Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法による過去の克服に関する3つの論考(4)

2018-10-30 | 旅行
 刑法による過去の克服に関する3つの論考(4)

 解説
(1)本論文の著者について
 邦語訳した論考の原題と初出は、以下のとおりである。
・ヨアヒム・ペレルス「過去の克服という神話――ヒトラーの犯罪を法的に克服する作業は頓挫した、それどころかナチの法の論理に屈服しさえした」(Joachim Perels, Der Mythos von der Vergangenheitsbewaltigung - Die rechtliche Aufarbeitung von Hitlers Verbrechen ist uberwiegend gescheitert oder folgte sogar der Logik des NS-Rechts, in: Fritz Bauer Institut Newsletter Nr. 28 2006, S.17-19.)。
・ミヒャエル・グレーヴェ「ナチの幇助犯の恩赦――刑法50条2項の新規定とそれがナチへの刑事訴追に及ぼした影響」(Michael Greve, Amnestie von NS-gehilfen - Die Novellierung des §50 Abs. 2 StGB und dessen Auswirkungen auf die NS-Strafverfolgung, in: Einsicht 04 Bulletin des Fritz Bauer Instituts Herbst 2010, S. 54-57.)。
・トム・セゲフ「『事件は幕を閉じた。しかし、まだ終わっていない』――エルサレムのジョン・デムヤニュク裁判」(Tom Segev, »Der Fall ist abgeschlossen, aber unvollendet«, in: Einsicht 02 Bulletin des Fritz Bauer Instituts Herbst 2009, S. 16-23.)。
 第1論文の著者ヨアヒム・ペレルスは、1942年3月31日にベルリンに生まれ、フランクフルト・アム・マインとチュービンゲンで法律学、哲学、社会学、政治学を学んだ。1973年にフランクフルト大学法学部に経済法に関する論文で法学博士の学位を取得し、1978年にハノーファー工科大学で政治学の教授資格を取得し、1983年以降、ハノーファー大学哲学部の政治学担当教授として勤務し、退職後も同大学政治学研究所において研究活動に従事している。主たる研究テーマは、民主主義的憲法論、国家社会主義の支配構造論、ナチの過去の克服問題であり、戦後のドイツ連邦共和故国においてナチの法・政治イデオロギーの影響が様々な領域においてが残っていることを告発してきた。 季刊「批判的司 法」の設立・編集に携わり、フリッツ・バウアー研究所顧問を務めている。政治的には社会民主党系であり、学生時代には社会主義ドイツ学生同盟の幹部を務めた経歴を持つ。
 第2論文の著者ミヒャエル・グレーヴェは、1966年にニーダーザクセン州南部のヒルデスハイムに生れ、ハノーファー大学で歴史学と政治学を学び、2001年、ペレルスの指導のもとにおいて60年代におけるナチ犯罪の克服に関する論文で政治学博士号を取得した(Michael Greve, Der justitielle und rechtspolitische Umgang mit den NS-Gewaltverbrechen in den sechziger Jahren, Frankfurt am Main, 2001)。その後もナチ犯罪の訴追状況に関する研究を継続し、その成果をウェブサイト(www.ns-verbrechen.de)において公表している。
 そして、第3論文の著者トム・セゲヴは、1945年3月1日、イスラエル生に生まれる。
 セゲヴ家は、1933年にドイツから離れ、1935年にパレスティナに移り住む。トム・セゲヴの父のハインツ・シュヴェーリン(1910-1948年)は、ユダヤ系の建築家であった。母親のリカルダ・シュヴェーリン(旧姓メルツァー。1912-1999年)は、プロテスタントの企業家に生まれた写真家であった。二人とも共産主義者・無神論者であった。デッサウ建築学単科大学在学中に知り合い、1932年に「共産主義策動」を理由に放校処分を受けた。
 ハインツは、後のイスラエル国防軍の基礎となる「ハガナー」の兵士として第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)に参加し、1948年に死去した。姉のユタ・シュヴェーリンは1941年に生まれの建築家であり、社会民主党に所属し、女性運動や核軍縮運動、環境保護運動に取り組み、後に緑の党に移籍し、後にドイツ連邦議会議員(1987-1990年)となった。
 トム・セゲフは、イスラエルのヘブライ大学で政治学を修め、ボストン大学留学後、強制収容所司令官に関する論文で学位を取得する。1970年代に、イスラエルの日刊紙「マアリヴ」のドイツ・ボン特派員になり、数多くの新聞・雑誌に記事を投稿し、現在はイスラエルに住み、シオニズムとイスラエル国家の歴史を新たな視点から評価し 直す「新歴史家」集団に所属し、著述家として活躍している。

