つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

侍たちの挽歌。

2023年10月09日 23時44分44秒 | 旅行
                   
少し以前のことになるが「会津娘子隊(じょうしたい)」について投稿した。
その末尾で書いたとおり、僕は、会津へ3度目の旅にやって来た。

主な目的は「戊辰戦争」の激戦地・会津若松訪問ながら、
本日(2023/10/09)は、その前に立ち寄った場所---
福島県・南会津郡・只見町(ただみまち)にある、
「河井継之助(かわい・つぐのすけ※)記念館」を取り上げたい。



何故、長岡藩家老の記念館が奥会津に--- 。
そのハナシをするには、幕末の情勢から筆を起こす必要があるかもしれない。

嘉永6年(1853年)米艦隊が浦賀沖に姿を現し、動乱の幕が開く。
開国か、それとも攘夷か。
せめぎ合う2つの勢力が火花を散らし、幕府の権威は失墜。
そこで、15代将軍「徳川慶喜」は、倒幕を掲げる薩摩藩、長州藩などに対抗するため、
朝廷へ「大政奉還」を行い、新たな政治体制の構築を試みる。
しかし、薩長は朝廷の倒幕派へ働きかけ「王政復古の大号令」を発布。
徳川家および江戸幕府を政治から排除することに成功。
すると幕府はこの動きに対抗するため京都へ大軍を送る。
新政府軍と「鳥羽・伏見の戦い」の火蓋が切られ、日本近代史最大の内戦「戊辰戦争」が勃発。
戦いは各地へ飛び火。
関東~東北~越後に拡大してゆく。
東北では“朝敵”とされた会津藩を救済するため「奥羽越列藩同盟」が結成。
「河井継之助」率いる長岡藩もここに加入し「北越戊辰戦争」を戦うことになる。



歴史ファンにはお馴染み“越後の蒼龍”は、実にいい面構え。
いかにも頑固で意志が強そうな「侍像」を彷彿とさせる。
彼の前に鎮座する武器は「ガトリング砲(複製)」。
複数の砲身(銃身)を環状にまとめ、ハンドルで回転させることで、
給弾、装填、発射、排莢を連動反復して行い、1分間に200発もの弾丸を発射できた。



この最新兵器を駆使して長岡藩は奮闘したが、
次第に地力に勝る新政府軍に押されて敗走。
戦いのさ中に負傷した「河井」と藩士千数百名は再起をはかるため、会津へ落ち延びようとした。
--- 世に言う「八十里越(はちじゅうりごえ)」である。

現在の新潟-福島の県境にあたる峠道。
ブナの樹海と急峻な山々の間を縫って続くため、八里が八十里にも感じたという。
その難所を往く逃避行中「河井」はこんな歌を詠んだ。

『八十里 こしぬけ武士の 越す峠』

「腰抜け」と「越後を脱け出す」を重ねた自嘲の句である。
そして、彼は八十里を越えられなかった。
途中、現・只見町にて他界。
享年42。
蝉時雨が降り注ぐ慶応4年(1868年)夏のことだった。
官軍にそれと悟られぬよう、廟所は墓石ではなく祠(ほこら)。
名前も没年もなく実に簡素である。



八十里の苛酷さの片鱗は、今も窺える。
当時とは勿論違うルートで、自動車道として整備されているが、
国道252号線は、まさに九十九折り(つづらおり)だった。





<次回へ続く>

(※河井継之助の名前は「つぐのすけ」か「つぎのすけ」かハッキリしていない。
  只見町の記念館では前者を採用しているので、今投稿はそれに倣った)
                 
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大西山の丘辺に立てば。

2023年10月07日 21時55分55秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                      
このカテゴリー「大西山の丘辺に立てば」を立ち上げて、およそ1年3カ月が経つ。
ネーミングの由来は「津幡町立 津幡小学校」校歌の一節である。

『古城跡(こじょうし)に 河北の花と 
 大西山の丘辺に立てば
 山はみどりに 潟ひらけたり  
 わが学び舎ここに立てり』

その目的は、わが母校の創立150周年に華を添えたい一心。
応援団末席に座り取り組んできた任務を果たし終え、そろそろ区切りが見えてきた。
同校に縁のない方にはピンと来ないだろうが、
いち学び舎の歩みに明治~大正~昭和~平成~令和と流れた、
「時の光の飛沫」を見つけてもらえたら幸いである。

さて「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて企画展がスタート。
今回は「津幡小学校創立150周年記念 ヒストリー展」を紹介したい。





写真40点、教科書42冊、賞状など26点。
アルバム22点、掛図6点、教材6点、文房具7点。
合計150点に上る展示品が並んでいる。
しかも12月半ばまでのロングラン開催で、若干の入れ替えも考えているとか。
「れきしる」最大の規模といえるかもしれない。





この2枚の写真、
上段は明治22年(1899年)の卒業写真。
男児は全員坊主頭、女児は桃割れなどの日本髪だ。
下段は尋常小学校卒業記念筆跡集。
卒業生本人が肉筆で書いた名前が並ぶそれは、後の卒業アルバムに匹敵する。
ページ構成が成績順で、男児が先、女児が後に配置されているのは時代を感じるのだ。



これは明治32年(1899年)に設立された「子守学校」の様子。
裕福な家の子守奉公に従事する女性たちが対象。
週3日午後2時間、「おんぶ紐」で赤ちゃんを背負いながら、
現在の「道徳」にあたる修身、読書、算術、唱歌などを学んだ。
姿を消した授業風景の代表格だろう。

