きぼう屋

生きているから生きている

人間の業を超えて

2007年11月05日 | 教会のこと
神秘主義者じゃあないけれども
バザーの一連の活動ではこんなこと考えてました。

何万点の品があったかわからないけれど
そのひとつひとつがささげられて
そのひとつひとつを手にもって
それをどういう人が必要とするだろうって思い巡らしつつ
丁寧に値を付けていく仲間たちがあって
それらを丁寧に会場に並べる仲間たちがいて
そして並んだ品々というのは

それぞれの歴史であり
出会いであり
愛であるなあ

と思いました。

品々たちには
もはや何かが宿っているのではないか
とも思えるほどでした。


そういう品々を通じて出会う来場者と奉仕者は
品とお金の交換というルールで結ばれるのではなく
そういう品々に宿る愛を通じて結ばれる

もはや信じたいと思っています。

品々たちと丁寧に出会う作業のみならず
会場に貼られたさまざまな案内ポスターも
とても丁寧につくられました。

子どもたちを迎えるための企画も
愛情込めて整えられていました。

そのどれにしても

何のマニュアルもないところで
準備する仲間めいめいが
当日の状況をイメージしつつゼロから作り上げたところに
出来上がったものの美しさがあったのだと思いました。

私はマニュアルが嫌いなので
混乱しすぎない程度の最小限のマニュアルだけしか用意しないので
あとはみんなでいちいち考えて作り出さねばならないのは
結構しんどい作業なわけですが
みんな見事にやりきってくれていて
驚きつつ感謝してます。

今回のバザーを通じて
京都教会のバザーってこういうものなんだなあと
ひとつの結論をいただきつつあります。

京都教会のバザーでは
教会関係者だけではなくて
教会の福祉関係、社会関係の活動を通じてであった仲間たちも
一緒に奉仕します。
このひろがりには美しさを覚えます。

バザーができる教会というのは
まずほとんど幼稚園や保育園があって
そこに通う子どもたちの親御さんたちという関係が
毎年コンスタントに与えられるという
そういう教会なわけですが

そういうのがない教会で
これだけの規模のバザーをすることができるようになったのは
教会の仲間たちが丁寧に他者と出会い続けた結果に他ならないなあ

感謝しているところです。

またこのあたりを丁寧に見つめて言葉にし分析することは
教会論を発展させるために必要だなあとも思ってます。

来年は11月4日の振り替え休日がバザーになりますが
実はこういう曜日になったときが
来場者が多いわけで
今からもう準備はスタートするわけでもあります。

本日はホームレス支援の炊き出しです。
今、これまたみんなで準備をしています。
これまた何のマニュアルもない中でスタートして
集まったみんなでよってたかって触れ合って
互いの呼吸や性格や特技を互いに身体で覚えあって
そして機能するというもので・・・

それをすでに6年間続ける中で
もはや人間の業を超えたものとなってきています。

しかし
こういうのにはひとつだけ条件が必要です。
それは
端的に共にいる
ということ・・・
時間空間を共にいることができるならとてもいいし
時間空間を共にいることができなくても
キリストでつながることを信じるわたしたちは
時間空間を越えて、覚えあい祈りあうなかでつながるわけで
これがまたとてもよく
そして必要なわけですが・・・

そういう生き方を決断した者が
今、とても豊かに実った果実を味わっているところなのだろうと思います。

だから私の仕事は
次のことを常に確認し呼びかけるだけです。

共に生きよう
覚えあい祈りあおう
キリストで
愛で
すでにつながっている・・・