何度か書き記している通り、ブログ開設の動機の1つが、
「失われていく記憶の中の風景」を記録するため。
昨年の5月12日、ブログの初投稿で僕はこう書いた。
『ドンパッチの感動を与えてくれた駄菓子屋だって跡形もない。』
その駄菓子屋が「今日の一枚」…おやど橋の袂に佇む建物である。
実際は“跡形もない”訳ではない。
店舗として営業はしていないが、器としては残っている。
…しかし、どうしても店の名前が思い出せないのだ。
建物にも痕跡が見当たらない。
ガラス戸や出入り口の鴨居辺りに、名残があってもよさそうなものだが、
キレイに取り除かれてしまっている。
目に見える風景なのに、正体が分からない。
大きな喪失感を覚え“跡形もない”と表現した。
ただ、ここで過ごした事はそれなりに覚えている。
お菓子や雑誌、ガチャガチャなどが揃った、子供の憩いの場だった。
特に記憶に深く刻まれているのが…「ドンパッチ」である。
70年代末、味の素から発売されたお菓子…「ドンパッチ」。
官製ハガキを少し小さくしたサイズの袋に入っていた。
パッケージは鮮やかな原色で、全身が弾けたキャラクターが描かれていた。
袋の中には、ザラメのような不揃いの飴。
口に入れると…パチパチ! 次第にバチ!バチ!バチッ!!
音を立てながら弾けながら溶ける。
ドンパッチには、炭酸ガスを仕込んだ小さな空洞があり、
唾液で飴が溶けた時にガスが解放され、刺激をもたらす。
いや、あれは刺激以上の感覚。
まとまった量を口に放り込んだ時、
火花が散るようなそれは「痛み」と呼んでいいレベルだった。
味わいはオレンジやレモン、コーラ。
間違いなく無果汁の平坦なケミカルテイスト。
とにかく、凄いお菓子だった。
30年以上が経つ今も忘れられない「ドンパッチ」。
だが、早々と販売中止になったらしく、もう口にすることはできない。
また、お店そのものも無くなってしまった。
そして初めて「ドンパッチ」を食べたメモリアルな場所なのに、
肝心の名前が思い出せない。
…ここは三重の意味で、僕にとっての「ロストワールド」だ。
「失われていく記憶の中の風景」を記録するため。
昨年の5月12日、ブログの初投稿で僕はこう書いた。
『ドンパッチの感動を与えてくれた駄菓子屋だって跡形もない。』
その駄菓子屋が「今日の一枚」…おやど橋の袂に佇む建物である。
実際は“跡形もない”訳ではない。
店舗として営業はしていないが、器としては残っている。
…しかし、どうしても店の名前が思い出せないのだ。
建物にも痕跡が見当たらない。
ガラス戸や出入り口の鴨居辺りに、名残があってもよさそうなものだが、
キレイに取り除かれてしまっている。
目に見える風景なのに、正体が分からない。
大きな喪失感を覚え“跡形もない”と表現した。
ただ、ここで過ごした事はそれなりに覚えている。
お菓子や雑誌、ガチャガチャなどが揃った、子供の憩いの場だった。
特に記憶に深く刻まれているのが…「ドンパッチ」である。
70年代末、味の素から発売されたお菓子…「ドンパッチ」。
官製ハガキを少し小さくしたサイズの袋に入っていた。
パッケージは鮮やかな原色で、全身が弾けたキャラクターが描かれていた。
袋の中には、ザラメのような不揃いの飴。
口に入れると…パチパチ! 次第にバチ!バチ!バチッ!!
音を立てながら弾けながら溶ける。
ドンパッチには、炭酸ガスを仕込んだ小さな空洞があり、
唾液で飴が溶けた時にガスが解放され、刺激をもたらす。
いや、あれは刺激以上の感覚。
まとまった量を口に放り込んだ時、
火花が散るようなそれは「痛み」と呼んでいいレベルだった。
味わいはオレンジやレモン、コーラ。
間違いなく無果汁の平坦なケミカルテイスト。
とにかく、凄いお菓子だった。
30年以上が経つ今も忘れられない「ドンパッチ」。
だが、早々と販売中止になったらしく、もう口にすることはできない。
また、お店そのものも無くなってしまった。
そして初めて「ドンパッチ」を食べたメモリアルな場所なのに、
肝心の名前が思い出せない。
…ここは三重の意味で、僕にとっての「ロストワールド」だ。
私も何度か入った記憶がありますが名前が出てきません。20年ぐらい前までにはたばこを売っていて、ミニカーもたくさんおいてあったような。4つ角は金沢へ行く北鉄バスの転回場でもあったので、バスの定期や回数券も売っていたような、、、。
そういえば駄菓子やさんもたくさん有りました。ちょっと金沢よりのビッグママ旧店舗の向かい側、庄町商店街の今はなきナダ文具店の向かい側にもありましたよね。懐かしいです。
旧ビッグママの向かい側の駄菓子屋はよく通いました。奈田文具店も思い出深い所です。その向かいにあった駄菓子屋も然り。
この話題はいずれまた触れたいと思います。
その節はまたご感想をお待ちしております。
旧ビッグママ向かいの駄菓子屋は『かんや』(おそらく屋号で、正式な店舗名は別にあるのでしょう)と呼んでました。番田商店の並びだったかと・・・
一方「かんや」は名前を伺って記憶が甦ってきました。子供にとってはパラダイスのように感じた当時を思い出しました。Mさんのおっしゃるとおり屋号だったと思います。
また気づいたことなどあれば是非コメントしてください。お待ちしております。
酒井医院は今も屋号の「たいとや」で呼ばれていますね。ネーミングの由縁はわかりませんが(笑)。
ここへ来て、感じさせられました。
「たいとや」→「帯刀屋」だそうです。
むかし藩政の時代に、町民でありながらも武士と同じく帯刀が許されるくらいの地元の名士(有力者)だったらしいです。