(2)ナチ犯罪の刑事訴追の前提問題
 1945年5月8日、ナチ・ドイツが連合国に降伏することによって、ヨーロッパにおける大戦が終わった。ナチ政権において行われた犯罪には様々なものがあったが、そのうちの一定部分はナチの政策遂行の一環として行われたたがゆえに、訴追の対象とはされず、むしろ「適法化」された。戦争が終わり、ナチの支配体制が崩壊したことによって、それらの行為にドイツ刑法を適用して処罰できるようになった。それと同時に刑法の公訴時効規定も適用されることになった。
 ナチの政策遂行過程において行われた犯罪行為のうち、謀殺罪の公訴時効は20年であり、故殺罪および故殺 の幇助罪 、傷害致死罪、監禁致死罪などの公訴時効は15年であった(刑法〔旧〕67条1項)。ナチが降伏した1945年5月8日を起算点として計算すると、故殺罪などは1960年5月8日にその完成を迎える。そのため、1960年3月23日に連邦議会で公訴時効の延長の可否をめぐる議論が行われた(第1次公訴時効論争)。社会民主党は、連合国による占領下においてドイツ司法が制約を受けたため、ナチ犯罪を訴追することが困難であったことを理由に挙げて、故殺罪、さらには謀殺罪の公訴時効の起算点をドイツ連邦共和国の司法権が独立した1949年9月15日の翌日の9月16日とする刑法改正を提案した。これに対して、キリスト教民主同盟から厳しい批判が出された。公訴時効を延長する刑法改 正を行い、それを被告人に遡及的に適用することは罪刑法定主義を明記した基本法103条2項に反し、またナチの暴力犯罪人という特定の被告人を想定した特定の犯罪の公訴時効だけを延長するのは法の前での平等を定めた基本法3条1項に反する。しかも、占領下においてもドイツの司法による刑事訴追は行われており、公訴時効の停止を裏付けるような司法への制約があったとはいえない。このような批判が出されたため、連邦議会では審議が尽くされないまま1960年5月8日を迎え、故殺罪などの公訴時効は完成した。
 5年後、謀殺罪の公訴時効の完成を迎える直前の1965年3月24日、連邦議会で再び公訴時効の延長をめぐる議論が行われた(第2次公訴時効論争)。この時期は第1次公訴時 効論争の時と異なり、国内外の状況は大きく変化していた。1960年、アドルフ・アイヒマンが潜伏先のアルゼンチンのブエノスアイレスからイスラエルに移送され、エルサレムの裁判所で人道に対する罪等により死刑に処された。それはドイツ人に再びナチの過去の克服に関心を寄せるきっかけになった。スイスの国際アウシュヴィッツ委員会(ヘルマン・ランクバイン代表)やアメリカのユダヤ人被害者連盟(サイモン・ウィーゼンタール代表)などの国際的なユダヤ人権擁護団体は、ドイツの政治家、文化人・知識人に対して公訴時効の延長を求める運動を展開した。ファシズムの経済的・物質的基盤を一掃したことを声高に主張する東ドイツは、西ドイツ司法省に元ナチが残留・復職し、裁判所には数多く のナチ裁判官が職務にあたっていることを告発する「血塗られた裁判官キャンペーン」を展開した。連邦議会では、このような外圧のもとで公訴時効の延長の可否を議論することになった。法治国家として再生した西ドイツは、罪刑法定主義や法の前での平等という基本法の要請の意義を踏まえながらも、同時に正義や公正をも指向しなければならない。社会民主党の側からこのような主張がなされ、連邦議会では謀殺罪の公訴時効の起算点を1945年5月8日から1949年12月31日に変更した。その結果、謀殺罪の公訴時効の完成日は、1969年12月31日へとずらされることになった。さらに、1969年には謀殺罪の公訴時効が10年延長され(第3次公訴時効論争)、1979年には謀殺罪の公 訴時効は廃止され(第4次公訴時効論争)、現在に至っている(戦後ドイツの公訴時効論争に関しては、Vgl. Martin Asholt, Verjährung im Strafrecht, 2016, S.45ff.石田勇治『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』〔白水社、2002年〕180頁以下)。

