朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

よく見、よく聞いて、事実を確認し、納得して受け取り

2017-09-20 08:51:18 | 聖書から
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。ヨエル書3:1(新改訳では2:28)

 イエスは神の右に上げられ、
約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。
あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。使徒2:33

 フィレモン書1~16(17~22)
 民数記27:12~23(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/20;水)

 〔父である神〕は、ご自身と〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、愛し合い、尊敬し合って、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、その一つに加わる者がもっと欲しいと願われて、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られ(創世記1:26)たのだそうです。

それで、まず、人の住みかとしてこの天地、宇宙を造り、
必要な物すべてを整えてから、
最後の人を造ってエデンの園に置かれたのだそうです。

 自由意思で、自発的な、愛し合うことによる一つを願われた神。
しかし、人は、その愛し合い、一つになっている場に留まることをせず、
もっと偉い者になろうと思い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になろうとして、
神との一つの場から、神に対立、対抗する者へとずれてしまったのだそうです。

 それでも、天の神、主は、私たち人間を愛し、惜しんでくださって、
御子によって私たち、すべての人間を贖(あがな)い、
すべての人に〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって受け入れる者の心にご自身の御思いを置き、
自由意思で、自発的に、愛し合い、思いを一つにする者になってほしいと願われたようです。

 このヨエルによる預言から800年ほど後、神のご計画の時が満ちて、
〔御子である神〕が、処女マリヤの胎を通して、「女の子孫」(創世記3:15)として、私たちの世に来られ(ヨハネ1:14)、
およそ33歳のころ、私たち、すべての人間の「的外れ」の責任をご自身の身に負って、
エルサレムにおいて十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

〔父である神〕は、その全能の御力によって、この、墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、死人の中から復活させ、
40日に渡って、何度も弟子たちに現れさせ、神の国のことを語った後、
弟子たちの見守る中、オリーブ山から、天の、ご自身の右の座に帰らせなさったのだそうです(使徒1:3~11)。
「エルサレムから離れないで、父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」との約束を残して。

それから10日後のペンテコステ(50日祭、律法授与の記念日)に、
待ち望んでいた120人ばかりの弟子たちに、激しい風が吹いてくるような響きとともに、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が来られて、
弟子たちはこの方が心に置かれる御思いのままに語り出したのだそうです。

物音に驚いて集まって来た大勢の人に、ペテロをはじめとするイエスの弟子たちは、
「あなたがたが見聞きしているこのことは、あのヨエルの預言の成就です。
50日前、あなたがたが十字架に架けて殺したあのイエスを、
神は死人の中からよみがえらせ、
神の右にあげられたのです。
その、イエスが遣わされた〔聖である霊〕と呼ばれる方が来ておられるのを、今、あなたがたは見、聞いているのです」と説明したのだそうです。

 そして、これを聞いて心を刺され、「私たちはどうしたらいいでしょうか」と問う人々に、
ペテロは、「悔い改めなさい(神に向き変りなさい)。
そして、それぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と勧め、
その日、3000人(男だけで)ほどが弟子に加えられたのだそうです(使徒2章)。


使徒パウロは、ピレモンに、ピレモンの奴隷、オネシモのことについて、
「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、
あなたの同意なしには何一つすまいと思います。
それで、愛によって、あなたにお願いしたい。
それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです」
と手紙で書き送っています(ピレモン8~9、14)。


天の神、主は、私たちにも、
強制されてではなく、
「ねばならないから」、「そうあるべきだから」というのではなく、
愛によって、自由意思で、自発的に、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置かれる〔父である神〕の御思いを受け取って、
この御思いについて行ってほしいと願っておられるのだそうですから(ガラテヤ5:25)。
今日も。
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清い唇を与えていただき、一つ心になって仕える者にと

2017-09-19 08:21:57 | 聖書から
わたしは諸国の民に、清い唇を与える。
彼らは皆、主の名を唱え、
一つ心となって主に仕える。ゼファニア書3:9

 すべての舌が、
「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、
父である神をたたえるのです。フィリピ書2:11

 ガラテヤ書5:22~26
 民数記24:1~25(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句9/19;火)

 イエスは、言っておられます。
「わたしは、自分から話したのではありません。
わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
  ~~
わたしが話していることは、
父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです」(ヨハネ12:49~50)と。

