つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

玉虫色の国、満洲。

2022年12月11日 12時45分45秒 | 手すさびにて候。
                   
見方・考え方によって評価が分かれるもの。
正体が見極めにくい対象を「玉虫色(たまむしいろ)」と表現することがある。

言葉の由来は昆虫のタマムシ(玉虫)。
金属のような光沢があり、角度によって緑、赤、青などに輝き定まっていない。
これは、体表面に何枚も透明な層が重なった「層構造」による。
多層膜ひとつひとつの光の反射が干渉し合い「玉虫色」が現れるのだ。

観察者によって見える色が違う。
考えてみれば「歴史」にも当て嵌まると思う。
無数の物事や出来事が絡み合い編み上げられる歴史は、
切り取るタイミングや角度によって、対象が放つ色も印象も異なる。
その好例が、かつて地図上に在った「満洲国」かもしれない。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百十五弾「エキゾチック満洲」。



「満洲国」は、現在の中国東北部にあたり、面積およそ130万平方キロメートル。
日本の3倍強の広さを有した。
首都は新京(現:吉林省・長春)。
漢民族・満洲民族・蒙古民族・朝鮮民族・日本民族の「五族」に加え、
白系ロシア人やユダヤ人も居住していた。
公用語は、満洲語、モンゴル語、日本語、ロシア語。
皇帝は“ラストエンペラー”「愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」。
国の興りは、昭和7年(1932年)早春。
終わりが、昭和20年(1945年)晩夏。
わずか13年余りの短命に終わった。



建国に際し日本の軍部が大きく関わったこと。
日本が自国の不況・人口問題解決の意図から画策したこと。
背景に欧米・ロシア(ソ連)の脅威があったこと。
実態は日本主導だったこと。
崩壊後、引き揚げ途上の日本人に数々の悲劇が襲い掛かったこと。
--- これらは、よく知られるところだ。
今投稿では、趣を変え「残した遺産」という角度から満洲国を眺めてみたい。

その為に避けて通れないのは「南満洲鉄道株式会社」の存在。(以降「満鉄」)
明治39年(1906年)、日本政府が設立した半官半民の国策会社で、
日露戦争後、ロシア帝国から譲渡された鉄道路線の運営に留まらず、
鉱山や製鉄、ホテル経営、一般行政、文化振興など幅広い事業活動を行った。
それは国造りの一環となり、遺産に繋がる。
幾つか例を挙げてみよう。

①都市計画
満鉄は、ロシア時代の計画を受け継ぎ、駅周辺~沿線の荒野を開発した。
街の中に複数の円形広場を設け、それらを見通しの良い道路で結んだ。
住宅、商業、工業地区にエリアを分け、公園緑地などを整備した。
上下水道を備えた病院やホテル、学校、役所などを洋風の鉄骨レンガ造で建設。
それらは、今なお現役を務める建物も多く、現各都市の礎となった。
(※近年は中国政府の新たな開発が進み、様相は変化しつつある)

②鉄道遺産
満鉄の象徴は、超特急「あじあ号」。
流線形のフォルムが疾走する様子は“陸の王者”と称された。
展望車、豪華客室、食堂車を備え、車内はすべてエアコン完備。
当時世界有数の豪華さと俊足を誇った「あじあ号」は、ほゞ国産である。
鉄道は機械、金属、土木、経済、統計といった複合的な技術・知識の産物だ。
「満鉄」は、日本国内~アメリカから技術体系を導入し、効率の高い運営と黒字収益を実現。
「満鉄スタイル」は、戦後日本の鉄道ノウハウへと受け継がれ、
新幹線構想に携わる人材も育んだ。

③国際感覚と近代ツーリズム
日本~朝鮮航路、朝鮮~満州鉄路の連結により、国際連絡運輸が可能となったことで、
明治45年/大正元年(1912年)に設立されたのが、
現在の「株式会社JTB」の前身、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)である。
当初のターゲットは、来日外国人観光客。
大正半ば以降、日本人観光客向けとして、
満鉄経由「世界一周周遊券」や「新橋からロンドンゆき」切符が発売。
昭和初期には、中学高校の東亜圏修学旅行も盛んに行われた。

