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春の九州を飛ぶ (1) - 切支丹の里・島原半島

2012-04-28 | 九州



島原半島は、有明海に対して拳固(げんこ)をつきだしたようにして、海面から盛りあがっている。
拳固から小指だけが離れ、関節がわずかに まがって水をたたえているのが、古代からの錨地(びょうち)である口之津である。

人間は自然に依存するもろい生きものにすぎない。そのことは、陸(おか)にいるときより海にうかんでいるときにはなはだしい。

船と称されている材木の切れっぱしに帆を立てたものに乗るとき、風浪のままに動き、あるいは風浪が追っかけて来ない海岸線の切れこみのなかに遁(にげ)こむ。

島原半島に入るには、陸路はこの半島の柄 の部分である諫早方面からの道があるにすぎない。しかし外界からくる者は、多くは船に拠った。

船でくる者は、みな口之津をめざした。この図体(ずうたい)の大きな半島にとってただ一つ開いている小さな口ということで、口之津という地名はまことに実感的なものであった。 
(司馬遼太郎著『街道をゆく』より)





島原半島の最南端部に「口之津」はある。

口之津は、日本で最も早くキリシタン文化が花開いたところである。
1550(天文19)年、ザビエルが平戸に入津して4年後には島原で布教が始まり、1563(永禄6)年、領主有馬義貞は宣教師ルイス・アルメイダを口之津に招いていた。

翌年には日本における宣教活動の主要人物であったトーレス神父が口之津へ移ったこともあり、以来この地は日本におけるキリスト教布教の根拠地として栄えていく。

特に天正七年(1579)には、イタリア人イエズス会司祭ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)により、全国宣教師会議が口之津の地で開催された。ヴァリニャーノ司祭は、天正遣欧少年使節の発案や、日本人司祭育成のための教育機関(セミナリヨ及びコレジヨ)の充実に寄与した。


口之津は、ポルトガル船の入港地としては、1567(永禄10)年より1582(天正10)年に至るまで、その役割を果たした。