Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第1回講義「現代と人権」(2013.09.27.)

2013-09-28 | 日記
 第1回 現代と人権
(1)社会的教養としての「現代と人権」
 今日から15回にわたって、「現代と人権」の講義を行います。この講義の受講生は、理工学部とスポーツ健康学部の学生だと聞いています。私は、人文社会科学系の学問を学び、法学部所属の教員なので、知らないこともあるのですが、理工学部やスポーツ健康学部でも、法学部と同様に、1回生の時に、外国語などの教養科目や基礎的な専門科目を履修してから、2回生の専門科目を履修し、徐々に専門的な学習を進めていくカリキュラムになっていると思います。その専門科目のなかに、「現代」という形容詞のついた科目が開講されているかもしれませんが、「人権」という言葉のついた科目はないと思います。法学部では、1回生の時点で基礎的な専門科目として「現代と人権」のような科目を履修しますが、このテーマは2回生以降の専門科目と直接的な結びつきがあるので、「教養科目」という意味を超える特徴を持っています。従って、法学部生が学んでいる「現代と人権」と理工学部やスポーツ健康学部の学生が学ぶ「現代と人権」は、いくつかの意味において違いが出てくるのではないかと思います。私は、理工学部やスポーツ健康学部の学生も、現代という時代の特徴、また人権の課題などについて、積極的に学んでもらいたいと思っています。しかも、法学部生が専門科目として学ぶというのとは違って、皆さんの場合は、ひろく社会的教養として、また社会に出てから役に立つ知識として、また困ったときに自分の身を守る手段として、学んでもらいたいと思っています。

(2)「人権」という言葉を聞くと、何を思い起こしますか?
 皆さんは、「人権」という言葉を聞くと、何を思い起こしまか。教育を受ける権利、生存権、信教の自由、言論の自由、表現の自由などでしょうか。そのような権利の名称が、いくつか頭のなかに浮かんできた人は、よく学んでいる人だと思います。これらは、現行憲法に定められている権利です。およそ文明国と呼ばれている国であれば、その国民に等しく保障されている権利であり、基本的人権の重要な部分にあたります。このような人権という言葉の付いた科目は、理工学部やスポーツ健康学部の専門科目にはないと思います。たとえ、あったとしてもその数は非常に少ないでしょう。数が少ないということは、専門科目として学ぶ意味、つまり専門性があまりないことを意味しているかもしれません。その意味で、理工学部、スポーツ健康学部に入学して、「さあ今から好きな勉強をしよう」と思っている皆さんが、「現代」というテーマであればまだしも、「人権」という専門性かた離れた分野の話を聞き、それを学ぶというのは、とまどいを感じるのではないかと心配しています。
 皆さんのなかには、「履修科目として指定されているから、とりあえず受講しなければならない」、「この科目を履修しておかないと、単位や卒業の問題にも関わってくるから、やはり受講しておかなければならない」というような動機から、この科目を履修している人もいると思います。その動機は、それはそれとして根拠があります。しかし、ここで私が皆さんに話しておきたいことは、皆さんが様々な科目を履修して、卒業した後、必ずと言っていいほど人権の問題に直面するということです。しかも、それは、多くの人々に共通する社会問題という意味にとどまらず、皆さん一人一人の人権が侵害されたり、危機に直面したり、また家族や友人、恋人の人権が危険に見舞われたりするという意味で、そのように言うことができます。したがって、理工学部の専門科目として、あるいはスポーツ健康学部の専門科目として人権に関する科目が設置されていなくても、学ばなくてもよいということを意味しているわけではありません。人権の問題は、人の権利に関わる問題なので、誰にも関係していますし、その意味で誰もが学ばなければならない分野です。法学部生は、それを他の学部生よりも、すこし専門的に学んでいるだけだと言ってもいいと思います。