(3)刑法改正と秩序違反法違反法制定の関連性
 以上のようなナチの犯罪人に対する公訴時効をめぐる議論を踏まえると、国内外の世論を受けて、ナチの過去の克服に対する国民的関心が高まり、ドイツ政府と連邦議会はそれに応えるために公訴時効の延長を判断したと評価できる。それは法的安定性と正義の対立と相克を調和し、高次の次元において統一を実現する試みでもあった。しかし、その試みを形骸化する立法作業が同時並行で進められていた。それがグレーヴェ論文が指摘する刑法改正条項を盛り込んだ秩序違反法施行法の制定である。
 1871年に施行されたドイツ刑法は、帝国 時代、ワイマール時代、ナチ時代において幾度となく改正議論にさらされた。 戦後、本 格的な議論が本格的に再開されたのは、1960年代になってからであった。社会民主党のグスタフ・ハイネマンが連邦司法大臣(1966年12月1日-1969年3月26日)に就任し、その後連邦大統領(1969年7月1日-1974年6月30日)に選出されるまでの間、活発な作業が進められた。その元になったものが、グレーヴェ論文が取り上げている1962年政府草案である。1962年草案は、正犯と共犯を近代刑法の責任主義の原則に基づいて区別し、それには責任に比例した刑を科すものとしていた。犯罪を自らの行為によって実現するのが正犯であり、それ以外の行為によって実現に関与するのが共犯であり、それらは犯罪的結果の実現に寄与する因果的な作用の面においても、またそれ を行 う行為者の心理的・主観的な認識の面においても異なるので、それぞれに応じた法的評価が成立するのは当然である。したがって、1962年草案はそれ自体に問題があるわけではなかった。また、行為者の一身的な要素によって行為の可罰性が基礎づけられる構成的身分犯の共犯のうち、その要素(身分)を持たない者については、その責任に応じて刑を必要的に減軽しながら(33条1項)、その公訴時効の期間については共犯に科される刑ではなく、実現に関与した犯罪を基準にするとした(127条3項)。ナチの謀殺罪に関与した共犯のうち、身分を持たない者であっても、その公訴時効の期間は正犯と同じになるので、グレーヴェが指摘しているように、ナチの過去の克服の要請にも応えることができ、実 務的に受け入れることができるものであったといえる。このように1962年刑法改正草案は、正犯と共犯の区別に関しては近代刑法の責任主義を徹底しながら、ナチの謀殺罪の共犯のうち、謀殺罪の身分のない者の刑を必要的に原型しながら、正犯と同様の刑事訴追を可能にするというものであった。
 このような刑法改正草案が議論されていた1960年代の後半は、同時に「学生の叛乱」の時代でもあった。キリスト教民主同盟と社会民主党の大連立政権の時代(1966年-1969年)には、いわゆる院外野党運動(Außerparlamentarische Oppositionen)と呼ばれる大規模な反体制運動が高揚した。大学改革、女性解放、ヴェトナム反戦、核武装反対など様々な政治的課題を掲げた運動が複合的に高揚した。その担い手は労働者と学生であり、その中でも社会主義ドイツ学生同盟は最前線で闘争を率いた中核的組織であった。それゆえ、右派・保守系の団体からの攻撃と対立は激化した。1967年6月、イランのパーレビ国王の西ベルリンを訪問したことに対して、アメリカ帝国主義と手を結ぶ専制君主に抗議するデモが過熱し、それに参加した学生ベンノ・オーネゾルクが西ベルリンのオペラ座脇の路上で私服警察官に射殺されると、学生の抗議行動は一気に広がった。授業妨害やボイコットが全国の大学に広がり、ヴェトナム反戦闘争やフランスの五 月革命に連帯してさらにエスカレートした。そのような中で、1968年4月11日、社会主義ドイツ学生同盟の幹部の1人で、子どもを肩車してデモの先頭を歩いていたルディ・ドゥチュケが右翼青年に狙撃され、瀕死の重傷を負う事件が発生した。党派間における対立は、もはや妥協が許されないほど緊迫した。ハイネマンは、1968年4月、暴力をエスカレートさせる学生を戒めながら、政府の側にも学生を過剰に追いつめた責任があったと述べて、両者の対立の仲介を試みた。そのために、比較的軽い犯罪などで訴追される学生運動家を法的に救済するために、秩序違反法の制定を急いだ。それに合わせて、「下劣な動機」からではなく、組織の指示を受けて謀殺罪などの構成的身分犯の実行に関与した幇助犯については、その刑を必要的に減 軽できるよう秩序違反法施行法に刑法改正条項を盛り込んだ。1962年刑法改正草案から構成的身分犯の共犯の減軽規定(33条1項)を取り出し、それを秩序違反法施行法案に取り入れて法案化し、それを連邦議会で1968年5月に審議・可決した背景には、このような事情があった(三島憲一『戦後ドイツ――その知的歴史』〔岩波新書、1991年〕135頁以下、前掲・石田208頁以下参照。Vgl. Ronen Steinke, Fritz Bauer oder Auschwitz vor Gericht, 3. Auflage, 2016, S.263ff.〔ローネン・シュラインケ(本田稔訳)『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』(アルファベータブックス、2017年)298頁以下〕)。

