つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

大西山の丘辺に立てば。

2023年10月07日 21時55分55秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                      
このカテゴリー「大西山の丘辺に立てば」を立ち上げて、およそ1年3カ月が経つ。
ネーミングの由来は「津幡町立 津幡小学校」校歌の一節である。

『古城跡(こじょうし)に 河北の花と 
 大西山の丘辺に立てば
 山はみどりに 潟ひらけたり  
 わが学び舎ここに立てり』

その目的は、わが母校の創立150周年に華を添えたい一心。
応援団末席に座り取り組んできた任務を果たし終え、そろそろ区切りが見えてきた。
同校に縁のない方にはピンと来ないだろうが、
いち学び舎の歩みに明治~大正~昭和~平成~令和と流れた、
「時の光の飛沫」を見つけてもらえたら幸いである。

さて「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて企画展がスタート。
今回は「津幡小学校創立150周年記念 ヒストリー展」を紹介したい。





写真40点、教科書42冊、賞状など26点。
アルバム22点、掛図6点、教材6点、文房具7点。
合計150点に上る展示品が並んでいる。
しかも12月半ばまでのロングラン開催で、若干の入れ替えも考えているとか。
「れきしる」最大の規模といえるかもしれない。





この2枚の写真、
上段は明治22年(1899年)の卒業写真。
男児は全員坊主頭、女児は桃割れなどの日本髪だ。
下段は尋常小学校卒業記念筆跡集。
卒業生本人が肉筆で書いた名前が並ぶそれは、後の卒業アルバムに匹敵する。
ページ構成が成績順で、男児が先、女児が後に配置されているのは時代を感じるのだ。



これは明治32年(1899年)に設立された「子守学校」の様子。
裕福な家の子守奉公に従事する女性たちが対象。
週3日午後2時間、「おんぶ紐」で赤ちゃんを背負いながら、
現在の「道徳」にあたる修身、読書、算術、唱歌などを学んだ。
姿を消した授業風景の代表格だろう。

この頃の主な出来事として、2つの対外戦争は外せない。
日清戦争、日露戦争では津幡町からも若者たちが出征してゆき、遠い異国で命を落とした。
大西山に建つ忠魂碑傍の石板には、その後の「日中戦争」や「太平洋戦争」と併せ、
戦没者の芳名が刻まれている。



その忠魂碑建立の年、皇紀2600年(昭和15年/1940年)は、
日本各地で様々な記念行事・記念事業が行われた。
上掲写真は、その式典に参加した資料である。
興味深いのは手前中央の「献立の栞(しおり)」。
『紀元二千六百年の聖代を寿ぐ限りなく喜びの裡に、遥かに思ひを戦線の将士に馳せ、
 其の奮闘を偲ぶよすがにもと、食饌は我が国古来よりの食物を材料とした
 軍用携帯食を調えたものであります。』
--- と前置きして、乾燥粉末味噌を使った汁、味付乾燥牛肉の主菜、
携帯口糧(けいたいこうりょう)のご飯などが振舞われたようだ。
当時の風潮が窺える。





昭和45年(1970年)の教材「小学社会科掛図」。
黒板の前や横に掛け下げて、指し棒片手の先生が説明を行った。
・放し飼いのニワトリが行き来する庭の縁側に腰かけ、割烹着の女性と話す絵
・溝を流れる下水を噴霧器で消毒する絵
どちらも、なかなか見かけることは叶わない「失われた風景」である。
この掛図は程なく姿を消し代わって「OHP(オーバーヘッドプロジェクター)」が登場。
重厚な光学拡大表示機器も、やがて液晶プロジェクターへと移り変わってゆく。





続いて「津幡まつり」の際、街中を練り歩く「鼓笛隊」のスナップ写真。
昭和55年(1980年)撮影。
個人的にはとても懐かしい。
小学生だった僕もリコーダーを吹きながら参加した。
これも「失われた風景」。
今はもう行われていない行事だ。
ちなみに下段、フラッグを掲げる子供たちの背後最奥に見える建物が、
僕が通った校舎である。



以上、紹介したのはほんの一端。
「津幡小学校創立150周年記念 ヒストリー展」は、
「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて絶賛開催中。
都合と時間が許せば、是非足を運んでみてはいかがだろうか。
                             
コメント
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