きぼう屋

生きているから生きている

2007年12月07日 | 平和のこと
憲法9条京都の会(仮称)第一回準備会

昨晩、当教会にて開催された。

50人も参加した。
これまで地道にやってきていることは
確かに実を結んでいると思う。

30人くらいと予想していたから
そういう規模の部屋と
それくらいのレジュメとお茶を
最初に用意していたわけだけど
そりゃああたふたしながら
でもうれしく
ぎゅうぎゅうづめの部屋で
会議をした。

顔を具体的にあわせるということが
なにしろ一番大切
というのが何をするにしても
わたしの信じているところ

50の顔が互いに見合ったという事実が
最底辺を支える力となる。

レヴィナスが「他者」を「顔」から語ってくれたことが
最近
教会やさまざまな運動を生きる中で
実感としてわかることがうれしい。


もう今週いっぱいだと思うが
ひとまち交流館にて
大野のり子さんの写真展が開催されている。
ありがたいことに入場無料

黄土高原の小さな村々に生きる人々の
顔写真が並ぶ。

その村々と人々は
旧日本軍により
すべてを奪われた。

略奪、レイプ、殺戮
それらが極めて屈辱的な仕方で繰り返された。
日中戦争における三光作戦と呼ばれるものだ。

大野さんはたまたまその村を訪れたという。
戦後その村に入った日本人は大野さんが初めてだったとのこと。

しかし村人は歓迎してくれた。
大野さんはそこで生活をはじめ
交わりが築かれていく。

そして顔を見て、写し、残す。

当教会の礼拝に参加してくれている学生の出身高校が
この写真展を共催している関係で
わたしは村人の顔たちに出会うことが
多少できた。



わたしたちは自分の顔を見ることはできない。
わたしの顔を見るのは他者だ。
この事実を忘れてはいけない。

だからわたしは端的に他者の顔を見る。
わたしは端的に他者から顔を見られる。

そこから知ることのできる「他者」と「わたし」
については
レヴィナスが教えてくれるだろう。
近年文庫で新しい訳も出ていると聞く。
「全体性と無限」という邦題だったか。


なにはともあれ

他者の顔のひとつひとつの動きを丁寧に見る
という生き様を選び取るならば
それはつまり
常に誰かの傍らにいるということでもあるが
そうするなら

見えるべきを見る
聞こえるべきを聞く
知るべきを知る
生きるべきを生きる

ことが起こるのではないだろうか。

顔ですよ。
するとね
時代と地域に制約された
きれいとか
美しいとか
かっこいいとか
いうのとは
まったく違う次元で
しかしそれこそ真実であるところの

きれいで美しくかっこいい顔

知ることにもなることは
間違いない
ところでしょうなあ。

昨晩集まった50の顔は
美しかった。
お世辞ではなく・・・