「旅順」「二百三高地」など戦跡を訪ね内陸へ足を延ばす車窓に広がる雄大な地平線。
客車内に飛び交う外国語と、様々な肌や髪色をした乗客たち。
前述の「あじあ号」なら、食堂車で金髪碧眼の美しいロシア少女の給仕を受けた。
駅を一歩出れば、パリやベルリンと見間違える欧風建築の数々。
--- エキゾチックでインターナショナル。
満洲は、国際社会への入り口であり、日本人に新しい感覚を植え付けた。

④産業(重化学工業)
満洲の大地は天然資源の宝庫。
採掘した石炭、石油、鉄、ボーキサイト(アルミニウム)などを元に、
主に重化学工業分野へ資本を投下した。
その手法は、ソ連の「計画経済」の長所・短所を研究し改良した“官僚主導の統制経済”。
やがて、満洲生まれのシステムは、戦後日本の高度経済成長で活かされ、
50年の繁栄をもたらすことになる。
また、現地に残していった施設・工場は、1980年代まで中国経済を支えた。

⑤文化(映画)
満洲国政府と満鉄が半々づつ出資した「株式会社 満洲映画協会」の立ち位置は、
最初からハッキリしていた。
主目的は「映画によるプロパガンダ」。
8年間で娯楽作品を100本以上、記録映画を200本あまり、
30号を上回るニュース映画を制作した。
また、満洲国内で200を超す映画館を経営。
外国映画の配給や映写業務も行い、各地(僻地/奥地)で巡回上映を行っている。
戦後、満洲映画人脈は「東映」に受け継がれ、数々の時代劇、任侠物を支えた。
満映で働き、映画作りを学んだ中国の映画人も少なくない。

--- さて「満洲国の遺産」と言える幾つかを紹介してみたが、
勿論、裏には、多くの憂慮があると思う。
都市開発対象になった場所に地主がいた場合、不当な売買は行われなかったか?
各工事に於いて、カタールW杯でも問題になったような劣悪な労働環境、
人権・人種侵害はなかったのか?
伝聞によれば「どれもあった」。

今から100年ほど前のことだ。
現代の尺度で計れない面も考慮しなければならないが、
どの角度から眺めるかによって違う景色が広がる満洲国は、やはり「玉虫色」をしている。



< 後 記 >

僕は彼の地を訪れたことがない。
今投稿を書くにあたり参考にした資料は様々あるが、
同じgooブログ仲間からも薫陶を受けた。
その方「Zhenさん」は、仕事の関係で中国との縁が深い。
旧満洲国をつぶさに見て、そこで暮らし、記録してきた経験をお持ちだ。
(※詳しくは「Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~」をご覧ください)
今年(2022年)夏、一度だけお目にかかる機会があり、
連絡先を交換していたので、電話取材させてもらった。

伺った要素は、上記本文中、其処かしこに盛り込んでいるが、
最後にもう一つ「Zhenさん」に教えてもらった「満洲国の遺産」を記しておきたい。

⑥(現代の)満洲人気質
概ね今の中国社会では、機転が利く人が評価される。
ある程度やってみて成果が上がらなければ、大胆にやり方を変える。
あるいは、アッサリあきらめて別の道を選ぶ。
それが賢くて、スタンダード。
「この道一筋ウン十年」は歓迎されない。
華南~華東でこうした傾向が強いと言える。

しかし、中国東北人の感覚は逆。
粘り強く最後までやり抜く一本気を尊ぶ。
他とは一線を画する気質が培われた理由は、
寒さ厳しい気候に立ち向かってきた経緯もあるだろうが、
旧満洲国時代の日本人の影響も小さくないと考えられる。

今の東北三省(旧満洲)は、発展から取り残されている。
それは、日本人が親近感を抱く愛すべき気質---
機を見るに敏を良しとしない人間性が要因の1つだろう。
                           
< 追 記 >

今回「まんしゅう」の表記は「満洲」で統一。
16世紀、この地に出来た国「マンジュ/満洲」が、
「マンジュシリ仏」=「文殊菩薩」信仰を元にしたことから命名された。
常用漢字に「洲」はないが、原点を尊重した。
                      
コメント (6)
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