雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

札幌での想い出いろいろ

2020-06-26 05:56:02 | 発想$感想

★『回想法・・・昔を振り返ると脳が活性化して、認知症予防にもなる。』

 とあるブログに書かれていたので、
 20年程前の現役最後のお勤めだった『札幌時代』のことを思いだしてみたい。



 昨日、札幌の大滝幹夫さんから突然の電話を頂いた。
 特に大した用件でもなく、カワサキのバイクに乗る女性の話だったのだが、
 懐かしかったので、20分以上も『昔話に華を咲かせた』のである。

 私の現役時代は、
 昭和32年(1957年)に川崎航空機に入社以来、
 1960年に新しく単車事業が始まってからは単車一筋だったのだが、
 1997年の5月からちょうど2年間、北海道川重建機の社長を務めていた。

 当時は川重でも建機事業をやっていて、そんな関係もあったのだが、
 私は『建機事業』など何の関係もなかったのである。

 今は北海道川崎建機と名称は変わっているようだが、
 この会社は川崎重工とは密接に関係はあるのだが、
 所謂『子会社』ではなくて、『自前資本の優良会社』なのである。


         

 
 
   この会社に川崎重工から社長を出すのは初めてのことだったのだが、
 子会社なら兎も角、自前の優良会社への社長派遣の人選は迷ったらしい。
 
 私が選ばれたのは、若い頃東北の『自前の代理店担当』などしていて、
 子会社ではない代理店の扱いの経験があったこと、
 何でも『新しいこと』なら、
 任しておけば『何とかするだろう』ということだったようである。


 そんなことで、行ってみたら、
 そこには川重の建機事業部からの出向者もいて、
 それが大学の野球部の後輩であったり、
 その時の常務で営業部長だったのが『大滝幹夫』さんで、
 なかなかオモシロかったのである。


 これは1.2年前のようだが、こんな会社で、
 社屋はその頃も同じような造りだった。
 丹野司さんがオーナー株主で、丹野さんのお父さんが設立されたのだが、
 私のいたころも非常勤の取締役でおられた、そんな会社のなのである。


  
 
 
  

★ そんな会社で、2年間何をしてたのか?
 というと、具体的には何もしていないのだが、

  
    
 
 
 
 道内にこんなに沢山の支店があり、当時も200名近い従業員がいたのだが、

 そんな結構大きな組織のいろんな人たちを『ちゃんと纏めた』だけである。
 
 私は、『はじめての方』でも、どなたでも、
 同じようにしかお付き合いできないので、
 『単車時代の販売店』と同じように接しただけなのである。

 結構仲良くお付き合いをさせて頂いたのである。
 そんなこともあってか、20年経った今も年賀状を頂いたり、
 大滝さんのように、突然電話など頂くこともあるのである。


 今更、建機のことなど覚えてもどうしようもないので、製品のこととか、
 営業問題などは一切関与しなかったし、名前すら覚えなかった。

 やったと言えば、『経営管理の数値の纏め方』と
 『従業員の給与の水準を上げた』ぐらいなのである。

 特に、『給与問題』は、この会社の役員の方は殆どが株主で、
 当時の専務の給料なども、川重の私などより良かったのだが、
 社長が専務より低いのではと、ちょっとだけ専務より上にして頂いたのである。

 ただ、このような自前の会社の従業員の給与水準は、そんなに良くなかったので、
 私の独自の判断でそのレベルを上げたので、受けが良かったのかも知れない。
 勿論、取締役会には上程しているが特に反対も出なかったのである。
 
 殆どが株主が集まる取締役会を仕切るのはなかなかムツカシかったが、
 この辺りは『私の得意分野』だと言っていい。
 
 当時丹野さんには気に入って頂いて、
 『何年でもいてください』などと言われたのだが、
 お約束通り2年で一応、『川重の関係会社らしく仕上げて』戻ってきたのである。
 その後2年も『顧問』をさせて頂いたので、4年間お世話になったのである。


 『運転手をつけましょうか』というお申し出もあったのだがお断りして、
 『クラウンの四駆』の新車を買って頂いて、
 自分で運転して支店廻りをしていたので、北海道の道は、殆ど走ったことがある。
 そういう意味では、たった2年間だが北海道は隅々まで解っているのである。


★ 昨日は大滝幹夫さんといろいろお話ししていたが、
 20年も経つと大滝さんも73歳で、今年で会社を退職し顧問をされているとか。
 
 当時の方たちの懐かしいお名前もいっぱい出たのだが、
 やはり皆さんお歳で、いろいろとあるようで、
 私が『元気なのに』ビックリされていたようである。

 大滝さんのお嬢さんがネットをやっておられて、
 『私のこと』をご存知だとか、
 大滝さんにもFacebook をお勧めしたのだが、
 果たしておやりになるだろうか?

 実は、私が北海道川重建機時代は、
 私だけがパソコンも携帯電話も持っていない旧い人間だったので、
 大滝さんはそれを覚えておられて
 『パソコンはいつからですか?』と仰るのである。
 パソコンを始めたのは70歳を過ぎてからだが、
 それでももう20年近くになる。

 
 北海道川重建機の2年目の春3月に、
 私は警察の本庁で怒っていたら、アタマに血が上って
 突如、『くも膜下出血』になったのだが、
 場所が良くて15分後には
 こんな 『中村記念病院と言う脳外科専門病院』 に運ばれたのである。


  

  
  脳外科の先生が30人近くいる『脳外科専門病院』で
  私は手術などせずに、『1ヶ月の入院』だけで退院できたのである。

  担当された先生曰く
  『ムツカシイところが切れたので』 手術もあったが、
  『会議で何もしないことに決めた』 と仰るのである。

  専門医が2,3名の病院なら『間違いなく手術をされた』はずなのである。

  特に脳がおかしかった訳ではなくて、突然怒ってアタマに血が上って、
  『くも膜下』になったので、皆さんもあまり怒ったりはされない方がいい。
  『血が上る』というがホントにそんな感じで、
  胸のあたりまで登ってきたのは覚えているのだが
  その後は、気を失ってしまったのだが、15分後には病院にいたのである。
  
  脳外科の先生が仰るのに、田中角栄さんも小渕さんも、長嶋も、
  病院に来るまで時間が掛かり過ぎていると仰るのである。


 そんなこともあって、札幌の2年間は、
 二輪車時代とは全く違った『いい経験』をさせて頂いたのである。
 大滝さんとの電話の話も、最後はこの『くも膜下』の話になって、
 それにしても『お元気で』ということで終わったのである。

 
 いつも言ってるが『人間運がいい』のが何よりなのである。
 

  
 
 
 
 
 
 

  
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