きぼう屋

生きているから生きている

提言その2

2009年07月18日 | 「生きる」こと
週報巻頭言に数回にわけて掲載している
日本バプテスト連盟中長期計画への提言です

その1
は少し前にあります

さて
明日から小学生キャンプ
わたしがウキウキしてしまいます
こういうところは子どもじみていてだめですねえ



************************

3) 格差、貧困と個々人

 貧困層が起こり、格差社会となった現代社会は、極論ではなく勝ち組と負け組みとで構成されるようになった。そこでは勝つための競争が起こる。さらには勝ち組となるための教育も始まった(京都市では高校の授業でマクドナルドの経営戦略を学ぶ)。
 競争は同時に分断を生む。ある個人が勝ち組となることは同時に他の個人を負け組とすることである。
 現代における貧困は、分断された個々人の貧困である。貧困に苦しむ者は、同時に分断され孤立していることに苦しむ。競争において分断され貧困となった時、人はその苦しみを共有する関係にある他者をも失っている。つまり「共に苦しむ」仲間がいない。さらには貧困となった原因を自分に見出し自己否定することで(自己責任論)、自分との関係をも失っていく。したがって当委員会は、ホームレスを「ホーム(関係性)」の「レス(喪失)」と認識する。貧困の大きなテーマのひとつは、孤立からの解放であり、関係性の回復、ホームの形成である。そして分断とのたたかいであり、人間の恢復である。
 勝ち組は苦しむことがないかと問うならば、私は勝ち組こそ決定的な苦しみを内包していると言わざるを得ない。まずは勝ち抜いた人も孤立している。「共に喜ぶ」仲間がいない(勝つことが喜びであるとは本来言うことができないが)。また競争を勝ち抜いたということは、他者を踏みつけ、他者から搾取したことであるが、それを自覚しないよう調整しつつ生きることは苦しみではなかろうか。仮にそれが無意識であったとしても。人はこういう場面でさばかれるのを待っている。そしてさばかれるゆえに存在を赦され、次こそは他者を踏みつけるのでも搾取するのでもなく、別の道を歩むことを希む。しかしそれでも同じ道を繰り返すときにはもう一度さばかれる。これが信仰である。
 勝ち組、負け組という枠組みとは関係なく、現代の格差・貧困社会の中での大きな課題は「個人」である。分断された個人とは他者と出会うことのない個人である。そこで個人はおのずと自らを世界の大きさまで肥大化することになる。先ほどナンシーの、現在の経済は「超」経済という正体不明のものとなった、という論を紹介したが、個人もまた「超」個人となり、いまや正体不明のものとなった。あるいは「超」人間と言えるかもしれない。すなわち、今われわれは人間であることを止めて、人間を超えようとしている。これこそ、自分自身の、あるいは個人の偶像化、つまり人間の神化ではなかろうか。そしてそれは個人が世界になるはずのないところで、世界となろうとする不思議な挑戦である。しかしその挑戦に生きる者は自身が世界全体となる幻想を抱く。そこではアイデンティティが肥大化する。その現象は、個人主義と信じつつ国家やなんらかの力と自身を一体化させるかたちで現われる。平たく言うと長いものに巻かれることが個人主義を信じるゆえに起こる。個は他者との出会いからのみ起こされるが、他者との分断からは起こされ得ない。他者と共に生きる中で個人は個人とされるが、分断される中では個人は「超」人間という肥大化した幻想体となる。そしてその幻想体はそれぞれの時代地域の中で最も大きな力と必ず結びつく。つまりそれにより自身が最も肥大化できるからだ。そしてこの個人という名の「超」人間が「超」経済というグローバリゼーションを産み出した。