きぼう屋

生きているから生きている

愛だ!

2007年11月09日 | 「生きる」こと
本夕に行われる骨髄バンク支援音楽会
ぜひとも。

先生とドナー経験者の対談。
そこではドナーの他者に向かう想像を絶する思いがある。
この想像を絶する思いに至って
初めて

という事柄が生まれるのだろう。

提供するためには壮絶な体調管理が必要となる。
100回以上注射を打たれる。
他者が生きるために
他者を生かすために
提供者は健康を相当削られる。

しかし
そういう事実を受け入れつつ
他者のために自らを削る。

こういう体験談はできるだけ数多く聞いていたほうがいい。


妻がスタッフを勤めるNPO
歴史と通して差別と困窮に苦しみ続け
年老いた人たちと共に生きる。

あるお年寄りが病で入院した。
おそらく病院、施設という生活がこの後整うだろう。
しかし同時に家に戻ることはおそらくない。

そのお年よりは犬を飼っていた。
でも躾はしておらず
どこでも用を足してしまう犬だ。

でも
その犬をしばらく預かってくれるという人があらわれる。
これだけでも驚きの喜びだ。

でもずっと、というわけにはいかない。
そこで関わる仲間たちが知恵を絞る。

6万円でずっと預かってくれる施設があることがわかる。
しかしそのお年寄りは生活保護受給者
6万円は出ない。

しかし
他者のために身を削ることに
生きる本質を見出している者たちは強い。

カンパだ!

ひとり1,000円で60人。
それだけ身を削る人を集めるのは容易ではない。
みんなでいろんな顔を思い浮かべる。

あのスタッフたちからひとり500円。
この病院の先生は5000円出してくれるに違いない。

そうやって目途を立てる。


そのNPOでかかわるお年寄りには
若きころ廃品回収を営んでいた人が多い。

すると今も廃品を家に集める人がいる。
その人の家の中は外よりも汚れている。
しかし
彼に定期的に会いにいくスタッフや医者、ケースワーカーは
それを微笑みつつ受け入れる。

みんなナイロンの買い物袋をふたつ持っていき
靴下にかぶせてその家にあがる。
そうすることで靴下をよごすことなく
次の家にもあがることができる。

でもひとりの医者はそのまま靴下を汚してあがる。
そうすることによりそのお年寄りの生活をより共有できる。
次の家にあがるときは靴下を換える
と思いきや
それはしない。
次の家の人も
その医者を介して
前の家のお年寄りの生活を共有する
ことが起こる。

自分を削って他者の生を活かす者たちの特徴であるが
彼らは
そういうありとあらゆる状況を
そしてそれはどれも困難な状況であるが
それを微笑みつつ笑い飛ばしつつ受け入れる。
さらに変な遠慮はなくなる。
生命に堂々と立っている。

愛とはこういうものだ。


教会の役員会でクリスマスについての話し合いをした。
わたしは
例年行っている交換プレゼントは今も意味を成すか
と問うた。

ひとりの役員が言った。

他者のためにプレゼントを選ぶという行為が年に一回あることは重要だ。

まったくその通りだ。
感動した。

友人の牧師の
トンゼレプ
というタイトルの説教を思い出した。

これはプレゼントを逆さに読んだものだ。

プレゼントとは
他者のために自分を削るという行為である。
だから他者にとってはプレゼントだけど
自分にとってはトンゼレプである。

という内容。

今年はこのプレゼントの意味を
教会全体に浸透させたく願う。


プレゼントは愛だ。
愛の時
クリスマスにおけるプレゼントは
まさに
自分を削ることだ。


そして愛は具体的行為。

自分の時間や健康やお金を削ることをせずに
他者に向かっていったとしても
その他者は何も受け取ることはない。
とりわけ愛を受け取ることはない。

自分の時間やお金やスタイルや意志を削ることなしに
しかし愛を語る者が多いのが
現代の宗教の誤りであり
信仰者の大きな罪だ。

削ることなしに語られてしまうそういう言葉は
日々削ることに燃やされる人たちを最も苦しめる。

それはあらゆる生命のために自らを削り続ける
キリストを最も苦しめる。


ここに教会の弱点がある。
これ以上は書かないがよくよく吟味されたい。
そして京都教会は
教会となる。
ここは言い切りたい。

それは既存のほかの教会をまねることでどうにかなることではない。
キリストと共に創造していくしかない。
それに参与する者が
キリスト者だ。

つまり

自らを削る覚悟と決意
愛する覚悟と決意
愛という痛みを担う覚悟と決意

自らの十字架を背負えとイエスに言われているように背負う覚悟と決意

復活を知るからこその覚悟と決意。


それこそ
キリストが身を削るからこそ
プレゼントされることを信じ
それをど真ん中にして生きるのが
キリスト者!

つまり

愛だ!