この頃の主な出来事として、2つの対外戦争は外せない。
日清戦争、日露戦争では津幡町からも若者たちが出征してゆき、遠い異国で命を落とした。
大西山に建つ忠魂碑傍の石板には、その後の「日中戦争」や「太平洋戦争」と併せ、
戦没者の芳名が刻まれている。



その忠魂碑建立の年、皇紀2600年(昭和15年/1940年)は、
日本各地で様々な記念行事・記念事業が行われた。
上掲写真は、その式典に参加した資料である。
興味深いのは手前中央の「献立の栞(しおり)」。
『紀元二千六百年の聖代を寿ぐ限りなく喜びの裡に、遥かに思ひを戦線の将士に馳せ、
 其の奮闘を偲ぶよすがにもと、食饌は我が国古来よりの食物を材料とした
 軍用携帯食を調えたものであります。』
--- と前置きして、乾燥粉末味噌を使った汁、味付乾燥牛肉の主菜、
携帯口糧(けいたいこうりょう)のご飯などが振舞われたようだ。
当時の風潮が窺える。





昭和45年(1970年)の教材「小学社会科掛図」。
黒板の前や横に掛け下げて、指し棒片手の先生が説明を行った。
・放し飼いのニワトリが行き来する庭の縁側に腰かけ、割烹着の女性と話す絵
・溝を流れる下水を噴霧器で消毒する絵
どちらも、なかなか見かけることは叶わない「失われた風景」である。
この掛図は程なく姿を消し代わって「OHP(オーバーヘッドプロジェクター)」が登場。
重厚な光学拡大表示機器も、やがて液晶プロジェクターへと移り変わってゆく。





続いて「津幡まつり」の際、街中を練り歩く「鼓笛隊」のスナップ写真。
昭和55年(1980年)撮影。
個人的にはとても懐かしい。
小学生だった僕もリコーダーを吹きながら参加した。
これも「失われた風景」。
今はもう行われていない行事だ。
ちなみに下段、フラッグを掲げる子供たちの背後最奥に見える建物が、
僕が通った校舎である。



以上、紹介したのはほんの一端。
「津幡小学校創立150周年記念 ヒストリー展」は、
「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて絶賛開催中。
都合と時間が許せば、是非足を運んでみてはいかがだろうか。
                             
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津幡短信vol.115. ~ 令和五年 神無月+闘魂忌。

2023年10月01日 23時00分00秒 | 津幡短信。
本日(2023/10/01)わが津幡町の天気は、雨時々曇ところにより晴れ。
最高気温27℃を記録し「夏日」となった。
日中はTシャツ一枚で過ごせるが、朝晩はさすがに涼しい。
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回は、街中で観止めた秋の気配を取り上げてみたい。
                        
【ゆっくりと進む秋。】
                   


毎年、季節の移り変わりを印象付けてくれる1つは「銀杏並木」だ。
場所によって、樹木によって差はあるが日に日に色づきを変える葉は、
まるで夏と秋を分類する「リトマス試験紙」のよう。
やがて始まる落葉は、冬到来の報せとなる。



銀杏の傍らに立つ「栗の木」では、枝の毬(いが)が爆ぜる寸前。
更に足元の路傍には、実のない毬がギンナンと一緒に並んでいた。



石川県内の栗の産地として知られるのは能登半島。
輪島市、珠洲市、穴水町、能登町で栽培されるそれは「能登栗」と呼ばれている。
水持ちがよく、鉄分やカルシウムが豊富な奥能登の粘土質の赤土で育まれた栗は、
美味しいと評判だ。
仄かに甘い炊き込みご飯の味わいを思い出すと、口中に生唾が滲む。
秋ならではの条件反射。
さながら「パブロフの犬」である。



秋になると目にする機会が増える昆虫は「蟷螂(カマキリ)」である。
夏の間、ひたすら狩りをして過ごした雄が逞しく成長し、
秋、交尾相手を探して活動的になる為、人目に付きやすい。
よく知られていることだが、カマキリの交尾には時に危険が伴う。
「必ず」ではないが、生殖行為後、雄が雌に食べられるケースは少なくない。
メスの方が大柄なオオカマキリに見受けられる生態を僕も目撃した事がある。
残酷と思ってはいけない。
それは種を残すための通過儀礼とも考えられるのだ。



--- さて「年度」前後半の節目となる10月1日は「記念日」が多い。
法の日、印章の日、土地の日。
コーヒーの日、日本茶の日、日本酒の日、醤油の日。
ネクタイの日、メガネの日、香水の日、磁石の日---等々沢山ある。

個人的に忘れ難いのは「闘魂忌」。
元プロレスラーで、元参議院議員の「アントニオ猪木さん(本名・猪木寛至さん)」が、
2022年10月1日、都内の自宅でお亡くなりになった。
あれからもう1年。 
時の経つのは早いものだ。

数万人に1人とされる難病に侵され2年余り。
SNSを通じ病み衰えた姿を敢えてさらけ出し、
自分と同じように病で苦しむ方々に頑張っている姿を見せて、勇気を与えた。
闘って、闘って、闘い抜いて、最期は3カウントを取られて旅立っていった「猪木さん」。
その生き様はやはり“燃える闘魂”だった。
改めてそう思うのである。
                         
<津幡短信 vol.115>
                      
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