(3)テキストの特徴について
 そのようなことを前提にしながら、皆さんには、この講義を受講してもらいたいと思います。そこで、この講義の特徴をお話ししておきます。私は、今から10年前の2003年に、産業社会学部で「現代社会と人権」という教養科目を担当しました。産業社会学部には、福祉や教育に興味のある学生がたくさんいますので、その学習のサポートになればと思い、法学部でも使っている教材を利用して、授業を行いました。自分なりに努力したつもりだったのですが、受講生にはあまり評判が良くなかったみたいです。というのは、私の授業では、「私たちには、○○の人権がある。それが、侵害されている。それは大変だ。何とかしなければ」というような話が中心的に解説されたために、日本社会や政治に関する大きな問題について触れられなかったためです。例えば、日本社会は今どのような状況にあるのか、日本の歴史がどのように変化・発展して、現代に至ったのかというような問題について触れることができなかったわけです。そこで今回は、10年前の教訓を踏まえて、少し方法を変えて、また教材も変えてみました。今回テキストとしては、久野収さんと鶴見俊輔さんが2人で書かれた『現代日本の思想』という岩波新書をテキストとして使用したいと思います。この本を使って、現代や人権の問題を大きく捉え、考えていきたいと考えています。200頁ほどの本なので、電車やバスのなかでも読もうと思えば、どこでも読めるサイズの本です。この本をテキストとして使いますので、これに沿いながら、講義を進めていく予定です。生協で購入するのもいいですし、アマゾンで買ってもかまいません。先日、アマゾンで確認すると、1円の値段が付いていました。この本の値打ちを知らない人がいるんだなあと、すこしがっかりしましたが、私はこの本は非常に良い本だと思います。そのユニークな特徴をお話ししたいと思います。手元に持っている人は、奥付を見てください。本の一番後ろに著者の経歴などが書かれた頁があります。今日は、講義の第1回目なので、テキストとして使用する本の説明をしておきます。
 私が今日持ってきたのは、2008年11月14日の日付がついていたものです。そして、そこには第42刷りと書いてあります。そもそもこの本は、1956年11月17日に第1刷りが出されていましので、この本は、2008年の時点で、52年間にわたって42回も繰り返し印刷され続けているということが分かります。私は岩波新書が1回の印刷で何万部発行されるか知りませんが、岩波新書は日本の書店であれば、どこにも置いてある本なので、1回あたりの発行部数はものすごい数になるだろうと思います。それが42回も繰り返し印刷され、書籍のマーケットに流通しているわけです。2013年の時点では、おそらく46回目、47回目の印刷になっているのではないでしょうか。しかも、内容的にはまったく変更されないまま、60数近くに渡って読まれ続けているのです。長い間読まれている書物は、確かに数多くあります。その意味では、珍しくないのかもしれません。100年前、200年前に書かれた書物が、今日でも大学の教科書として使われていることもあります。そうであれば、50年そこそこの本は、このようなロングセラーに比べると「新刊本」といってもいいのかもしれません。しかし、私は、このように50年間読まれてきた本だからこそ、その後50年、100年と読まれていくのではないかとひそかに期待しています。つまり、この本は次のロングセラーになる本だということです。100年後、200年後のこの本の読者のなかには、1956年に出された初版本をどうしても手に入れたいと思う人も出てくるかもしれません。そのころには、もうどこにも売っていないのかもしれません。たとえ、売っていても、すごい高値がついているかもしれません。