私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている者は(創世記3:5:22)、
天の神、主に聞こうとせず、
自分の理性による、ことの善し悪しの判断のままに、自分の考えを口にする者です。

 けれども、天の神、主は、その、私自身である「生まれた時からの私」という霊を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
死んだもの、処刑済みのものとしてくださり、
そして、新しく、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお遣わしくださって、
この方によって、受け入れる者の心に、〔父である神〕が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
イエスと同じ関係、同じ在り方で生きる者にしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

それは、「血(血筋)によってではなく」(ヨハネ1:13)、諸国の民、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から(黙示録5:9)なのだそうです。
「イエス・キリストは主である」と告白し、
〔父である神〕を愛し、自由意思で、自発的に、自分からすすんで、
〔父である神〕と心を一つにして行動するようにしていただけるのだそうです。

それで、パウロを通して言われるのですね。
「しかし、御霊の実(働きの現れ)は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制です。
  ~~
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉(〔生まれた時からの私〕)という霊)を、
さまざまの情欲や欲望とともに、
十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか」(ガラテヤ5:22~25)と。


異教の占い師、エジプトから出て来たイスラエルを呪うために高額な報酬で雇われて来たバラムでさえもが、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、呪うはずの、そのイスラエルを祝福し、
周辺の民族にこれから起こることを預言したのだそうです(民数記24:1~25)。

 天の神、主、「『わたしはあるという者」と名乗られる方は、
イエスの十字架刑での処刑を通して来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちも、
〔父である神〕と一つ心にしてくださり、
御思いの中へと出て行かせてくださるのだそうです。
今日も。
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多く与えられた者は、多く求められる、のだそうですから

2017-09-18 08:41:48 | 聖書から
天は主のもの、地は人への賜物。詩115:16

 多く与えられた者は、多く求められる。ルカ12:48

 申命記26:1~11
 民数記23:13~30(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句9/18;月・祝)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たちが住んでいる、この天と地、宇宙を、ご計画をもって創造された方なのだそうです。
これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造られ(イザヤ45:18)、
私たち人間に賜(たまわ)ったのだそうです。

多く与えられた者は、多く求められるのだそうですが、
それだけ、私たち人間に対する期待が大きいということなのでしょうね。

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、モーセをとおして、約束の地を目の前にしたイスラエルの民に重ねて言われます。
「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、
あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。
そのとき、任務についている祭司のもとに行って、
『私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地に入りました。
きょう、あなたの神、主に報告いたします』と言いなさい。

 あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。
『私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数(70人、創世記46:27)を連れて、エジプトに下り、
そこに寄留しました。
しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民(徒歩の壮年の男子だけで約60万人、出エジプト12:37)になりました。

 エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。
私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、
私たちの窮状と労苦と圧迫とご覧になりました。

 そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちにくださいました。
今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。』

 あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。
あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、
あなたは、レビ人(神に直接仕える部族として、土地は与えられなかった)
およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい」(申命記26:1~11)と。


それで、モアブの王バラクが、目の前まで来たイスラエルを呪おうと、
ユーフラテス河畔のペトルから、占い師バラムを呼び寄せた時も、
天の神、主は、バラクから多くの報酬を差し出されて心動くバラムが、イスラエルを呪うことを許さず、
かえって、祝福の言葉を述べるよう導かれたのだそうです(民数記23:13~30)。


 天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になっていて、「的外れ」になっている私たちをも、なお、愛し、惜しんでくださって、
〔御子である神〕、イエスの十字架刑での処刑を通して来て下さる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心にご自身の御思いを置いてくださって、
私たちを、「われわれのかたちとして、われわれに似せた」ものに回復して、
ご自身と思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者(ヨハネ17:21~24)とし、
御思いを受けて、御思いと一つ心になって、各自に与えられた能力、分に応じて、この地を統治していくように(創世記1:26)、と期待してくださっているのですね。
今日も。
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主よ。あなたは、みことばのとおりに、私に良くしてくださいました。

2017-09-17 07:39:35 | 聖書から
私の魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。詩103:2(9/17の週の聖句)

 神の御言葉を賛美します。
主の御言葉を賛美します。詩56:11

 イエスの言葉:
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。ヨハネ6:63

 ルカ17:11~19
 詩119:65~72(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句9/17;Ⅲ日)

