その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。ヨエル書3:1(新改訳では2:28)
イエスは神の右に上げられ、
約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。
あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。使徒2:33
フィレモン書1~16(17~22)
民数記27:12~23(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/20;水)
〔父である神〕は、ご自身と〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、愛し合い、尊敬し合って、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、その一つに加わる者がもっと欲しいと願われて、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られ(創世記1:26)たのだそうです。
それで、まず、人の住みかとしてこの天地、宇宙を造り、
必要な物すべてを整えてから、
最後の人を造ってエデンの園に置かれたのだそうです。
自由意思で、自発的な、愛し合うことによる一つを願われた神。
しかし、人は、その愛し合い、一つになっている場に留まることをせず、
もっと偉い者になろうと思い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になろうとして、
神との一つの場から、神に対立、対抗する者へとずれてしまったのだそうです。
それでも、天の神、主は、私たち人間を愛し、惜しんでくださって、
御子によって私たち、すべての人間を贖(あがな)い、
すべての人に〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって受け入れる者の心にご自身の御思いを置き、
自由意思で、自発的に、愛し合い、思いを一つにする者になってほしいと願われたようです。
このヨエルによる預言から800年ほど後、神のご計画の時が満ちて、
〔御子である神〕が、処女マリヤの胎を通して、「女の子孫」(創世記3:15)として、私たちの世に来られ(ヨハネ1:14)、
およそ33歳のころ、私たち、すべての人間の「的外れ」の責任をご自身の身に負って、
エルサレムにおいて十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
〔父である神〕は、その全能の御力によって、この、墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、死人の中から復活させ、
40日に渡って、何度も弟子たちに現れさせ、神の国のことを語った後、
弟子たちの見守る中、オリーブ山から、天の、ご自身の右の座に帰らせなさったのだそうです(使徒1:3~11)。
「エルサレムから離れないで、父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」との約束を残して。
それから10日後のペンテコステ(50日祭、律法授与の記念日)に、
待ち望んでいた120人ばかりの弟子たちに、激しい風が吹いてくるような響きとともに、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が来られて、
弟子たちはこの方が心に置かれる御思いのままに語り出したのだそうです。
物音に驚いて集まって来た大勢の人に、ペテロをはじめとするイエスの弟子たちは、
「あなたがたが見聞きしているこのことは、あのヨエルの預言の成就です。
50日前、あなたがたが十字架に架けて殺したあのイエスを、
神は死人の中からよみがえらせ、
神の右にあげられたのです。
その、イエスが遣わされた〔聖である霊〕と呼ばれる方が来ておられるのを、今、あなたがたは見、聞いているのです」と説明したのだそうです。
そして、これを聞いて心を刺され、「私たちはどうしたらいいでしょうか」と問う人々に、
ペテロは、「悔い改めなさい(神に向き変りなさい)。
そして、それぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と勧め、
その日、3000人(男だけで)ほどが弟子に加えられたのだそうです(使徒2章)。
使徒パウロは、ピレモンに、ピレモンの奴隷、オネシモのことについて、
「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、
あなたの同意なしには何一つすまいと思います。
それで、愛によって、あなたにお願いしたい。
それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです」
と手紙で書き送っています(ピレモン8~9、14)。
天の神、主は、私たちにも、
強制されてではなく、
「ねばならないから」、「そうあるべきだから」というのではなく、
愛によって、自由意思で、自発的に、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置かれる〔父である神〕の御思いを受け取って、
この御思いについて行ってほしいと願っておられるのだそうですから(ガラテヤ5:25)。
今日も。
イメージ 1
[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]
イエスは神の右に上げられ、
約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。
あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。使徒2:33
フィレモン書1~16(17~22)
民数記27:12~23(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/20;水)
〔父である神〕は、ご自身と〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、愛し合い、尊敬し合って、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、その一つに加わる者がもっと欲しいと願われて、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られ(創世記1:26)たのだそうです。
それで、まず、人の住みかとしてこの天地、宇宙を造り、
必要な物すべてを整えてから、
最後の人を造ってエデンの園に置かれたのだそうです。
自由意思で、自発的な、愛し合うことによる一つを願われた神。
しかし、人は、その愛し合い、一つになっている場に留まることをせず、
もっと偉い者になろうと思い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になろうとして、
神との一つの場から、神に対立、対抗する者へとずれてしまったのだそうです。
それでも、天の神、主は、私たち人間を愛し、惜しんでくださって、
御子によって私たち、すべての人間を贖(あがな)い、
すべての人に〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって受け入れる者の心にご自身の御思いを置き、
自由意思で、自発的に、愛し合い、思いを一つにする者になってほしいと願われたようです。
このヨエルによる預言から800年ほど後、神のご計画の時が満ちて、
〔御子である神〕が、処女マリヤの胎を通して、「女の子孫」(創世記3:15)として、私たちの世に来られ(ヨハネ1:14)、
およそ33歳のころ、私たち、すべての人間の「的外れ」の責任をご自身の身に負って、
エルサレムにおいて十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
〔父である神〕は、その全能の御力によって、この、墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、死人の中から復活させ、
40日に渡って、何度も弟子たちに現れさせ、神の国のことを語った後、
弟子たちの見守る中、オリーブ山から、天の、ご自身の右の座に帰らせなさったのだそうです(使徒1:3~11)。
「エルサレムから離れないで、父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」との約束を残して。
それから10日後のペンテコステ(50日祭、律法授与の記念日)に、
待ち望んでいた120人ばかりの弟子たちに、激しい風が吹いてくるような響きとともに、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が来られて、
弟子たちはこの方が心に置かれる御思いのままに語り出したのだそうです。
物音に驚いて集まって来た大勢の人に、ペテロをはじめとするイエスの弟子たちは、
「あなたがたが見聞きしているこのことは、あのヨエルの預言の成就です。
50日前、あなたがたが十字架に架けて殺したあのイエスを、
神は死人の中からよみがえらせ、
神の右にあげられたのです。
その、イエスが遣わされた〔聖である霊〕と呼ばれる方が来ておられるのを、今、あなたがたは見、聞いているのです」と説明したのだそうです。
そして、これを聞いて心を刺され、「私たちはどうしたらいいでしょうか」と問う人々に、
ペテロは、「悔い改めなさい(神に向き変りなさい)。
そして、それぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と勧め、
その日、3000人(男だけで)ほどが弟子に加えられたのだそうです(使徒2章)。
使徒パウロは、ピレモンに、ピレモンの奴隷、オネシモのことについて、
「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、
あなたの同意なしには何一つすまいと思います。
それで、愛によって、あなたにお願いしたい。
それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです」
と手紙で書き送っています(ピレモン8~9、14)。
天の神、主は、私たちにも、
強制されてではなく、
「ねばならないから」、「そうあるべきだから」というのではなく、
愛によって、自由意思で、自発的に、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置かれる〔父である神〕の御思いを受け取って、
この御思いについて行ってほしいと願っておられるのだそうですから(ガラテヤ5:25)。
今日も。
イメージ 1
[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]