つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

二つの「まち歩き」。

2023年11月12日 21時21分21秒 | 旅行
                             
前回は岐阜県・東美濃の旅から二つの城址を歩いた様子を投稿した。
今回はその続篇。
岩村城下町、苗木城と木曽川を挟んだ対岸の中津川宿、
二つの「まち歩き」について紹介したい。



まずは岩村城下町である。

歴史的な佇まいが残る町並みの全長は、およそ1.3km。
江戸時代、東美濃の政治・経済・文化の中心として栄えた。
当時の面影を残す商家や旧家、なまこ壁の蔵などが連なる。
全国で48番目、岐阜では高山市、白川村に続いて3番目に、
「重要伝統的建造物群保存地区」として選定された。



岩村の城下町は、元々ここではなく、400年前の天正期に移転。
選定の理由は、城に近く、位置が交通上の要衝で、周囲が丘陵になった盆地。
小さくまとまりがある。
町の中を流れる岩村川を挟んで北側に武家町、南側に町人町を配し、
両者を上段~中段~下段、3つの通りで連絡。
城の防衛施設として、行政・商業地として、計画的に街づくりが成されたと聞く。



「土佐屋」は、元禄年間(1688年〜1704年)に創業した染物屋。
当時は「藍染」が主流だったことから別称は“紺屋”。
江戸古典落語の定番---『紺屋高尾』(花魁と染職人との純愛のストーリー)を通じて、
ご存じの方も少なくないかもしれない。
出入口に近い土間で染物をしていたが、
建物の形状がお分かりになるだろうか?
往時の趣を残した町家は、いわゆる“うなぎの寝床”。
間口が狭く、細い敷地で奥行きが深い造りをしている。













・毎年3月~4月に開催される「いわむら城下町のひなまつり」は、
 100箇所以上に雛人形を展示・公開。
 春の風物詩となっているそうだ。
・11月の第一日曜日には秋の大賑わい市「いわむら城下おかげまつり」。
・NHKの朝ドラ『半分、青い。』のロケ地になったことから、
 昭和色を前面に押し出し演出した「ふくろうまつり」など、
年間を通じて、城下町を舞台にしたイベントも多い。



そして夏の「いわむら城址薪能」。
岩村城藩主邸跡で歴史を見守ってきた老松を背景に、特設能舞台を設営。
月の光と薪(たきぎ)の薄明かりの中で上演される。
かつて、僕が観たのはコレだった。



ハナシを中津川宿に移そう。

江戸時代の陸上幹線道・五街道(ごかいどう)。
東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道。
中津川宿は中山道の宿場町。
お江戸 日本橋から京都 三条大橋までを結ぶ全六十九次のうち、
江戸から45番目にあたる。







『木曽路はすべて山の中である』

そう書き出す「島崎藤村」の小説「夜明け前」にあるとおり、
中山道は、碓氷峠(うすいとうげ)をはじめ、数々の険しい難所を越える山道だ。
それに比べ、東海道五十三次は温暖な太平洋岸を通る。
しかし、江戸を守るという政治的意図から大きな河川には橋を架けず、
増水で度々通行止めになった。
また途中、名古屋~桑名間は船旅も必然。
当然、時化になれば進むことはできない。

一方、中山道は天候の悪化による川留がなく、道中のスケジュールが立て易い。
姫君輿入れをはじめ、多くの女性が通ったことから「姫街道」と呼ばれたとか。
更に治安の問題もあったと考える。
特に幕末には、尊皇派・攘夷派が行き交う東海道より、
中山道の方が安心できたかもしれない。


(※上掲画像、所々撮影禁止の案内が見受けられるが『遠目に写すならOK』と許しを得た)



「姫街道」の輿入れで最も有名なのは、
公武合体の当事者となり、十四代将軍へ嫁いだ「皇女 和宮」だろう。
「徳川家茂」の正室(御台所)。
「仁孝天皇」の第8皇女、孝明天皇の異母妹。
明治天皇の叔母にあたる。

惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消えても

--- と悲痛な決意を詠み京を出たのは、新暦11月下旬。
中津川宿を訪れた「和宮」一行は、桁違い。
付き従うお供、江戸からのお迎え、姫君の警護、荷役ら総計2万人以上。
大行列の長さは77kmにも及び、宿場を過ぎるまで4日を要したとか。





「和宮」一行は、中山道経由でおよそ1ヶ月をかけ江戸城入り。
文久2年(1862年)2月「徳川家茂」と、無事結婚した。
中津川宿は、人や物流が行き交っただけではない。
歴史の通り道だったのである。

<もう1回続く>
                          
コメント (2)
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