日本がバブルの臨界へと駆け上がり始め、浮かれた空気の漂う80年代後半。
僕は、名古屋の盛り場「錦三丁目」のクラブ(※)でバイトをしていた。
(※DJがいて踊る方ではない)
陽が傾きネオン輝き出すころ、街には有象無象が全員集合。
スーツ姿の企業戦士、セカンドバッグ片手の成金風、ヤクザ。
人の溢れる通りに店々の「マネージャー」が繰り出し、情報交換が始まる。
最も重要な話題は「ホステス」の動向。
彼女たちは、ある種の個人事業主 --- 趨勢の鍵を握る「接客のプロ」だ。
高待遇に惹かれ、店(チーム)を移籍すれば、お客(ファン)も付いてくる。
上得意を持つホステスが何人いるかで売り上げが大きく違うのだ。
ボディコンシャスな全身シャネラー。
無重力用か?と疑いたくなる大胆なフレアドレス。
スプレーで固め、盛り上げたアップヘアに和服姿。
品種改良された熱帯魚のように、華美で可憐な御姐さん方の間を駆け回り、
お世話する「ボーイ」が僕の仕事だった。
原価の20~50倍に跳ね上がるつまみを運び、
仕入れ値の150~180%増しのウイスキーボトルを差し出し、
アイス・水・おしぼりの補充、灰皿を替え、後片付け。
単純だが、日に何十回転もするそれらを捌くと、クタクタになった。
そんな忙しい仕事が終わったある日、ロッカールームでチーフから声が掛かる。
「おい、ちょっと付き合え。 でらいいトコ、行こまい。」
「イラッサイマセーッ!」
扉を開けた途端、元気で妙なイントネーションの声に迎えられた。
ルクスの低い間接照明に目が慣れてくると、
赤いサテン地のソファに女たちが並んでいるのが分かった。
皆、胸元ギリギリ、膝上20センチの赤いマイクロミニワンピ。
真っ赤なルージュ、マニキュアも赤。
艶やかに濡れたような黒髪。
瞳は、南洋の黒真珠。
南国生まれだから、汗腺が多いのだろうか?
押し付けられた腕、重ねてきた掌も、しっとりと吸い付く。
褐色の肌からは、熟れたバナナに似た匂いが立ち昇る。
パフュームと体臭が混ざり合い醸された香りに幻惑された僕の脳裏に、
仄暗い密林の奥に咲く食虫花が浮かんだ。
「アナタァ、ヤサシナ💓」
「コンド、ドーハン、オニガイ💓」
「ダイスキィ~💓」
ソファの高い背もたれの向こうでは、ボックス毎に迎撃戦が展開。
どうやら戦況は一方的。
比女性軍特殊部隊の圧勝のようだ。
もちろん僕もあっさりと白旗を掲げ、以降しばらく散財を重ねたのである。
戦後、日本とフィリピンは、早くから芸能面でのつながりがあった。
1960年代から数多くのフィリピンバンドが出稼ぎに来て、
ディスコやクラブで演奏していた。
1970年代、日本に海外旅行ブームが訪れ、比較的近距離のフィリピンは、
オアフ島やグアム島に並ぶ人気の観光地になった。
特に、歓楽の充実するマニラ市は、男共を魅了した。
だが、マルコス政権が独裁を強め治安が悪化し、
買春ツアーへの非難が高まり、ネオン街から日本人が消えた。
1980年代に入り、今度はフィリピン人女性たちが大挙上陸して来る。
日比間で協定が結ばれ、短期(半年)の興行ビザ入国が可能になり、
フィリピン人エンターテイナーを斡旋する興行師が現れ、
列島の津々浦々に「フィリピンパブ」が乱立していった。
「じゃぱゆき」という言葉を見聞きするようになり、
彼女たちは、発展途上国から出稼ぎに来た非道徳的な存在と揶揄(やゆ)された。
確かに、性的な接触を強要されるなど、労働環境には厳しい面があった。
確かに、受給までの流れには、日比双方の裏社会が絡み問題があった。
売春をサービスした店もあったと聞くが、全てに当て嵌まる訳ではない。