(4)過去の克服の死角とペレルスとグレーフェの視角
 刑法改正作業と秩序違反法施行法の立法作業は、それぞれ異なる課題を解決するために別々に進められていたが、1968年の学生叛乱を背景にして、両者は結びつけられた。しかし、それはナチの過去の克服の課題に対して、決して小さくない影響を及ぼした。ペレルスとグレーフェが指摘しているのは、この問題である。もちろんハイネマンは、ナチの幇助犯を「裏口から恩赦」するために、秩序違反法施行法を制定したのではない。その後任のホルスト・エームケ (社会民主党)が、1969年の第3次公訴時効論争において、1968年刑法改正がこのような副作用をもたらすことを司法省が望んでいたわけで はなかっ たと述べ、政府として配慮が足りなかったことを認めた。それは真意であり、決して偽りではなかったであろう。
 しかし、グレーヴェが指摘しているように、刑法改正条項(33条1項)が1964年の時点で秩序違反法施行法案に取り入れられることが計画され、それがナチの幇助犯の公訴時効に影響を及ぼす可能性があることを検察官のアントン・レーゼンが指摘していたのである。しかも、フリッツ・バウアーがアウシュヴィッツ裁判を進めていた時期の話である。ハイネマンやエームケと同じように、バウアーもまたそれに気づかなかったのだろうか。それとも、アウシュヴ ィッツ強制収容所の看守は謀殺罪の正犯であり、幇助犯に関する刑法改正条項の影響は受けないと考えていたのであろうか。それとも、かりに看守たちが謀殺罪の幇助犯であったとしても、彼らはユダヤ人問題の最終的解決を図るという「下劣な動機」から関与したので、刑の減軽はありえず、その公訴時効もまた正犯と同じ20年のままであると即断したのだろうか。それは明らかではない。しかしながら、明らかにされるべきは、秩序違反法施行法案の刑法改正条項の作用を予見していなかったハイネマンなどを利用して、ナチの幇助犯を裏口から恩赦することを間接的に仕掛けたのは誰であったのかという問題である。すなわち、エドゥアルト・ドレーヤーの関与の疑いについてである。さらには、戦前から帝 国司法省の官僚法曹として刑事立法に従事し、戦後は連邦司法省において刑法改正作業を指揮したヨーゼフ・シャフホイトレの関わりである。
 ドイツ政府は、1960年代の国内外の世論を受けて、ナチの過去の克服に対する高まった国民的関心に応えるために、ナチの犯罪人に対する公訴時効を延長するための努力を重ねてきた。法的安定性と正義の相克の妥協であれ、高次の統一であれ、それはナチの過去を克服するドイツ的な法文化として多くの人々によって承認されてきた。しかし、それと同時平行で進められた刑法改正や秩序違反法施行法立法は、水面下においてそれに歯止めをかけ、流れを止める威力を発揮したことは、まだ十分に知られていない。ユダヤ人問題の最終的解決とホロコーストな どを立案・計画し、それを指揮した「机上の実行犯」が「赦免」されたことも、また連邦司法省に潜む元ナチの官僚法曹がその法改正に関わった疑いがあることも明らかにされていない。彼らが、文字通り机上において、刑法改正草案から1つの条項を切り取り、それを秩序違反法施行法案に貼り付ける作業(Arbeit)をすることによって、かつてのアウシュヴィッツの同志を刑事手続から解放(freimachen)したとしたら、その歴史をどのように認識すべきか。その意味において、1968年の刑法(旧)50条2項(現行規定28条1項)の立法過程を詳細に分析する必要がある。

