居酒屋日記・オムニバス (17)
第二話 小悪魔と呼ばれたい ⑥

「そういえば、毎晩来ているのに、まだ名前を聞いてねぇな。
君、名前はなんていうんだ?」
「ちえこ。東京には空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る・・・とうたわれた智恵子です。
あっちのほうの智恵子は、二男六女の長女として生まれて、戸籍名は「チヱ」。
わたしはとび職の長女。通称は、鉄筋のチエ。
月とスッポンほどの差がありますねぇ。生まれも育ちも。うっふっふ」
「チエちゃんか。俺は幸作。幸福を作ると書くが、実際のところはバツいちだ。
13歳の娘がひとり居る」
「男ひとりで寂しくないの、幸作さんは?」
「女には、懲りた」
「たとえば相手が、あたしみたいにいい女でも?」
「その気になったら電話する。だがいまは、その気分じゃねぇ」
「じゃこれ。あたしの電話番号。受け取って」
智恵子がサラサラと走り書きした箸の袋を、幸平に差し出す。
「本気か?」目を丸くする幸作に、「はい」と嬉しそうに智恵子が頬を赤くする。
「ま、考えておこう」箸の袋を受け取った幸作が、丁寧に2つにたたんで
胸のポケットへしまい込む。
「とび職の親父さんは、元気なのか?」
「亡くなった。母さんも、父さんのあとを追うように2年後に死んじゃった」
「そうか。身内はいるのか?」
「2つ違いの妹が居た。
けど妹は、わたしよりも出来がいいから5年も前に嫁いでいった」
「じゃひとりなのか、いまは・・・」
「うん。気ままな鉄筋工の流れ旅。現場が有れば日本中のどこへでも行く。
でもさ。最近、つらいんだ、背中がときどき痛んでさ。
あ、誰にも言わないでおくれ。ここだけの内緒の話にしておいてね。
若い者には、まだ知られたくないもの」
「おめえだってまだ、充分に、若いだろう」
「31歳。まだ31だけど、もう31。
鉄筋暮らしの流れ旅も、そろそろ辞めようかなんて思案している。
あたしの背中が、悲鳴をあげているからね・・・」
「そんなに痛むのか、背中?」
「いまは大丈夫。薬がきいているから」
「ほら、これが何よりの薬です」と智恵子が、
焼酎のグラスを持ち上げてみせる。
「ばかやろう。アルコールで麻痺しているだけじゃねぇか。
親からもらった大切な身体だ。大事にしろ、早めに養生すれば長く持つ。
我慢していないで早く医者へ行け」
幸作の忠告に「そうだね、親からもらった大切な身体だ。壊したら叱られるね・・・」
智恵子がぼそりと、小さな声でつぶやく。
だがその瞬間から、2人の間に気まずい空気がながれはじめた。
(あっ、柄にもなく、まともなことを言っちまった。まずいぞ、失敗した!)
(18)へつづく
新田さらだ館は、こちら
第二話 小悪魔と呼ばれたい ⑥

「そういえば、毎晩来ているのに、まだ名前を聞いてねぇな。
君、名前はなんていうんだ?」
「ちえこ。東京には空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る・・・とうたわれた智恵子です。
あっちのほうの智恵子は、二男六女の長女として生まれて、戸籍名は「チヱ」。
わたしはとび職の長女。通称は、鉄筋のチエ。
月とスッポンほどの差がありますねぇ。生まれも育ちも。うっふっふ」
「チエちゃんか。俺は幸作。幸福を作ると書くが、実際のところはバツいちだ。
13歳の娘がひとり居る」
「男ひとりで寂しくないの、幸作さんは?」
「女には、懲りた」
「たとえば相手が、あたしみたいにいい女でも?」
「その気になったら電話する。だがいまは、その気分じゃねぇ」
「じゃこれ。あたしの電話番号。受け取って」
智恵子がサラサラと走り書きした箸の袋を、幸平に差し出す。
「本気か?」目を丸くする幸作に、「はい」と嬉しそうに智恵子が頬を赤くする。
「ま、考えておこう」箸の袋を受け取った幸作が、丁寧に2つにたたんで
胸のポケットへしまい込む。
「とび職の親父さんは、元気なのか?」
「亡くなった。母さんも、父さんのあとを追うように2年後に死んじゃった」
「そうか。身内はいるのか?」
「2つ違いの妹が居た。
けど妹は、わたしよりも出来がいいから5年も前に嫁いでいった」
「じゃひとりなのか、いまは・・・」
「うん。気ままな鉄筋工の流れ旅。現場が有れば日本中のどこへでも行く。
でもさ。最近、つらいんだ、背中がときどき痛んでさ。
あ、誰にも言わないでおくれ。ここだけの内緒の話にしておいてね。
若い者には、まだ知られたくないもの」
「おめえだってまだ、充分に、若いだろう」
「31歳。まだ31だけど、もう31。
鉄筋暮らしの流れ旅も、そろそろ辞めようかなんて思案している。
あたしの背中が、悲鳴をあげているからね・・・」
「そんなに痛むのか、背中?」
「いまは大丈夫。薬がきいているから」
「ほら、これが何よりの薬です」と智恵子が、
焼酎のグラスを持ち上げてみせる。
「ばかやろう。アルコールで麻痺しているだけじゃねぇか。
親からもらった大切な身体だ。大事にしろ、早めに養生すれば長く持つ。
我慢していないで早く医者へ行け」
幸作の忠告に「そうだね、親からもらった大切な身体だ。壊したら叱られるね・・・」
智恵子がぼそりと、小さな声でつぶやく。
だがその瞬間から、2人の間に気まずい空気がながれはじめた。
(あっ、柄にもなく、まともなことを言っちまった。まずいぞ、失敗した!)
(18)へつづく
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