つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

侍たちの挽歌 其の参。

2023年10月15日 21時04分44秒 | 旅行
                        
近代日本最大の内戦・戊辰戦争(ぼしんせんそう)ゆかりの地を訪ねる旅。
前々回投稿前回投稿の続篇。



画像は、福島県・南会津の「大内宿(おおうちじゅく)」。
江戸時代、会津若松市と日光今市を結ぶ街道の宿場町として栄えた。
茅葺屋根の民家が建ち並び、往時の面影を留めたそこは、
国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定。
よく整備された観光地だが、時計の針を巻き戻すと危うい場面があった。
戊辰戦争に於いて藩境を守る会津軍が後退する際、
自分たちが去った後、新政府軍西軍の本拠地にならないよう大内宿を焼き払おうとした。
しかし、名主が金品を叩いて嘆願。
寸でのところで戦火を免れる事が出来たのである。
これはレアケースと言えるかもしれない。

戦争という事態を構成する要素は「戦闘」に加え、
「兵站(へいたん):戦闘員の移動と宿泊や食事の手配」
「輜重(しちょう):軍隊食の手配や運送、武器・弾薬の移送」も欠かせない。
これを維持するためには、戦闘員とほぼ同数かそれ以上の軍夫(陣夫)が必要で、
戦場となった地域の村々から強制的に徴発された。
更に、焼き打ち、略奪、凌辱に遭った例は少なくないだろう。



帰路に立ち寄ったのが「長岡市 北越戊辰戦争伝承館」である。
到着時間は閉館15分前。
それにも拘わらず、快く迎え入れてくれた。
ありがとうございます。

--- さてこの建物周辺は「北越戊辰戦争」の激戦地。
長岡・会津・米沢らの奥羽越列藩同盟軍と、薩摩・長州らの新政府軍が何度も刃を交えた。
特に長岡藩兵による「八丁沖(はっちょうおき) 渡河作戦」は、
歴史ファン、ミリタリーファンの間でつとに有名である。

「八丁沖(別名:八町潟)」とは、当時この一帯にあった大湿原。
面積、南北5km-東西3km。
水深、浅い所は膝下くらい。深くてもせいぜい腰高。
アシやススキが鬱蒼と生い茂り小舟の通行はままならない。
そのおよそ人の行き来にそぐわない湿地を、夜陰に紛れて縦断し攻め入ろうというのだ。
作戦の指揮を執るのは、今シリーズ初回で取り上げた“越後の蒼龍”、
長岡藩家老「河井継之助(かわい・つぐのすけ)」である。


(※「伝承館」2階バルコニーから撮影)

--- 何ともはや稚拙な図解で恐縮だが---
赤い点線で囲った田園が、八丁沖跡。
青い矢印が長岡藩軍の動き。
目指す方向には『さすがにコッチから攻撃はないだろう』と油断した新政府軍。
完全な奇襲だった。

慶応4年(1868年)初秋 日没後、
長岡藩兵700人あまりが一列縦隊となり、息を潜めて八丁沖へ進出。
武器弾薬・食料を携行しながら膝上まで泥に沈み、泥の上を這い、
物音を立てないよう細心の注意を払いながら前進。
月が雲間から姿を表せば、全軍が沼地に伏せ月光の翳りを待った。
そして、虚を突いて新政府軍陣地を攻め落とし、
翌未明、敵の手に落ちていた長岡城の奪還に成功。

しかし払った犠牲も少なくなく、
「河井継之助」はこの時の戦いで負傷し程なく命を落とすことになる。



<新組地域では、今でも銃弾や砲弾が見つかることがあります。
 田んぼや畑の耕作により、地面の下にうまっていた物が掘り出されたためです。
 おもに鉛でできている銃弾を利用して、魚つりのおもりに使ったという逸話も
 この地域には伝えられています。
 いかにたくさんの銃弾や砲弾が使用されたのか、
 また、いかに大切な歴史資料がこの地域で守り伝えられてきたのかということを、
 これらの資料は語りかけているようです。>

(※<   >内、伝承館展示説明文より引用/原文ママ)
(※新組地域は、明治の町村制施行に伴い複数村落が合併した名称と推測)



