこの土地に残る、というような、とくに現在において起こりやすいところの、地震や津波被災者との比較もする必要がない。
さらに、放射線を浴びた場合の癌発症率などを、交通事故死や自殺者の率と比較することもできない。交通事故で死ぬ確率と同じくらい、という理由で「大丈夫」と言ってはならないはずだ。
唯一、比較しながら参考にできるのは、チェルノブイリの事故のみであろう。チェルノブイリ事故後の施策から、今回の施策を導き出すことが可能な部分も多いと思われる。
しかし基本的には、比較対象がないことを肝に銘じる必要がある。