Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

藤原保信『自由主義の再検討』ノート(02)

2020-10-04 | 日記
 第02回 藤原保信(ふじわら やすのぶ)『自由主義の再検討』(岩波新書・1993年)ノート

 第Ⅰ章 自由主義はどのようにして正当化されたか
 1資本主義の正当化
 資本主義は、現実に存在する政治および経済の制度ですが、それが成立しているのには理由があります。藤原さんは、正当化という言葉を、資本主義が生成し、現に存在するのには理由があるということを説明しています。ただし、そのような理由があるということと、その理由に正当性があることとは、もちろん別の問題です。

 資本主義が成立した当初は、それに正当な理由があったとしても、発展過程において、その正当性が薄れ、当初考えられていたものとは異なるものに転化してしまうこともあります。当初は正当性があったとはいえても、その後の経過の中で正当性が失われれば、資本主義は他の制度に取って代えられなければなりません。

1私有財産は悪であるか
 資本主義は、自由主義の経済的側面を言い表す言葉です。議会制民主主義は、その政治的側面を表しています。では、資本主義は、どのような意味で自由主義の経済的側面なのでしょうか。資本主義は、私有財産制度と市場経済制度から成り立っています。国によっては、私有財産制度や市場経済制度に一定の制限を設けている(その限りで言えば、自由に制限を設けている)ところもありますが、資本主義の土台を形作る基本的な制度としては、私有財産と市場経済をあげることができます。

 私有財産と市場経済は、歴史的にはヨーロッパにおいて成立しました。私有財産や市場経済がなかった時代、それらが認められなかった時代から、大きく社会が変化・発展し、私有財産や市場経済が認められる時代が訪れました。それには必然的な理由があります。私有財産と市場経済を必要としている社会があります。その理由がどのように正当化されていたかを見ておかなければならないと、藤原さんは指摘しています。

 ヨーロッパの歴史、思想史を振り返ってみると、古代、中世を通じて、私有財産と市場経済は、あまり好ましい制度とは受け止められていなかったそうです。このような認識・評価は、プラトンの著作に現れてます。プラトンは、『国家』において、いわゆる哲人王(国家の指導者という意味で理解してください)が自己の利害や私利私欲に気を取られていては、国家を管理・統治することができなくなるので、私利私欲を離れ国の政治に専念するためには、家族や私有財産を否定し、ある種の「共産主義」の体制が望ましいと主張したそうです。君の物と我の物を区別するのをやめれば、君の方が多く持っている、我の方が少ないなどと気にすることはなくなるので、そのほうが落ち着いて政治に専念できるというわけです。そして、社会にある全ての物は、人々の共通の意思で結ばれたポリス(公共体という意味で理解してください)に帰属させ、公的に管理するのが望ましいと考えました。

 これに対して、弟子のアリストテレスはプラトンを批判し、家族や私有財産があると政治家が仕事に専念できないというのはおかしい、家族や私有財産は人間性にかなったものであると言いました。人間という存在は、もともと共同のものよりも、自分自身のものに大きな注意と配慮を払い、それを大切にするものだと、アリストテレスは考えました。

 彼の考えを徹底すると、人々が人間性を発揮し、家族の繁栄と私有財産の増加のために仕事をすればするほど、それらを増加させ、それは際限なく続けられるおそれがあります。つまり、何かの目的のために家族制度や私有財産制度があり、その目的を達成するために人間性を発揮して家族の繁栄と私有財産の増加を追求するというのではなく、その反対に家族の繁栄と私有財産の増加が自己目的化してしまうおそれがあります。だから、アリストテレスは、家族と私有財産は自己目的ではなく、有徳な善き生活を送るための手段でしかなく、富の蓄積に対しては常に倫理的な歯止めが掛けられるし、また掛けられるべきであると考えていました。例えば、アリストテレスによれば、私有財産の取得には、狩猟、牧畜、農耕のように外的世界や環境に働き掛けて自然的なものと、物と物との交換という人為的なものに区別され、後者の物と物との交換には「貨幣」という媒体の必要性を認めながらも、貨幣の増加を自己目的化してはならないと警戒を示していたといいます。