(5)フランクフルトからエルサレムへ、そしてミュンヘンへ
 以上のような経過を経て、フランクフルトのアウシ ュヴィッツ裁判は沈静化した。しかし、いや、それゆえに刑事手続の打切りに対する反発がアメリカとイスラエルで起こった。トム・セゲフの論文は、元ソ連軍兵士で、ドイツ軍捕虜としてアウシュヴィッツ強制収容所に看守として勤務していたジョン(イワン)・デムヤニュクが居住地のアメリカからイスラエル・エルサレムに移送され、その地で地区裁判所に人道に対する罪の嫌疑で起訴され、死刑判決を受けたこと、その後一転して無罪が言い渡されてアメリカに帰還したことを苛立ちを滲ませながら、エルサレムのデムヤニュク裁判の模様を紹介している。アウシュビッツの元看守への「無罪」をいかに受け止めるべきか、非常に悩ましい問題である。しかし、ここではそれ以上の解説は省略 しておきたい。ただ、デムヤニュクは後にミュンヘンに移送され、2011年5月、その地の州裁判所において謀殺罪の幇助犯、しかも謀殺罪の構成的身分を備えた幇助犯として裁きを受けたことに触れるだけでとどめたい。
 イスラエルにおける無罪判決の既判力はミュンヘンの刑事裁判権にどのような効果があるのか。どのような手続を経て、デムヤニュクに謀殺罪の構成的身分があると認定されたのか。そもそも元ソ連軍兵士で、ドイツ軍捕虜のデムヤニュクがなぜアウシュヴィッツの看守の任務についていたのか。敵国の兵士を「謀殺罪の幇助犯」として裁くことによって克服されるナチの過去とは、はたしてどのようなものか。戦前のドイツ領(ポーランド)において行われた行為に対して、イスラエル(1948年月建国)の刑罰法規(1950年制定)を適用することができるのか。刑罰法規の濫用に歯止めをかける法治国家の罪刑法定主義(刑罰法規の遡及禁止原則)との関係はいかに議論された のか。この問題は今後とも検討していきたい。

(6)最後に
 ペレルス教授の論考の原文には、章番号と章題はない。セゲフ氏の論考の原文には、章を示す(*)の印はあるが、章題はない。邦語訳にあたって、その内容を理解し易くするために訳者が便宜的に付したことをお断りしておく。また、グレーヴェの論考には章題はあるが、章番号はない。番号は訳者が付したものである。
 論考の日本語訳にあたっては、セゲフ氏から2018年5月17日の電子メールで、グレーフェ氏からは2018年6月9日の電子メールで邦語訳の許可をいただくことができた。ここに謝意を表したい。ペレルス教授からの許可が書面で得られたことは、ハノーファー大学政治学研究所事務局のルート・ハッハマイスター氏(Frau Ruth Hachmeister)からの2018年7月26日の電子メールと添付文書で確認できた。日本語訳を快諾していただいたペレルス教授に感謝する次第である。教授との連絡の仲介の労をとっていただいたハッハマイスター氏にも感謝したい。またフリッツ・バウアー研究所所長のジビレ・シュタインバッハー教授(Frau Prof. Dr. Sybille Steinbacher)および事務局のハンナ・ヘッカー氏(Frau Hannah Hecker)からもご協力いただいた。お礼申し上げたい。

 なお、本稿の参考として、1962年刑法改正草案の関連条文を示しておく。
 1962年草案14条1項(他人の者のためにする行為)
 ある者が、法人の代表権のある機関として、そのような機関の構成員として、または他の者の法定代理人として行為をしたときは、その構成要件によれば、特別な一身的属性、関係または事情(特別の一身的要素)が可罰性を基礎づける法律は、それらの要素が代理人には存在しないが、本人には存在する場合には、代理人に対してもこれを適用する。

 64条1項(特別の法律上の減軽事由)
 刑罰が、減軽を定め、または認めている規定により減軽されるときは、次の各号を適用する。
 1 無期自由刑に代えて、3年以上の自由刑とする。

 33条1項(特別の一身的要素)
 正犯の可罰性を基礎づける特別の一身 上の属性または状況(第14条1項)が共犯(教唆犯または幇助犯)にないときは、その刑は第64条1項によって減軽する。

 127条3項(公訴時効)
 時効は、総則の規定に従って規定された、または特に重い事態および比較的重くない事態について規定された加重または減軽を考慮することなく、行為がその構成要件を実現したところの法律の法定刑に従って決められる。