視人庵BLOG

古希(70歳)を迎えました。"星望雨読"を目指しています。
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ナポレオンの「エジプト誌」とアルドゥス本

2005-12-04 05:52:23 | 文化

パシフィコ横浜で開催された図書館総合展でおこなわれた雄松堂書店のフォーラムにいってきました。
内容は
第1部:「発見されたエジプトー世界最大の本 ナポレオン「エジプト誌」講師 荒俣 宏
第2部:懐中のルネッサンスーアルドゥスが生んだ500年前の文庫本 講師 木谷 誠
で小生の関心を大変惹きつけるテーマでした。

というより、雄松堂書店がブースで展示していた「エジプト誌」とアルドゥス本の実物を見たかったというのが本音かもしれません。

ナポレオンの「エジプト誌」全巻は、荒俣氏が話していたように、大変大きな本で、氏自身が購入したときも自宅におけなくて、その当時勤めていた出版社に置かせてもらっていて、今は慶応大学にあるそうですが、結局3回くらいしか目を通さなかったとのこと。物理的に実際に使用するにはデカ過ぎる本なのです。

展示されていた「エジプト誌」は明治大学が所有しているもので、珍しく彩色されている判でした。図版はエジプトのメムノンの巨像で、昨年エジプト旅行で実物をみているので描かれた時代(ナポレオンのエジプト遠征時)との背景等の違いがみえて興味深かったです。

そして今回この「エジプト誌」がDVD化されてパソコン上で見ることが出来るようになりました。小生も試しに触ってみましたが結構使いやすかったです。ただPCモニターは30インチくらいのサイズがいいですね。
値段は30万円弱だそうですが、実物を買うとなると数千万円は下らないそうですから大変お買い得だと思います。
このようなデジタル・アーカイブでは国立情報学研究所東洋文庫所蔵のシルクロード研究の基本文献40冊をデジタル・アーカイブ化してネット公開をしていました。
日本でも着々とgoogleのように書籍のデジタル・アーカイブ化はすすんでいるようです。



展示されていたアルドゥス文庫は八折判のでした。これがあのアラン・ケイ(下記引用参照)がダイナブックの発想に繋がった本かと思うと感慨深いものがありました。

諸国漫遊バグ取り紀行 -インターネットで行く、点滴オヤジ世界の旅-
内、みにくいアヒルの子としての DTPより引用

<真に身近なメディアとはどんなものか>

 印刷本とはそもそも、どんな形で生まれたのか。
 それがどう変わり、歴史にどんな影響を与えたのか。
 そんなことを調べてみようと思い立ったのは、アルドゥス・マヌティウスに関して、コンピューター科学者のアラン・ケイが書いているものを読んだのがきっかけだった。

『アラン・ケイ』(鶴岡雄二訳、浜野保樹監修、アスキー)の前書き「あのころはどんな時代だったのだろうか?」で彼は、あるべきパーソナルコンピューターの姿として書物のような外見のダイナブックを思い描くに至った当時の心の流れを、以下のように記している。

「わたしは、ボール紙でダイナブックの外観を示す模型をつくり、どのような機能をもたせるべきかを検討しはじめた。このときにわたしが思いついた比喩のひとつは、15世紀の中葉以降に発展していった、印刷物の読み書きの能力(リタラシー)の歴史と、コンピュータの類似(アナロジー)だった。1968年に、同時に三つの画期的な技術に出会ったせいで、わたしは、ヴェニス(ベネチアの英語表記-富田)の印刷業者、アルダス・マヌティウスのことを思い浮かべずにはいられなかった。はじめて書物を現在と同じサイズに定めたのは、このマヌティウスだった。このサイズなら、15世紀末のヴェニスの鞍袋にぴったり収まるから!
 べつの言葉でいうと、アルダスは、いまや書物を紛失してもかまわないことを知った最初の人々のひとりだった。家屋敷を抵当に入れなくても、もう一冊買えるようになったからだ。かくして、書物は身近にもち歩けるものになった。マクルーハンはその『グーテンベルクの銀河系』のなかで、しばしば新しいメディアは、当初は古いメディアの内容を取り入れる、と指摘し、聖書の写本を例にあげている。わたしは、 FLEX マシンのようなデスクトップ・パーソナル・コンピュータは、企業や公的機関で使われるメインフレームの時分割利用のあとにくる、『グーテンベルク聖書』なのだということに気づいた。だが、聖書と同じく、FLEXマシンやその後のデスクトップ・コンピュータは、実際には時分割ターミナルのようなもので--したがって、短命に終わることを運命づけられていた。
 真にパーソナルな(あるいは、このほうがましだが、身近な)コンピュータは、アルダスの書物のようなものであるはずだった。
そして、うれしいことに、ゴードン・ムーアのような IC の魔術師が、シリコンは少なくとも三十年のあいだ、指数関数的に改良されていくということを、確信をもって予測していた。これは、ダイナミックな本--ダイナブック--としてのコンピュータは、実現可能なばかりではなく、誕生しなければならない、ということを意味した。そして、これには規範となる先例が過去にあった。」(18頁)

 大型で高価な手写本があり、印刷本という新しいメディアは先ず、古いメディアをなぞって登場する。そしてその後、本質的な自らのスタイルを発見していく。きわめて教訓的な印刷本のこの歩みをメタファーとして、アラン・ケイはパーソナル・コンピューターを本のサイズにおさめるべきことの論拠を導き出した。

 だが印刷本が自己の本質を発見していく過程をおさらいしてみる中で、実に豊かなこの歴史的経験からはさらにいくつかのアナロジーを引き出しうると、私は考えるようになっていった。

 ここ数年、私の興味は、コンピューターの上に本を移し変えた、いわゆる電子本に引き付けられてきた。
 その電子本には、どのよう可能性があるのか。
 紙の本とどこで競合し、どこで共存するのか。
 この問いに答える鍵もまた、印刷本その物の歩みの中に見いだせるのではないかと考えはじめたのである。

(1996年10月1日)

(参考)
フォーラム・レジメより
アルドゥス文庫の読者

1)森に出て泉に向かい、そこからさらに鳥打ち場にいく、懐中には本を携えている。ダンテやぺトラルカや、ときにはティブルスやオヴィディウスなどの群小詩人であることもある。彼らの恋愛と熱情に読み耽り、自らのかっての熱情に思いを馳せ、心地よいひとときを過ごす。
マキャベリ「書簡集」より

2)彼女は詩を愛読しているかのように振る舞っており、ポケット判のペトラルカやウェルギリウス、ときにはホメロスなども持ちあるいております・・・・
「ヴェネチア娼婦名鑑」(1536年)より




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