旅路 とまりぎ

いくつかのグループでのできごと(主に旅)

水元公園

2009年08月30日 | 人生

                   都立水元公園
                                        

                              とまりぎ

 最初に水元公園のことを聞いたのは、マロニエの先生からだった。そのときは住んでいるところから近くに広い公園があるということぐらいしか聞いていなかったものだったから、たいして記憶に残らなかったのだが。旅行先のパリで亡くなったのが平成9年の初秋のこと、戦前生まれの62歳だった。その5年ほど前に台東区へ移り住んでいたから、もっと前に聞いたことになる。ということは20年ほど前のことだったのかもしれない。

車の運転免許がなかったこともその一因であったかもしれない。平成7年に運転免許を取得して運転に慣れてきたころ、一度だけ昼食に蕎麦屋へお連れしたことがあったぐらいだ。先生は若いころから運転してきたので、免許証には自動二輪も運転できることになっていた。昔の人にはそういう人が多い。だが車以外は運転したことは無かったそうだ。

その水元公園へ最初に行ったのは、先生が亡くなってしばらく時間経過したころ、新聞に紹介記事があったのがきっかけだった。都立公園なので淡水魚と水草についての東京都の水産試験場があって、一部は中へ入ることができなかった。それが他へ移転していったものだから、現在はたいへん広い公園が、ずいぶん見通しよくなった。

東京都のはずれにあって、大きな池向うには埼玉県のみさと公園が見え、これも公園が大きく見える一因になっている。池のはずれの方には、橋でみさとへ行き来できるようになっている。池の真ん中あたりには魚釣りの人たちがいる。小合溜というこのあたりを、むかしの案内書でみると釣仙郷といったところでもある。水の流れの上流には蓮、コウホネや睡蓮が広大に水面を覆っていて、また池に向ってバードウォッチングできるところが三ヶ所ほどある。みさと公園にも同じような設備がある。そのほかにもこの公園ならではというところがいくつもあって、季節を問わず楽しめるところだ。

マロニエの先生は若いころ肺結核を患ったから、ながい病院生活の時代があったそうだ。そのため、身に降りかかる危険を避ける慎重さがあった。その一方で、短い一生を楽しむことにも貪欲だった。肝臓が丈夫にできているからと、酒の席にはよく同席させていただいた。そういうときには過去の女性関係についての嫌みのない話も多かった。

しかし亡くなるのは本人の予測どおり、肺結核手術により片肺であったことが原因で、無理をした海外旅行中に、肺炎が直接の死因になったことはたいへん残念なことであった。水元公園という名前が出ると、思い出すは普通の人より息つぎの回数が多く、歌える曲が限られていたせいか、“マロニエの木陰”をよく選んでいたことである。        (命日を前にして)

 

『彼方遠く 君は去りて

わが胸に 残る痛みよ

想いでの マロニエの木陰に

ひとり佇めば 尽きぬ想いに

今日も溢るる 熱き涙よ』

(作詞:坂口淳、作曲:細川潤一、編曲:江口浩司、歌:松島詩子)

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