少し以前のことになるが「会津娘子隊(じょうしたい)」について投稿した。
その末尾で書いたとおり、僕は、会津へ3度目の旅にやって来た。
主な目的は「戊辰戦争」の激戦地・会津若松訪問ながら、
本日(2023/10/09)は、その前に立ち寄った場所---
福島県・南会津郡・只見町(ただみまち)にある、
「河井継之助(かわい・つぐのすけ※)記念館」を取り上げたい。
何故、長岡藩家老の記念館が奥会津に--- 。
そのハナシをするには、幕末の情勢から筆を起こす必要があるかもしれない。
嘉永6年(1853年)米艦隊が浦賀沖に姿を現し、動乱の幕が開く。
開国か、それとも攘夷か。
せめぎ合う2つの勢力が火花を散らし、幕府の権威は失墜。
そこで、15代将軍「徳川慶喜」は、倒幕を掲げる薩摩藩、長州藩などに対抗するため、
朝廷へ「大政奉還」を行い、新たな政治体制の構築を試みる。
しかし、薩長は朝廷の倒幕派へ働きかけ「王政復古の大号令」を発布。
徳川家および江戸幕府を政治から排除することに成功。
すると幕府はこの動きに対抗するため京都へ大軍を送る。
新政府軍と「鳥羽・伏見の戦い」の火蓋が切られ、日本近代史最大の内戦「戊辰戦争」が勃発。
戦いは各地へ飛び火。
関東~東北~越後に拡大してゆく。
東北では“朝敵”とされた会津藩を救済するため「奥羽越列藩同盟」が結成。
「河井継之助」率いる長岡藩もここに加入し「北越戊辰戦争」を戦うことになる。
歴史ファンにはお馴染み“越後の蒼龍”は、実にいい面構え。
いかにも頑固で意志が強そうな「侍像」を彷彿とさせる。
彼の前に鎮座する武器は「ガトリング砲(複製)」。
複数の砲身(銃身)を環状にまとめ、ハンドルで回転させることで、
給弾、装填、発射、排莢を連動反復して行い、1分間に200発もの弾丸を発射できた。
この最新兵器を駆使して長岡藩は奮闘したが、
次第に地力に勝る新政府軍に押されて敗走。
戦いのさ中に負傷した「河井」と藩士千数百名は再起をはかるため、会津へ落ち延びようとした。
--- 世に言う「八十里越(はちじゅうりごえ)」である。
現在の新潟-福島の県境にあたる峠道。
ブナの樹海と急峻な山々の間を縫って続くため、八里が八十里にも感じたという。
その難所を往く逃避行中「河井」はこんな歌を詠んだ。
『八十里 こしぬけ武士の 越す峠』
「腰抜け」と「越後を脱け出す」を重ねた自嘲の句である。
そして、彼は八十里を越えられなかった。
途中、現・只見町にて他界。
享年42。
蝉時雨が降り注ぐ慶応4年(1868年)夏のことだった。
官軍にそれと悟られぬよう、廟所は墓石ではなく祠(ほこら)。
名前も没年もなく実に簡素である。
八十里の苛酷さの片鱗は、今も窺える。
当時とは勿論違うルートで、自動車道として整備されているが、
国道252号線は、まさに九十九折り(つづらおり)だった。
<次回へ続く>
(※河井継之助の名前は「つぐのすけ」か「つぎのすけ」かハッキリしていない。
只見町の記念館では前者を採用しているので、今投稿はそれに倣った)