最近読んだ本の備忘録です。
青木栄一『鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町』(吉川弘文館、2006年)
明治の人々は鉄道建設による悪影響に不安をもち、鉄道や駅を町から遠ざけた…これが鉄道忌避伝説である。果たしてこの伝説は事実か。全国各地の実例を検証し、鉄道のルートや地形など様々な視点から伝説の謎に迫る。
まるで推理小説のような謎解きで、楽しんで読めました。
おおよその内容としては、下記のような感じでしょうか。
○鉄道創業時に、地域住民が鉄道を嫌がったために施設されなかった、という言い伝えがあります。
→ 反対した理由としては、宿場がさびれる、煙害で桑が枯れる、などが挙げられます。
○そうした伝説は全国的に見られ、北海道と沖縄を除く全国的な分布を示しています。
← しかし、実際には導入に積極的な地域がほとんどでありまして、反対運動は確認できません。
なーんでか。
○伝説は戦前から存在していた地域もありましたが、1950年代以降の自治体史編纂ブームで全国的に広がったようです。
→ 編纂した学者には鉄道に関する専門知識がなく、言い伝えを鵜呑みにしたのだと思われます。
← しかし、鉄道ルートは、勾配や架橋といった地形、または経済性に従って設定される場合がほとんどです。
⇒ 地域が衰退した要因を、一見すると不合理に見える鉄道ルートに求めたのではないか、と思われます。
というわけで、なんとなく納得してしまったわけですが、鉄道忌避に関する具体的資料などあれば、お教えいただければ幸いです。
(*・∀-)ヨロシク☆
ついでに、大船渡線の「なべづる路線」についても備忘録。
こちらは、おもに 小牟田哲彦『鉄道と国家 「我田引水」の近現代史』(講談社現代新書2152、2012年) の85頁から89頁によります。
①1918年に、一関・気仙沼間の鉄道建設計画が策定されました。
②1920年の総選挙で、摺沢(すりさわ)出身の佐藤良平が、政友会から出馬して当選しました。
→ 陸中門崎(りくちゅうかんざき)から摺沢に向かう北ルートに変更、となりました。
③1924年の総選挙で、憲政会の柵瀬軍之佐(さくらいぐんのすけ)が当選しました。
→ 1925年に、摺沢から千厩(せんまや)に向かう南ルートに変更、となりました。
ポイントとしては、次の1928年総選挙(第16回)で、小選挙区から中選挙区に変更されたことでしょうか。やっぱ小選挙区というのは、問題があるような気がします。
あと、一関の駅名が、現在でも「一ノ関駅」ということに、初めて気付きました。よくわかりませんが、ありがとう。
というわけで、画像は「なべづる路線」です。
この路線には、ドラゴンレール という愛称もあるようです。
なんかカッコイイな。