きぼう屋

生きているから生きている

この曲がり角で自分を問う

2006年12月16日 | 「生きる」こと
教育基本法が変わってしまいました。

わたしはもちろん反対でした。
でも、賛成した議員を敵にするのもアホらしく・・・
敵にしてそれと戦うのは好きじゃあないし
うまいこといかないと思うし
そもそも
人間性に欠けることだから・・・

このテーマは人間性の恢復だと思う・・・
人間性失った人たちが変えたのは間違っていないけど・・・
じゃあこっちの人間性は保たれているかと問われれば・・・
胸をはることはできず・・・


やっぱり自分を律していないと
おのずと変えた人
とりわけ政治家を敵にしてしまうので・・・
するとその瞬間に
こっちの人間性が消えているということなので・・・

こういうときだからこそ
今の世界全体に流れる
人間性を失った中での流れの
根底の根底の根底を
徹底的にみつめる作業をせねばならない!

と思っているところです・・・

前の(もう前の言わねばならない寂しさよ)
教育基本法はひとことで言うとどんな法律だったか?
わたしはこんな風に考えています。

世界の全体幸福(宮沢賢治のことば)を希求し行動する個人の教育

いかがでしょう??

しかしこれが邪魔になったわけです。
なぜ?
それは
自分、そして自分の周囲の幸福をのみ求めるようになっているからではないでしょうか。
だから自己愛が大事で家族愛が大事で郷土愛が大事で愛国心が大事。。。

というか

というのはそもそも他者に向かうという普遍の働きではあるけど
それが自己、家族、郷土、国という枠を持つはずなく・・・

枠をもったとたんに愛は愛ではなくなるわけです。。。

つまり世界の全体幸福に向かうものなら愛であっても
そこに限定された枠があったら
それは愛ではなく
自分とその周辺の幸福に向かうのはもちろん愛ではなく・・・

そういう枠つきの愛の実質は
そのほかの排斥
という行為ではないでしょうか。。。。。

こんど教育基本法はつまりこのようにかわりました。

世界の全体幸福を希求し行動する個人教育から
自分の周囲の狭い範囲の幸福(最大で日本国)を獲得し行動する集団教育へと・・・・

おっと
そうそう、個人から集団へ
というところも変わりました。
「個人の尊重」がまったくなくなってしまいました。
変わったほうの法律は。。。

そしてここから自分自身を問うてみるわけです。

わたしは、
自分と自分の周囲、つまり家族や友人や教会の仲間などの幸福以上を
いつも希求してきたか?
とりわけ自分の家族が食えて住めて着れて遊べて学べてというのに
必要な金をまず第一に確保するなんてことをして
そういうのがかなわない多くの人を無意識にもあとまわしにしていないか?

してる
としか応えようがないのです。。。

そして多くの人が、
自分と家族がそうやって生きていける安全性、安定性を確保したいから・・・
つまり全体幸福でなく
狭い範囲の幸福を求めるから

するとおのずとその他を排斥するから
その行為を家族愛なんて呼びながら・・・

すると実に今回の教育基本法の変わったほうのものや
今提出されている新憲法草案と呼ばれる改悪案と
流れを同じくし・・・

その危険性に気が付かなくなる・・・

どういう危険性?

それが極端にでもなく
排斥した他者
とりわけ排斥した国との
戦争になるということ・・・

でも、そこまでわかってても
全体幸福を希求するまえに
範囲限定の幸福を獲得しようとする私自身がいる・・・

そうだ!
人間はあまりにもよわく
何かのルールでもって律してもらわないと
そういう理想というもので律してもらわないと
どんどんこの狭い幸福の流れに乗って
そこで追いやられた貧しき者を無視するようになる・・・

だから
だからこそ
法律は大切なんだと思います。

つまりそういう人間の自然な行動を止めて
世界の全体幸福を希求し、そのために行動する個々人となるために
教育基本法はあるべきなのだと思います。。。

だから
まずは

わたしが人間性を失わず
世界の全体幸福を希求できる
愛と希望と平和にたつ

そういう者になりたい。。。

と切に思っているところです。。。