上掲画像、ライフル左の「椎の実型砲弾(長弾)」は、
戊辰戦争に於ける幕府側の主力火砲「四斤山砲(しきんさんぽう)」のもの。
「四斤」は砲弾重量4kgに由来。
「山砲」は山地での使用に合わせ車輪などを分解・運搬しやすくした種。
黒船襲来以降、急速に普及した近代兵器の代表格だ。



ちなみに「四斤山砲」を開発したのはフランス。
当時、幕府側の軍事的後ろ盾だった。
一方、新政府側を支持していたのはイギリス。
同胞が血で血を洗う内戦は、
極東の新しい市場を巡る欧州強国のパワーゲームとも言えるのである。



遅い来訪を詫び、礼を述べて退出した僕は伝承館傍の石碑の前に立った。
御影石に刻まれた『戊辰戦跡記念碑』の文字の揮毫は、
「山本五十六(やまもと いそろく)」。
彼もまた戊辰戦争と浅からぬ因縁を持つ。

後の連合艦隊司令長官は、明治17年(1884年)に生を享けた。
元々の姓は「高野」。
生家は旧長岡藩士として辛酸を舐めている。
祖父は長岡城攻防戦で戦死。
父と2人の兄も従軍し負傷。
「五十六」幼少期の暮らし向きは決して豊かではなかったという。
32歳の時、養子に入った「山本家」は源氏の末裔で、代々長岡藩家老職を務める名門。
系図の中には、北越戊辰戦争時に「河井継之助」と共に矢弾の下を潜った人物、
「山本帯刀(たてわき)」がいた。

最後に「山本五十六」が遺した歌の1つを紹介したい。

『弓矢とる 国に生れし益良雄(ますらお)の
     名をあらはさむ ときはこのとき』


字面を追うと、対米戦争への勇ましい気構えに思える。
また、強大な敵を前に挫けそうな心を鼓舞する歌にも思える。
そして「弓矢取る国」を「長岡藩」に置き換えて読めば、
先人たち、侍たちへ捧げた挽歌にも思えてくるのだ。

〈もう1回だけ続く、次は“軽い内容”です〉
                                

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2 コメント

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りくすけさんへ (Zhen)
2023-10-15 21:39:08
こんばんは

内戦とは言え戦争。それでも国内の地域間では、強い遺恨が生じていないのは、なぜなのでしょうか?
同じ民族、同じ宗教のためでしょうか?
そもそも、日本人は、忘れっぽいのでしょうか?
中国人の友人から「日本人は、原爆投下までしたアメリカを恨むどころか、歓迎している。」まったく日本人の内面を理解できないと。
不思議ですね。

大内宿には、何度か行っていますが、危うく焼失を免れたこと、知りませんでした。

では、また。
返信する
Zhen様へ。 (りくすけ)
2023-10-16 10:46:53
コメントありがとうございます。

ご存じかもしれませんが---
戊辰戦争から150年余りが経過した今、
地域間の遺恨は薄まりましたが、しばらくは根強かったようです。
北越の戦いで敗れた河合家・山本家は賊軍の将として長い間赦免されませんでした。
それを救ったのが“戦争の英雄”「五十六」です。
その山本五十六も海軍に入った当時は薩摩閥の強い組織の中で日陰に甘んじていました。
ちなみに陸軍は長州閥。日露戦争の将軍「乃木」「児玉」は長州出身。日本海海戦で武名を挙げた「東郷」は薩摩出身。賊軍出身の人たちは苦労したと聞いています。
また武門だけじゃなく庶民も同様に出自の違いによる地域差別はあったそうですが、対外戦争を遂行するためには「日本人として纏まらなければならない」という歴史の流れも影響して遺恨は薄くなった。
そう思います。

さて、日本人の遺恨を忘れやすい内面。
まったくの私見ながら僕は深淵に「自然気候風土」があると考えます。
水も土壌も豊かで多くの恵みを与えてくれる日本の自然は、人智を超える絶対的強者。
反面「強い自然」だからこそ、地震、大雨(洪水/台風/大雪)などもすぐ傍にある。
だから起こってしまった災厄は受け容れるしかない。
もちろん戦災(人災)と天災は別物。
でもどこか似た感覚があるのかもしれません。
個人的は諸手を挙げてアメリカを歓迎してはいませんが。

貴ブログ、大内宿の投稿を見直しました。
赤い「山野草」の看板、そのまま全く変わる事なく掛けられていました(笑)

取り留めのない長文失礼しました。
では、また。
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