きぼう屋

生きているから生きている

2007年12月17日 | 教会のこと
虹がすべてを締めくくってくれた

聖書の約束のように
すべての時間と空間をつなげる
仲介者として
虹が啓示されたと
信じてみたっていい
と思った

昨日
日本バプテスト京都教会の
子どもクリスマスが
豊かな内容とともに
終わった

その内容は
子どもたちを迎える
若者たちとおばさんたちの
信仰と祈りと
そこから起こされる隣人性

わたしはかたちをつくりたくない
わたしたちが信じるのは
キリストのかたちのみ
それは祈りと交わりと
その交わりで綾となる言たちとして
あらわれてくることを信じている

若者たちはまたもや前日から教会に住まい
子どもたちのために
丁寧、さらに丁寧に
言を交わし準備をする

当日どうしても仕事のために来られない者も
前日夜遅くまで
丁寧に、さらに丁寧に・・・

当日朝の礼拝は
どうしても会社の用事で来られない者も
前日夜遅くまで
丁寧に、さらに丁寧に・・・
そして
午後の子どもプログラムには
飛んでくる

おばさんとおばあちゃんも
火曜日、土曜日と
丁寧に、さらに丁寧に
子どもたちを覚え
準備を重ねる

なにしろ丁寧だった

だから迎えるみんながのびのびしていた

つまり
みんながあらゆることを共有して迎えているのだ

共有するための場が必要
という声がよくあるが
共有する時間と場は
信仰と祈り
そこから出てくる隣人性、交わり
に生きるなら

主体的につくることができるのだ

そこに
人がつくるのではない
キリストのかたちが現れることを
信じたっていいだろう

それはキリストの出来事として
地が盛り上がり泉がわくごとく
盛り上がってくるのだ

統一感はまったくない

個性あふれる司会
個性あふれる賛美指導
個性あふれる朗読
個性あふれるゲーム進行

そんなのにつられて
わたしも話をすることができる


それが見事に調和する
なにがそうさせるのか

信仰と祈りと隣人性

平易に言うなら
子どもたちに向かう全身全霊

ここははずせない
他者に向かう全身全霊を与えられるとき
僕らは
その時がおどろくほどに満たされるのを知る


集った子どもたちが
そういう人生の先輩たちのなんらかの言葉や動きを
そのひとつでも
身体に記憶してほしいと
願い祈る

いや
きっとこれからけっして楽ではない人生を歩む中で
ふとしたときに
想起されるだろう


そして
プログラムを終えようとしたときに
突如あらわれた虹

大きな虹が
二重になっている

子どもよりおとながさわぐ
そうなんだ
虹の感動は
人生の深い綾を
痛みつつ経験しているものでないと
さらに深い亀裂を
涙しつつ経験しているものでないと
わからないのだ


その虹が
教会からほど近い
走れば2分でつくだろう
京大病院からのびている

その虹の出所に立ったら
地球の転がるすべての
ふかいふかい困窮と
しかしそこから染み出すキリストと
つながるのではないかと
本気で思った

そう思って
子どもクリスマスが終わったのは
キリストによるしかないと
信じるしかなかった

主よ
なにしろ
子どもたちを
救ってください

アーメン