主は打ち砕かれた心の人々を癒し、
その傷を包んでくださる。詩147:3
イエスは人々を迎え、
神の国について語り、
治療の必要な人々を癒しておられた。ルカ9:11
ヨハネ16:5~15
ヘブル9:16~28(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/19;土)
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
心の打ち砕かれた人々をいやし、
その傷を包んでくださる方なのですね。
それで、イエスは、
人々に神の国について語るとともに、
治療の必要な人々をいやしてくださったのですね。
人々は、イエスが王となって、
いつまでも、自分たちと一緒にいてほしかったのでしょうが、
イエスが世に来られた目的は、
私たちの身代わりとなり、
私たちの「的外れ」の責任をご自身の身に負って
十字架刑での処刑を受けられ、
私たちの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済みのもの、死んだものとし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来る道をひらくことだったのですね。
だから、イエスは、処刑を受け、去って行かなければならなかった。
それでイエスは言われます。
「わたしは真実を言います。
わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。
それは、もしわたしが去って行かなければ、
助け主があなたがたのところに来ないからです。
しかし、もし行けば、
わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
その方が来ると、
罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
~~~
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、
今あなたがたはそれに耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、
あなたがたをすべての真理に導き入れます。
御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、
また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現します。
わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。
ですからわたしは、
御霊がわたしのものを受けて、
あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:5~15、新改訳)。
遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
遺言は、人が死んだとき、はじめて有効になるのですから。
また、血を注ぎだすことがなければ、
罪の赦しはないのだそうです。
イエスは、多くの人の罪を負い、
ご自身をいけにえとしてささげて血を注ぎだし、
ご自身の死によって遺言を有効なものとし、
多くの人の罪を取り除いてくださったのだそうです。
イエスは、多くの人の罪を負うために一度、
ご自身をささげられましたが、
二度目には、罪を負うためにではなく、
彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのだそうです(ヘブル9:16~28)。
そして、その時までは、
天の、〔父である神〕の右の座にあって、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、
私たち一人一人に対する〔父である神〕の御思いを、
それぞれの心に置いてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と心と思いを一つにし、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者に
してくださるのだそうですから。
ご自身がそうであったように、
私たちにも、〔父である神〕のしようと思われるとおりに、
神の国のことを語り、病をいやすようにと。
イエスのことばのとおりに。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)
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その傷を包んでくださる。詩147:3
イエスは人々を迎え、
神の国について語り、
治療の必要な人々を癒しておられた。ルカ9:11
ヨハネ16:5~15
ヘブル9:16~28(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/19;土)
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
心の打ち砕かれた人々をいやし、
その傷を包んでくださる方なのですね。
それで、イエスは、
人々に神の国について語るとともに、
治療の必要な人々をいやしてくださったのですね。
人々は、イエスが王となって、
いつまでも、自分たちと一緒にいてほしかったのでしょうが、
イエスが世に来られた目的は、
私たちの身代わりとなり、
私たちの「的外れ」の責任をご自身の身に負って
十字架刑での処刑を受けられ、
私たちの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済みのもの、死んだものとし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来る道をひらくことだったのですね。
だから、イエスは、処刑を受け、去って行かなければならなかった。
それでイエスは言われます。
「わたしは真実を言います。
わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。
それは、もしわたしが去って行かなければ、
助け主があなたがたのところに来ないからです。
しかし、もし行けば、
わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
その方が来ると、
罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
~~~
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、
今あなたがたはそれに耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、
あなたがたをすべての真理に導き入れます。
御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、
また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現します。
わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。
ですからわたしは、
御霊がわたしのものを受けて、
あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:5~15、新改訳)。
遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
遺言は、人が死んだとき、はじめて有効になるのですから。
また、血を注ぎだすことがなければ、
罪の赦しはないのだそうです。
イエスは、多くの人の罪を負い、
ご自身をいけにえとしてささげて血を注ぎだし、
ご自身の死によって遺言を有効なものとし、
多くの人の罪を取り除いてくださったのだそうです。
イエスは、多くの人の罪を負うために一度、
ご自身をささげられましたが、
二度目には、罪を負うためにではなく、
彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのだそうです(ヘブル9:16~28)。
そして、その時までは、
天の、〔父である神〕の右の座にあって、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、
私たち一人一人に対する〔父である神〕の御思いを、
それぞれの心に置いてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と心と思いを一つにし、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者に
してくださるのだそうですから。
ご自身がそうであったように、
私たちにも、〔父である神〕のしようと思われるとおりに、
神の国のことを語り、病をいやすようにと。
イエスのことばのとおりに。
今日も。
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