今日学校で、算数のテストがあったそうな。
これが、今学期2回目のテスト。
前回「予告」を先生にお願いしていたのに、またしても
娘は「算数テスト」を認識せず、ぶっつけで受ける事になってしまった。
実は、前日(これも嫌だけど・・)に、「予告」はされていて、連絡帳にも「テスト」と書いてあったの。
なのに、何の教科かが記載されていないから、時間割から「国語」と思い込んでしまったのね。
先生は、皆に対して「口頭で」説明しているはずなんだけど、またまたのんびり娘の脳みそはこの情報をスルーさせてしまったのだ。
これに鬼母激怒。
「何故、君自身が危機感を持たないんだ!」
「どうしたら、2度とこういう事が起きないか考えなさい!!」
と、しばし娘を攻め立てた後、
さぁ、どうするか。
娘の現状での「聞き取り能力」を考えると、この部分ではどうしても
サポートが必要だと判断しました。
ちなみに私は娘にとって、「テスト勉強」は必要だと考えています。
娘の場合、テスト前にテスト問題に沿った勉強をする事で、
それまで混沌としていた事が結構クリアになっていきますし、
なにより、テストの成績は毎日がんばっている事への「ご褒美」になり、
やる気をつなげていく材料になってくれるからです。
毎日勉強させられてるのに、テスト30点や0点じゃァ
次へのやる気はなかなか生まれないでしょう。
「勉強したら結果はついてくる」
そういう事を感じる事が、娘にはまだまだ必要だと思うんです。
で、先生にお電話してサポートお願いしました。
この件については、快く引き受けてくださったのですが、
そのときのやり取りの中で、先日私が感じた違和感の正体が少しだけつかめたような気がします。
今日の算数テスト、なんの準備もしなかったし、まだまだ「約分」というのが何をするかが刷り込まれていなかったので「テストがあった」ときた段階で、
「は―っ」と溜息をついた私。
たいして先生は、
「でも結構できてましたよ。
約分は良くわからなかったみたいですけど、1問は出来てましたから。」
そのときにふと感じたの。
先生は、娘の能力をかなり低く見積もっているんだなって。
テストだけじゃない。それ以外のお話の中からも、
学校生活のいろんなことをやる能力を、私が考えているより
ずっと低く見ている気がしたの。
それが違和感の正体。
先生の客観的な見方のほうが正しくて、私の見方のほうが「親ばか」かかってるのかな。
って、2年前なら思ったけどね。
今はそうは思わない。私は、娘の「今出来ること」を、少なくともこの先生よりは把握している自信がある。
それが、4年のときの苦い経験を通して、私が身につけた事かな。
あの頃は、逆に娘の言語能力を高く見積もられて、
「自分で出来るのに、親が手を出すから甘えてやらない子」にされてしまった。
学校での出来事がうまく伝えられなくて、私が問い合わ
せたら、
「嘘をつく子」
と思われてしまった(嘘がつけるほど言語が発達してたら苦労しないのにねぇ)。
今度は、逆。
「何もかも、サポートしなければいけない子」のように思われているよう。
いずれにしても、「娘」そのものではなくて、先生が考える「こういう子」を見ていられるようで落ち着かないのです。
私は、娘の持っている弱いところ(主に言語です)のサポートをお願いしたい。
やるべき事がわかりさえすれば、あとはコツコツやっていけるから。
「遅い」事を理由に、集団で意地悪したり、無視したりは勘弁だけど、
必要以上に甘やかしたり、気を使ったりしてもらいたいとも思わない。
「孤立」さえしなければそれでいいの。
そこに居られさえすれば、学んでいける物がたくさんあるから。
それだけでいいのだけど、なんだか変に気を回されてしまいそう。
やっぱり、いろいろ気を使う1年になりそうです。
これが、今学期2回目のテスト。
前回「予告」を先生にお願いしていたのに、またしても
娘は「算数テスト」を認識せず、ぶっつけで受ける事になってしまった。
実は、前日(これも嫌だけど・・)に、「予告」はされていて、連絡帳にも「テスト」と書いてあったの。
なのに、何の教科かが記載されていないから、時間割から「国語」と思い込んでしまったのね。
先生は、皆に対して「口頭で」説明しているはずなんだけど、またまたのんびり娘の脳みそはこの情報をスルーさせてしまったのだ。
これに鬼母激怒。
「何故、君自身が危機感を持たないんだ!」
「どうしたら、2度とこういう事が起きないか考えなさい!!」
と、しばし娘を攻め立てた後、
さぁ、どうするか。
娘の現状での「聞き取り能力」を考えると、この部分ではどうしても
サポートが必要だと判断しました。
ちなみに私は娘にとって、「テスト勉強」は必要だと考えています。
娘の場合、テスト前にテスト問題に沿った勉強をする事で、
それまで混沌としていた事が結構クリアになっていきますし、
なにより、テストの成績は毎日がんばっている事への「ご褒美」になり、
やる気をつなげていく材料になってくれるからです。
毎日勉強させられてるのに、テスト30点や0点じゃァ
次へのやる気はなかなか生まれないでしょう。
「勉強したら結果はついてくる」
そういう事を感じる事が、娘にはまだまだ必要だと思うんです。
で、先生にお電話してサポートお願いしました。
この件については、快く引き受けてくださったのですが、
そのときのやり取りの中で、先日私が感じた違和感の正体が少しだけつかめたような気がします。
今日の算数テスト、なんの準備もしなかったし、まだまだ「約分」というのが何をするかが刷り込まれていなかったので「テストがあった」ときた段階で、
「は―っ」と溜息をついた私。
たいして先生は、
「でも結構できてましたよ。
約分は良くわからなかったみたいですけど、1問は出来てましたから。」
そのときにふと感じたの。
先生は、娘の能力をかなり低く見積もっているんだなって。
テストだけじゃない。それ以外のお話の中からも、
学校生活のいろんなことをやる能力を、私が考えているより
ずっと低く見ている気がしたの。
それが違和感の正体。
先生の客観的な見方のほうが正しくて、私の見方のほうが「親ばか」かかってるのかな。
って、2年前なら思ったけどね。
今はそうは思わない。私は、娘の「今出来ること」を、少なくともこの先生よりは把握している自信がある。
それが、4年のときの苦い経験を通して、私が身につけた事かな。
あの頃は、逆に娘の言語能力を高く見積もられて、
「自分で出来るのに、親が手を出すから甘えてやらない子」にされてしまった。
学校での出来事がうまく伝えられなくて、私が問い合わ
せたら、
「嘘をつく子」
と思われてしまった(嘘がつけるほど言語が発達してたら苦労しないのにねぇ)。
今度は、逆。
「何もかも、サポートしなければいけない子」のように思われているよう。
いずれにしても、「娘」そのものではなくて、先生が考える「こういう子」を見ていられるようで落ち着かないのです。
私は、娘の持っている弱いところ(主に言語です)のサポートをお願いしたい。
やるべき事がわかりさえすれば、あとはコツコツやっていけるから。
「遅い」事を理由に、集団で意地悪したり、無視したりは勘弁だけど、
必要以上に甘やかしたり、気を使ったりしてもらいたいとも思わない。
「孤立」さえしなければそれでいいの。
そこに居られさえすれば、学んでいける物がたくさんあるから。
それだけでいいのだけど、なんだか変に気を回されてしまいそう。
やっぱり、いろいろ気を使う1年になりそうです。