きぼう屋

生きているから生きている

葛藤の只中で

2011年04月10日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「葛藤の只中で」

大震災が起きて明日で一ヶ月。
3.11という日付以後のこの島は、間違いなく変化すると私は思います。

まず最も大きな変化は、宗教の重要性を再発見したことがあります。
死者の弔い、遺族のグリーフケア、
そして苦難を共に背負い、共に希望を見出すという作業は、
各宗教者によってなされています。

さらに、
これまでは、各宗教、各宗派が教義の違いにより、
つながりが薄かった面がありましたが、
現在の支援活動では、
それぞれの根幹の倫理、
つまり、苦難にある者に寄り添うということにおいて一致し、
共に活動ができている点があります。

これは宗派間のみならず、宗教間の壁も突破しています。

そしてこれからは、
他者に寄り添うための動機となる教義として、
それぞれの宗教、宗派の教義が語られることになっていくのではいかと思います。
だから、教義が原理となることで無駄な対立を生むことは減るだろうとも想像します。
またお互いに寄り添うための教義ならば、
その行為の大変さゆえに、
それぞれ深く信仰を持つこととなり、
信仰間対話も深くなると予想します。

つまり、共に生きるときに必ず起こるところの、
人と人との葛藤の只中で生きるための倫理を教義から見出すゆえに、
宗教間の葛藤をも豊かに受容されることになるのです。

次に、
すべては具体的な場所(現場)である被災地と、
具体的な他者である被災者における、
想像を絶する現場だからこその被災者たちの葛藤があることを、
私たちは覚えたいと思います。

そしてその葛藤に、主に委ねつつ寄り添うところから、
すべてがはじまり、語るべき言葉も生まれます。

きっとこの島全体で、現場の葛藤からの言葉が求められるようになり、
逆に現場の外からの評論的言説は力を持たなくなると思います。

ただただ、
現場に立つ十字架にて、
キリストが苦難にある者たちの葛藤をそのまま引き受けられる中で、
人も苦難者に寄り添うことができ、
言葉を生み出すことができるのです。

恐らく京都の私たちは、
日本で今回の災害を経験していない数少ない者たちだと思います。
揺れも、津波も、放射性物質も、停電も、街が暗くなることも、
学校や会社のスケジュールが変わることも、商品が消えることも
経験していません。

そういう意味では、
現場の存在たちの苦難から最も遠く感じ、
逆に心苦しい面もあるかもしれません。

でもだからこそ、
十字架のキリストの前に立ち、
十字架のキリストによって苦難者と結ばれることを信じて、
本日も、とりなしの祈りを、共に献げてまいりましょう。