 アリストテレスは、『政治学』という著書のなかで書いています。
 それが生みだす利得は、自然的になされたものではなく、他の人々の犠牲においてなされたものである。高利貸の行為はもっとも憎悪すべきものであり、おおいなる理由(憎悪すべき理由)をもっている。けだしそれは貨幣が機能すべく意図されている過程からではなく、貨幣そのものから利潤を得るからである。
 本来的には貨幣は、市場において、物と物を交換するための媒体でした。例えば、肉を持っている人Aと魚を持っている人Bがいるとします。Aは魚を食べたい、Bは肉を食べたいと考えています。AとBの2人の希望が実現するためには、2人が1つの市場で出会い、そこで肉と魚を効果することが必要ですが、AとBが常に出会えるとは限りません。そこで、AとBの間に肉と魚を流通させる業者Cが介在して、Aの肉をBに、Bの魚をAに届ける仕事をし始めます。このCは野菜とか果物などを持っているわけではないので、Aから肉を手に入れるために一定の交換手段を使います。これが「貨幣」です。貨幣は、本来的には市場において物と物を交換するための媒体であり、そういうものでしかなかったのです。しかし、肉や魚を買うためには「もとで」が必要なので、それをDから借りるしかありません。これが高利貸です。DはCに貨幣を貸し、その返済を受けるときに利息を請求します。高利貸は、肉と魚の交換の過程において貨幣が担う機能から利得を生み出すのではなく、貨幣そのものから利得を得ることができます。アリストテレスは、私有財産の増加に倫理的な歯止めを掛けるべきであると主張するとき、このような高利貸を念頭に置いていたようです。


2キリスト教世界と所有権
 プラトンは私有財産を全面的に否定しました。アリストテレスは、高利貸しなどを念頭に置きながら、私有財産の増加に対して倫理的な制限を設けようとしました。これら古代の哲人たちが、私有財産に対して消極的な立場に立っていたことにはそれなりの理由がありました。

 では、中世の時代はどうだったとでしょうか。藤原さんは、古代だけでなく、中世の時代も私有財産は忌み嫌われれていたといいますが、それは何故なのでしょうか。

 中世は、キリスト教の教えが国家・社会の中心に位置づけられた時代です。藤原さんは、新約聖書マタイ伝には、「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」という一節を引いて、キリスト教の世界においては、私有財産を全て捨てて、神に従うことが求められていたことを紹介しています。らくだが針の穴を通り抜けることは不可能です。それ以上に、金持ちが神の国に入る(キリスト教に入信する)ことは不可能だということです。金持ちがもしもキリスト教に救いの手をさしのべてもらいたければ、私有財産を全て捨て(教会に寄付し)なければならないということだと思います。教父アウグスティヌスにとっては、私有財産は人間の罪の所産であり、その罪を償うための救済手段であったと言います。つまり、人間の欲望は無限であり、その結果として私有財産の増加に歯止めをかけることができず、それは罪深いことであった。その罪は償わなければならない。そのために、手に入れた私有財産を教会に寄贈しなさい。私有財産の寄贈だけが、罪を償う方法、救済策である。その限りにおいてのみ、私有財産は必要とされる。藤原さんは、「所有欲そのものが罪を犯しエデンの薗を追われた人間の結果であり、かつそれゆえに私有財産は、この地上に一定の秩序と平和をもたらすための必要悪であった」と、アウグスティヌスの言葉を紹介しています。

 中世最大の神学者トマス・アクィナスは、アリストテレスを踏襲していると、藤原さんはアクィナスの言葉を紹介しています。①人々は、多くの人々と共同的なことがらとりも、自分自身にのみかかわるものを獲得することに、より多くの関心を示す。②人々は、配慮すべき自分の仕事をもったとき、人間に関わる事柄は、より秩序だった仕方で処理されるが、人々が配慮することを忘れ、あらゆることをなそうとしたとき、完全な混乱に陥る。③各人が自分自身のもので満足しているかぎり、その方が人々をより平和な状態へと導く。このようにアクィナスは、アリストテレスと同じように、私有財産に対して一定の配慮を求めています。そして、私有財産の取得に関して、自然的なものと人為的な交換によるものに区別し、後者の交換による私有財産の増加についても、①自分の生活を満たすためのものと、②利潤獲得のためのものに区別し、②の利潤獲得を自己目的化した交換と私有財産の獲得を批判しています。
 けだしそれは、それ自身獲得欲にのみ奉仕するものであり、つねにそれ以上に拡大していく以外に限界を知らないからである。それゆえ交易は、それ自体として考えられたばあい、つねに一定の卑劣さを含み、それ自体としてはいかなる公正で必要な目的をも含まない(『神学大全』)。

 アウグスティヌスも、アクィナスも、アリストテレスのように、私有財産そのものを肯定的に受け止めながらも、一定の倫理的な歯止めをかけることを求めました。ただし、利潤の獲得だけを目的とした交換、とりわけ高利貸しによる利子の取得に対しては容赦なく批判したことが非常に特徴的です。


