先日、NHK-FMで聴いたあるやり取りが印象に残った。
歌手/作曲家/俳優の「宇崎竜童」氏をゲストに招いた番組で、
楽曲制作のエピソードなどをトークしていた。
「宇崎」氏については諸姉兄ご承知かと思うが、
まず改めて簡潔にプロフィールを紹介したい。
昭和21年(1946年)2月23日、京都生まれ。
妻は作詞家の「阿木燿子」氏。
昭和43年(1973年)「ダウンタウン・ブギウギ・バンド」を結成してプロデビュー。
「スモーキン・ブギ」「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などでヒットメイク。
また、作曲家としては一連の「山口百恵作品」で知られる。
俳優業にも進出。バンド解散後はソロ活動へ移行。
現在も多方面で活躍中だ。
--- さて、印象に残ったやり取りである。
本来は聴き起こししたいところなのだが、事後配信に対応していないため、
僕個人の記憶に沿い、少し補足と想像を交えて書いてみたい。
話題はゲストの少年時代。
彼は、小学校の男性教諭から注意を受けた。
「教育上好ましくない下世話な歌謡曲を歌っていた」というのが理由だ。
しかし、実は口ずさんでいたのはこの曲だった。
エルヴィス・プレスリー ハートブレイク・ホテル 1956 / Heartbreak Hotel
Well, since my baby left me
Well, I found a new place to dwell
Well, it's down at the end of
Lonely Street
At Heartbreak Hotel
Where I'll be...
I've been so lonely, baby
Well, I'm so lonely
I'll be so lonely I could die
『先生、アレは歌謡曲じゃありません。ロックンロールです』
発した一言は、教師の怒りに油を注ぐ結果になったという。
そんな出来事があった週末、半ドンの午後か日曜日。
彼が、校庭で独り遊んでいると宿直の女性教諭から声がかかる。
『木村くーん(宇崎氏本名)』
『何ですか?』
『この前、叱られていたでしょ。--- あの時の曲、持ってるの?』
『---?--- はい、持ってます』
『センセイ、聞いてみたいな』
彼女は、大学を出て赴任したばかり。
ケチをつけてきたオジサン先生に比べれば年齢は近く、親しみが湧いた。
柔らかな物腰と言葉遣いにも、好感が持てた。
一旦、学校の近くにある家へ戻り、
姉のレコード棚から78回転のシングル盤を持ち出してきて、彼女に手渡した。
嬉しそうに受け取ったセンセイは、
校内に1台きりの機材、手回し式の蓄音機にレコードをのせ針を落とす。
それは、学校中の拡声器につながっていた。
ラッパスピーカーから大音量で流れる「エルビス」の甘い歌声を聞きながら、
少年は、独り鉄棒で逆上がりをしていた。
不定期イラスト連載 第百七十五弾「ハートブレイク・ホテルと少年の日」。
まるで、映画のワンシーンのようだと思った。
「宇崎」氏が中学時代までを過ごしたのは、東京の「代々木上原」。
東京都渋谷区の西部にあるそこは、今は閑静な高級住宅街だが、
明治・大正の頃は原っぱや牧場だったという。
前述のエピソードがあった当時は、牧歌的な風景が残っていたのではないだろうか。
その頃の世相を振り返ってみよう。
テレビの本放送がスタート(1953年)
第五福竜丸事件(1954年)
映画「ゴジラ」公開(1954年)
トヨタ・クラウン発売(1955年)
売春防止法成立(1956年)
東京タワー完成(1958年)
---「エルビス・プレスリー」を受け容れる感性を備えた女性と少年は、
敗戦から立ち直った日本に新しい価値観が生まれはじめた時代の象徴なのかもしれない。
Elvis Presley "Hound Dog" (October 28, 1956) on The Ed Sullivan Show
そもそも「エルビス・プレスリー」の存在自体が、
“世界の新しい価値観”そのものだった。
第2次大戦後のアメリカで、好景気を背景にして生まれた「豊かなティーン」。
戦前・戦中を生きた大人たちと異なる基準を持つ新人類が、
彼を「ロックンロール」のスターとして熱狂的に迎えた。
ロックもロールも、元は「セックスやダンス」を意味する黒人英語のスラングである。
当時は「公民権運動(※)」の真っ最中。
一部の白人はブラックパワーに脅威を感じていた。
アフリカンアメリカンを強く意識させる歌やパフォーマンス。
さらに「よく分からない若いもん達」が熱狂しているではないか。
オトナ達の多くは、さぞ盛大に眉間にシワを寄せ、
あるいは深いため息をつきながら「エルビス・プレスリー」を見つめたことだろう。
(※アフリカ系アメリカ人が、憲法が保障した権利の適用、実現を求めた運動)