中には、客と懇ろ(ねんごろ)になるケースはあっただろう。
枕営業だってあっただろう。
でも、それはフィリピーナの専売特許ではない。
僕のバイト先でも、似た事例は決して珍しくなかった。
色恋にカネと欲が絡んだ騙し合いは、夜の世界の日常茶飯事。
古今東西、盛り場で繰り返される「業(ごう)」や「性(さが)」だ。
僕が知る限り、彼女たちは搾取されるだけの弱者ではない。
「円」を狩りに南シナ海を渡ってきた、陽気で美しく強か(したたか)な戦士だった。
--- あれから30数年が経った今、
フィリピンパブは絶滅の危機に瀕しているという。
2005年、入管法改定により興行ビザの発給基準が厳格化され、
若年女性タレントが来日する時代は終わった。
そして、新型コロナウイルスである。
かつて一大勢力を誇った灯(ともしび)は、風前で揺らいでいる。
昔ほどではないですが、今でも栄4丁目(女子大小路・池田公園辺り)はインターナショナルな雰囲気ですよ。
ただ、安く楽しめるお店は全滅しましたね。
良くも悪くも時代の流れを感じます。
地方のフィリピンパブは高齢化が進み閉店も進んでいるらしいですが、女子大小路・池田公園、東京・竹ノ塚には、若いタレントさんが在籍しているらしいですね。僕が通った店も女子大小路でした。
当時は、フィリピンパブとコリアンパブが二大勢力。タイの女の娘も見かけるようになり始めた頃でした。今は南米、中国の店もでき多国籍で不思議な空気が残っていると聞いています。(いずれもコロナで大変でしょうが)
さて、津幡町ご出身との事。拙ブログの本懐は津幡の散策と記録。極めて私的な視点ですが続けていきたいと思っています。これからしばらくは雪も降るため散歩に出かける機会は少なくなりそうですが、時間と都合が許せば、暇つぶしにでも覗きにきてやってくださいませ。
では、また。
これからしばらくは雪も降るため散歩に出かける機会が減り、津幡関連の話題は少なくなりそうですが、時間と都合が許せば、暇つぶしにでも覗きにきてやってくださいませ。
文章、イラストともに完全敬服です。
素晴らしい、の一語に尽きます。
80年代って、バブルに向けて日本が昇り調子だった頃でしょうか?当時、僕は脳ミソ筋肉のアスリートだったので、良く分かりませんでしたが、それでもバブルのお陰で二流選手でもアスリートというだけで、上場企業に就職できる恩恵を受けれる時代だと記憶しています。
素晴らしいブログを楽しませていただきます。
またまた過分なお褒めに与り恐縮至極---。
ま、今後も、どーぞよろしくお願いします。
さて、80年代。
カネが人心を掻き回していた印象です。
楽しい思い出もありますが、振り返るとまともとは思えません。僕はアスリートではありませんのでZhenさんの環境・心境は分かりませんが、とにかく浮かれまくっていましたね。
僕も貴ブログを楽しく拝見しております。
では、また。
魅惑のフィリピーナ感がとてもよく伝わってきます。
確かに彼女たちは魅惑的でしたが、ギスギスした所もありました。
動物的というか、本能的というか
でもそれに惹かれちゃうんですよね。
教育は受けてないけど、バカじゃない。
時代に甘やかされた日本のホステスとは大きな違いでした。
でも、バブル末期の80年代のきらびやかな夜の街で仕事をしてたなんて、羨ましい限りです。
そういう私も、あの頃のピーナパブが頭を離れないんですよね。だから、廃れたと判りきってても通ってしまう。
あの頃の何か一部が残ってるかもしれないって期待する。勿論、何も残ってないのに・・です。
ああ、これも記事にしたくなりました。