3マックス・ウェーバーのテーゼ
 このように私有財産や富の蓄積に対して、倫理的な歯止めが掛けられ、宗教の教えによって消極的に扱われれば、経済活動はどうなるでしょうか。そこにおいては、経済活動を通じて富を蓄積しようという気持ちは起こらないでしょう。物と物とを交換するとか、その媒体として貨幣が必要であるということにも気が付かないでしょう。そうすると、中世の経済的な関係は、倫理や宗教の枠内に押しとどめられ、それ以上に発達しないくなるでしょう。経済活動の自由を主張し、来るべき資本主義社会を準備する人は出現することは難しくなるでしょう。

 逆に言えば、私有財産と富の蓄積に対する倫理的・宗教的な制約が解除され、私有財産を増加させること、富を獲得することが肯定され、正当化されたときに、資本主義への道が倫理面においても、宗教面においても開かれることになります。現実の歴史は、中世から近代へと移行するにつれて、資本主義社会へと移っていきましたが、そこには私有財産に対する倫理的・宗教的な歯止めの「解除」ともいえる出来事がありました。マックス・ウェーバーという社会学者は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という著書のなかで、ヨーロッパにおける宗教改革にともに生み出されたプロテスタンティズムの倫理が資本主義や私有財産に対して肯定的な作用したことを解き明かしています。

 ウェーバーによると、前近代の封建主義的な経済関係を否定して、近代の資本主義を準備したのは、ルネサンス的な快楽主義ではなく、営利や快楽を否定しながら、しかも救済という宗教的目的にしたがって利益を正当化し、むしろ営利を要求したプロテスタントィズムであったといいます。

 14世紀から16世紀にかけて、イタリアにおいてギリシア、ローマ時代の文芸を復興させる運動が興りました。当時の中世の時代にはなかった価値観がこの文芸復興運動によって生まれました。これがルネサンスです。神の世界を中心に置く神中心主義ではなく、人間社会を重視する世俗主義への転換、キリスト教の教えに基づいて宇宙・世界を捉える形而上学ではなく、実証可能なものや経験可能なものを重視して、物事の成り立ちを説明する合理主義、神が創造した宇宙や国家を中心に置くのではなく、個人を中心に置く考え方が、ルネサンスの特徴でした。これらが中世から近代へと歴史を進める精神的・哲学的なきっかけになったことは言うまでもありません。

 しかし、封建主義の経済関係から資本主義の経済関係へと発展したきっかけは、このルネサンスではなかたっと、ウェーバーは考えていると藤原さんはいいます。では、何が資本主義を準備したのかというと、営利、富の蓄積、快楽、私有財産を否定しながら、しかも「救済」という宗教的目的に従って利益を正当化した宗教、すなわちプロテスタンティズムが、資本主義を精神的に準備したのだといいます。その典型は、カルヴィニズムであり、その二重予定説でした。キリスト教では、神の教え、神の導きによって、全ての信者が救済されると教えられ、信じられてきましたが、信者のなかには、救済される人と救済されない人がいて、それは神によって既に選ばれて決まっているので、いくら信心深く教えを信じても、救済されない人が救済されることはありません。これが二重予定説という考えです。そうすると、救済さえると確信してキリストの教えを信じてきた人はどうなるでしょうか。自分は救済されるグループに選ばれているのかどうか知りたがるでしょう。しかし、それは信仰によって事前に知ることはできないというのです。そうすると、信者の多くは「かつて見たことにない内面的な孤立化」の感情にさいなまれるのではないでしょうか。絶望するしかないのではないでしょうか。しかし、そのような孤立と絶望の状況に陥ったときから始まるのが宗教でもあります。その孤立と絶望から脱出し、最後には救済されると確信にいたる道が残されています。それは何か。それは、職業であり、職業労働です。つまり、職業は神の召命(しょうめい)です。神に呼ばれて、貴方はこれを行いなさいと命ぜられたもの、それが職業であり、職業労働です。これに専念し、勤勉に働き、快楽を慎み、禁欲的な生活を送り、その結果として富が蓄積されるならば、それは神の召命に忠実に従った結果、証しであり、それが救済への確証を得る根拠として受け止められたといいます。ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理的・禁欲的な生活が資本主義を精神的に準備したと仮説を説いています。

