木曜島は遠い。
南半島の多島海のトレス海峡に浮かんでいるとは聞いているが、やはり椰子なぞが生えているのか。
カンガルーはいるのか。人間は住んでいるのか。「シチューの皿みたいに小うてな」と、六十年前、
その島にいたことのある宮座鞍蔵老人はいうが、どの程度の小ささなのか。甥は、少年のころから
聞かされている。自転車でなら、一時間で一周できるのか。
(司馬遼太郎著『木曜島の夜会』より)
オーストラリアの北端に、「木曜島」という小さな島がある。
ここに明治維新から程ない頃、日本人が真珠貝の採取に出稼ぎに行っていた。
この海で獲れる白蝶貝や黒蝶貝がヨーロッパの貴婦人たちの胸を飾るボタンとして高く売れ、良い稼ぎとなったからだ
この人々が、オーストラリアと関わった最初の日本人であるようだ。
オーストラリアでは、当初はマレー人たちを使って貝を採っていたが、ある時日本人が並はずれた潜水能力を有していることを知り、日本人労働者を雇うことになった。
高い稼ぎが得られたのは、貝の採取が命がけの仕事であったからである。
潜水具は粗末なものであり、船の上で命綱を握っているテンダーとの連携がうまくゆかなければ命を落とす。深い海から急に浮上すると潜水病になり、命は落とさずとも二度と潜れなくなる、という危険と常に隣りあわせであった。潜水病などで命を落とした日本人は約700人にも達するという。
それでも日本人は必死で潜り、稼いだ金を故郷(多くは和歌山県)へ送り続けていたのである。
ただ、戦争の影がここにも現れた。
この地でダイバーだった日本人たちは、戦争が始まってから皆オーストラリアの収容所に入れられた。
そして戦後は需要がなくなり仕事もなくなっていった。
作家・司馬遼太郎氏は、実際に木曜島でダイバーをしていた人たちから聞いた話と自らの紀行をまとめ『木曜島の夜会』を書いている。