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[チョン・ヨンジュコラム]ー記者なのか,検事なのか

2010年01月28日 | 管理人のつぶやき
KBS前社長のコラムだ。背任容疑で起訴され社長を解任された。
一人おいて最近社長になった金インギュは、光州実況中継で全斗煥賛歌を謡い上げた生え抜きだ。
魂を持った言論人が、最近の言論を痛切に風刺する。namsang

[チョン・ヨンジュコラム]

                 記者なのか,検事なのか

最近の言論報道と記者の行動を見て、これが本当に言論なのかかと疑問を感じる。 世宗市,4大河川などに対する広報性報道は、朝鮮,中央,東亜日報だけでなく経済紙,放送などほとんどが同じ、 広告ビラのようだ。

この程度ならまだ良い方だ。 最近裁判所判決に対する朝鮮,中央,東亜日報のマッカーシズム的魔女狩りを見れば,単純な広告ビラの次元でなく中世暗黒時代魔女狩りを見るようで背筋が寒くなる。 これは言論でない。

およそ言論は二つの基本的な機能を持っている。 一つは事実報道,他の一つは‘すべての権力’に対する批判機能だ。 言論の存在理由でもある。 ところが朝鮮,中央,東亜日報をはじめとする大部分の言論は、既得権強者の論理で一つになっている。 冨める者の側だ。 いや,彼ら自らがすでに既得権者,強者,富める者になってしまった。

特に検察権力とはほとんど一心同体の利害関係を持っているようだ。 検察が投げる餌‘被疑事実’を‘既定事実化’してしまう。 検察が投げる‘被疑事実’という餌に対して、基本的な疑問さえ提起しない。‘無罪推定の原則’など被疑者の基本権利のようなものも眼中にない。 法曹取材の本拠地も検察庁にあって,法曹記事の主な供給源も検察だ。

私はその一心同体的共生関係を直接経験してみた。 2008年8月,‘特定経済犯罪加重処罰などに関する法律違反’(背任)という凄じい罪目で起訴される前から、言論は検察が流す餌を持って私を重罪人と烙印したし,人格殺害をした。 検察の主張,検察が作っておいた事件の枠組みに対して疑問を提起した言論は殆どなかった。 “ KBSチョン・ヨンジュ氏,社長を続けようと国民に1500億の損害を”、これは <朝鮮日報> 2008年7月19日社説の見出しだ。 検察起訴一ヶ月前にそのように断定した。 起訴前に既に,朝鮮,中央,東亜日報にはこのような記事,社説があふれた。

ところが裁判が始まると,記事も消え,法廷から記者の顔も消えた。 彼らに裁判過程は意味がないようだ。 裁判過程で検察の主張と論理が、どのように覆り、反対証言が出てくるのか関心がない。 検察の餌からすでに重罪人と断定した彼らには、‘有罪判決’というとどめの一発の他には関心がないのだ。 こうして1年近い歳月を法廷通いで送った。1審で無罪判決が下ったが、 しかし朝鮮,中央,東亜日報には格別意味がなかった。だから記事も小さく報道された。

判決が下るころには被疑者らはすでに満身瘡痍になっている。 私のように解任されたり,人格殺害にあうことになり, 政治家の場合は政治的死刑宣告を受けた後だ。 何より周辺の視線は検察論理を拡大再生産し、“噂の無い所に煙はたたない”式に冷たい。 政治検察は,標的とした餌を満身瘡痍にするという当初の政治的目的をすでに達成したのだ。だから裁判結果とは関係なく、常勝疾走する。

最近‘PD手帳’判決に対する朝鮮,中央,東亜日報のマッカーシズム的魔女狩りを見ていると、検察・言論複合体の実体をもう一度確認することになる。 裁判過程でどんな新しい証拠と証言が出てきたのか,‘無罪’が出てくる時までの過程には関心もなくて,‘無罪’という結果だけで、検察と同じ声を発する。 権力批判,政策批判という言論の基本機能さえ捨てた恥ずかしい姿だ。 彼らは言論でない。


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