 交換過程において、貨幣を媒介にして多くの富を蓄積する経済は、ヨーロッパの資本主義以外にも、それ以前にもありました。古代にもありましたし、非ヨーロッパの諸国にもありました。資本主義、冒険資本主義、商人資本主義と呼ばれる金儲けの方法などがそれです。しかし、プロテスタンティズムの倫理が準備した資本主義は、そのようなものではありません。プロテスタンティズムの倫理に基づいて準備された資本主義の精神は、企業家と自由な賃金労働者とが平等な関係において、合理的な組織化と資本経営に基づくものです。そのような資本主義は、金を儲けるためだけの資本主義でもなければ、人々を勝ち組と負け組に分ける資本主義でもないのかもしれません。救済という目的に導かれた資本主義は、私有財産の増加や富の蓄積を倫理的に制限するので、強欲さはないのかもしれません。しかし、救済という目的が宗教的意味から世俗的な意味に変化するならば、快楽的で強欲で野蛮な資本主義に、全てをなし得る自由な資本主義に変化する危険性があります。自由主義は、そのような資本主義を抑制するどころか、正当化してしまうおそれがあります。


4ジョン・ロックと私的所有権の正当化
 プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を準備したというマックス・ウェーバーのテーゼは、資本主義の生成と成立の因果関係を説明する1つ仮説です。これとは別の説明もあります。私的所有権、私有財産、富の蓄積を正当化するための理論は、様々に試みられました。イギリスの思想家ジョン・ロック(1632-1704年)がそうです。その考えは、どのようなものでしょうか。

 イギリスにおける市民革命の時期に、ロックに先立ってトーマス・ホッブスが、自然法思想を説いていました。人間は自由で平等である。人間は自然状態に生きている。自分の生命を保全するためには、ありとあらゆることを行う自由と権利がある。そのため、人間が生きている自然状態は、「万人に対する万人の戦争」の状態でした。今、自分が自然に働き掛け、動植物や木の実をとってきても、他人がそれを持ち去るかもしれない。また、他人が手にしている物を、今度は自分が生命保全のために持ち去ることも否定できない。万人に対する万人の戦争とは、自分の物と他人の物を区別する基準のない状態、生命を保全する権利を行使することは、自分の生命が奪われることを意味する状態でした。このような恐怖から逃れるためには、社会契約を通じて国家(リヴァイアサン)を創設し、その代表者(国王や議会)による決定を通じて、自然状態における無制限の権利行使を制限する必要があります。その決定が自然法でした。

 ロックの場合は、ホッブスと同様、自然状態というものを認めますが、その自然状態において、人々には労働を通じて、労働を基礎にして、所有権(これは私の物であって、貴方の物ではない)が成立していました。私有財産と富の蓄積をプロテスタンティズムの倫理によってではなく、人間の労働によって正当化し、それによって私有財産の増大と富の蓄積の拡大を促進する経済、すなわち資本主義経済を正当化しました。ロックは次のように言います。
 大地と全ての下等動物とは、すべての共有物であるけれども、各人は自分自身の身体に対する所有権を持っている。本人を除いては、何人にもかかる権利は属さない。彼の身体の労働と彼の手の動きはとは、まさに彼のものということができる。そこでどのようなものであれ、彼がそれを、自然が準備し放置したままの状態から取り出せば、彼はそれに自分の労働を混ぜ合わせ、それに自分自身のものたる何ものかを付け加えたことになり、そのことよってそれを彼の所有物とするのである。それは自然が置いた共有の状態から彼によって取り出されたのであり、かかる労働によってそれに何ものかがつけ加えられ、それが他人の共有権を排除していくのである。というのは、かかる労働は労働する物の疑いもなき所有物であるから、彼以外の何人も一度加えられたものにたいしては権利を持つことはできないからである(『市民政府論』)。

 自然状態においては、大地と動植物は、人々に共有されている共有物ですが、そのような自然の状態に置かれた共有物を1人の人が身体と手足を使って取り出し、それに自分の労働を加えたときから、それは共有物ではなく、個人の所有物になります。所有権、私有財産の基礎には、労働があります。この労働によって、私有財産、所有権、富の蓄積が正当化されるというのがロックの理論の特徴です。それによって、イギリスにおける資本主義経済は正当性を与えられて、急速に発展していきます。

 藤原さんは、次のようにロックの理論を要約します。各人は、自分自身の身体とその諸能力の所有者です。彼が自然から取り出したものに、身体と能力を駆使して働き掛けて労働した結果、その自然から取り出したものは、人間のために有用な事物になりました。その事物の有用性、その事物の価値の99パーセントは、労働の所産です。このようにして自然に物に労働を加えて作り出された産物は、その人に所有権が認められ、その人に帰属します。それによって所有権、私有財産、富の蓄積が正当化されます。人より多く持つことが許されることを知った人々は、山や川に行って、自然が準備し放置したままの状態から様々な物を取り出して、労働を介して、それを自分のものにします。それによって、終わることのない富の蓄積の競争が開始されます。