詩篇の作者は謳います。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな。
主はあなたのすべての咎(とが)を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖(あがな)い、
あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、
あなたの一生をよいもので満たされる。
あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。
主は、あわれみ深く、情け深い。
怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。
いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって、私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離れさせる。
父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ちを知り、
私たちがちりに過ぎないことを心に留めておられる。」(詩篇103:1~14新改訳)と。
私たちも、この方の御言葉、御思いに感謝し、賛美するのですね。

イエスは言われていますから。
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と。

イエスが、エルサレムに上る途中、サマリヤとガリラヤの境を通られ、ある村に入ったとき、10人のハンセン病に冒された人たちに出会ったのだそうです。
その人たちは、遠く離れた所に立って、声を張り上げて、
「イエスさま。どうぞあわれんでください」と言ったのだそうです。
イエスはこれを見て、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われたのだそうです。
(この病気が治ったときには、祭司に見せ、治っていることを証明してもらって、社会に戻ることができたので。)
そして、彼らは行く途中でいやされですが、
そのうちのひとりは、自分がいやされたことがわかると、
大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
イエスの足もとにひれ伏して感謝したのだそうです(ルカ17:11~16)。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たちにも、
「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。
よい分別と知識を私に教えてください。
私はあなたの仰せを信じていますから。
 ~~
苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119:65~66、71~72)
と私たちが言えるようにも、扱ってくださるのでしょうね。
この新しい週も。
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「パパ。お父さん」と呼んでいいのだそうです。私たちも。

2017-09-16 08:54:04 | 聖書から
焦って口を開き、
心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。
神は天にいまし、あなたは地上にいる。
言葉数を少なくせよ。コヘレト5:1

 主よ。私たちにも祈りを教えてください。ルカ11:1

 ユダ書1~2、20~25
 民数記23:1~12(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/16;土)

伝道者は言います。
「神の宮に行くときには、自分の足に気をつけよ。
近寄って聞くことは、愚か者がいけにえをささげるのにまさる。
神の前では、軽々しく、心あせって言葉を出すな。
神は天におられ、あなたは地にいるからだ。
だから、ことば少なくせよ。
神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。
誓ったことを果たせ。
誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい」(伝道〔コヘレト〕の書5:1~5新改訳)と。


祈りを教えてくださいという弟子に、イエスは言われました。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧(かて)を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。』」(ルカ11:1~4新改訳)と。


イエスが、ご自身に私たちの「的外れ」の責任を負って、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)、
私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を処刑済みのもの、死んだものとしてくださるのだそうです。
 そして、イエスに代わって来て下さる、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちに、〔神の子〕の身分を与えてくださのだそうです(ヨハネ1:12~13、ロマ8:13~17)。

そして、〔父である神」が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを私たちの心に置いてくださるので、
その御思いを自分の思いとして生きる者は、〔父である神〕を「父よ」と呼んで、
愛されている子どもの立場でお話ししなさいと言われるのですね。


マリヤとヨセフの息子であるユダは書き送っています。
「父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。
愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、
聖霊によって祈り、
神の愛のうちに自分自身を保ち、
永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」(ユダ1:1、20~21)と。


エジプトから出て来て、
今、自分の国の目の前、モアブの草原にいるイスラエルの民を呪ってもらおうと、
モアブの王バラクは、ユーフラテス河畔のベトルにいる占い師バラムを招いたのだそうです(民数記22章)。

しかし、バラムは、天の神、主から、
「あなたの思いはわたしとは反対に向いている。
ただ、わたしが告げることばだけを告げよ」との強い警告を受けて(民数記22:31~35)、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方がバラムの口に置かれたことばを伝えたのだそうです。

「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れて来た。
『来て、私のためにヤコブをのろえ。
来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。』
神が呪わない者を、私がどうしてのろえようか。
主が、「わたしはある」と名乗られる方が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。
岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。
見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。
だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。
私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように」(民数記23:7~10)と。


イエスは、ご自身、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
〔父である神〕への愛と尊敬のゆえに、自由意思で、自発的に、
「わたしはわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(ヨハネ8:28)方、
〔神のことば〕の立場に(ヨハネ1:1~2)ご自身を置いておられる方なのだそうです。

 私たちも、「神の子」の身分を与えていただいて
「父よ」と呼び、
いよいよ、イエスに似たものに、
〔父である神〕を愛する者にしていただいて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに、
自由意思で、自発的について行く者に、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうですから。
今日も。
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