(4)著者の経歴について
 1956年に出版されたこの本の著者は、久野収さんと鶴見俊輔さんです。この2人について、少しお話しておきましょう。奥付を見ますと、久野さんは1910年に生まれ、1999年にお亡くなりになっています。1934年、24才のときに京都大学の哲学科を卒業されています。鶴見俊輔さんは、1922年に生まれ、現在でも健在で、講演や評論などの活動を続けておられます。ハーヴァード大学で哲学を学ばれ、1942年、20才のころに卒業されています。この2人は年齢的には一回り違いますが、哲学を学んだという点で共通しています。
 久野さんは、1930年代の前半に哲学を学んでいます。1930年代の前半という時代は、どのような時代だったのでしょうか。その時代は、日本政府が軍事力を用いて、中国に対して侵略戦争を仕掛けていった時期です。当時の社会は、政府が行う戦争に対して反対の意見を述べれば、警察に逮捕され、裁判にかけられ、刑務所に放り込まれるような時代でした。治安維持法という悪名高い法律が威力を発揮し、政治活動をした人の中には、戦争反対を主張したために、逮捕され、警察署の留置場で警察官にリンチされ、その場で殺された人もいたほどです。このような時代のさなかの1933年、京大では、文部省による大学への介入に反対して、学問の自由を主張する運動が起こりました。京大事件と呼ばれる事件です。その中心人物に滝川幸辰という法学部教授がいたので、滝川事件とも呼ばれます。文部省は、滝川さんが書いた教科書が共産主義の影響を受けている、滝川はこの本で学生を共産主義のイデオロギーで洗脳しようとしていると断定して、滝川さんを停職処分にしました。大学の関係者は、そのような政治的介入は許されないと反発しました。久野さんは、学生としてこの事件に関わったそうです。その意味で、久野さんは、国家や政治は、放っておくと自分の好きなように学問や科学に介入してくる、国家が学問に介入するなら、学問は政治の道具にされてしまう、そうなると学問はもはや学問ではなくなってしまうと感じたようです。久野さんの若いころの体験は、この本の中にも表れています。それを、ぜひ読み取ってほしいと思います。
 鶴見さんは、1922年生まれなので、京大事件のときは小学校の5、6年生でしした。まだ、世の中のことや、政治の仕組みなどは、よく分かっていなかったのではないかと思います。しかし、戦争がはじまり、世間が慌ただしくなり始めたことは、肌で感じていたのではないかと思います。日本の高等学校や大学に入っても、なんとなく息苦しく、落ち着いて勉強するような雰囲気はないことも分かり始めていたのではないかと思います。そこで鶴見さんは、15才のころにアメリカに行き、そこで学問をすることを選択します。そして、ハーヴァード大学に入学します。15才でアメリカに渡るというのは、今でもあまりないことですし、当時では考えられないことではなかったかと思います。しかも、15、16才で大学の入学試験に合格したのですから、鶴見さんは、非常に勉強のできる少年だったことが分かります。1930年には、日本が中国に侵略をしかけていましたし、ヨーロッパでは1939年ドイツがオーストリアに侵略を開始し、第二次世界大戦が起こっていました。その時点では、アメリカは中立の立場をとっていましたので、学問をするためには、日本、中国、ヨーロッパは難しい、だからアメリカに行こうという選択になったのだろうと思います。しかし、1941年12月に日本がアメリカのハワイ、真珠湾に攻撃をしかけたのをきっかけに、中立の立場をとってきたアメリカは日本に対抗し、戦争に参加してきます。アメリカで学んでいる日本人学生や研究者は、敵国・日本の国民なので、身柄を拘束され、捕虜収容所に入れられ、強制的に日本に送り返されたようです。鶴見さんが書いた別の本のなかで、日本に送り返される船の上での生活のことが書かれてあったのを読んだことがあります。鶴見さんは、アメリカの実情をよく知っていたので、日本がアメリカに戦争をしかけても、勝ち目がないことを知っていたのかもしれません。ネズミが猫にかみつき、反撃する、「窮鼠猫をかむ」という言葉がありますが、力のないものが土壇場でものすごい力を発揮することもあるのかもしれませんが、第二次世界大戦、太平洋戦争は、近代戦争で、国力、資源、兵器体系を動員した総力戦です。そんな戦争に、資源もなければ、エネルギーの輸送も止められてしまった日本に勝ち目があるはずはない。鶴見さんは、このように感じていたのではないかと思います。政治家が誤った判断をして、戦争を開始し、その結果として多くの人々に不幸をもたらした。その後の鶴見さんの学問のなかには、久野さんと同じ様に、戦争に反対するという姿勢、平和を作りあげるためにはどのようにすればよいかという問題提起が常にあります。
 このような経歴を持つ2人が書いた本は、「現代」という時代を考えるうえで、様々なヒントを与えてくれます。1956年に時点で、久野さんは46才、鶴見さんは34才です。精力的に活躍する若い哲学者でした。彼らは、1956年の時点で、戦争と平和の問題を考えます。そして、その考えたことをストレートに投げかけます。しかも、その内容を変えずに、繰り返し提起してきます。私は、このような学問の姿勢に非常に共感を覚えます。46才、34才という若い研究者の考えたことは、鋭く本質を突いていることもありますが、若さゆえに大きな勘違いをしている危険性もあります。間違いを犯した場合、その後は内容を訂正して、改定版を出すのが通例です。しかし、彼らはそうはしません。それは、彼らが正しいことを主張していると確信しているからではありません。彼らも、この本での問題の取り上げ方、まとめ方、批判の仕方について、誤りや問題があるかもしれないことは承知しているでしょう。しかし、それでも内容を変更しません。1956年の時点で、自分の頭で考えた結果、この本が出来上がったこと、このような本しか書けなかったこと、それもまた歴史の事実です。そのような事実を事実をして後の人々に伝えるためには、改訂してはならない、ありのままの事実をそのまま残すべきだと考えたのではないかと思います。私たちは、この本をそのような歴史の事実として読んで行くべきだと思います。1956年の時点で、久野さんと鶴見さんは、20世紀の前半の50年の日本の政治、文化を考えました。その本がその後50年間、改訂されることなく、私たちに受け継がれてきました。この本を通じて、20世紀の日本の政治、文化、思想を見渡すことができると思います。

(5)何を学ぶか
 では、この本のカバーの内側に、この本の内容が6行の文章で分かりやすく紹されていますので、それを見ましょう。そこには、次のように書かれています。

 恐慌、侵略戦争、そして敗戦。この苦悩にあえいだ日本の現代史を、何らかの形でゆり動かしたものは何か。その代表として、白樺派、日本共産党、生活綴り方運動、北一輝らの昭和維新の運動、戦後世代の5つをあげ、そこに体現された諸思想――観念論、唯物論、プラグマティズム、超国家主義、実存主義――の性格と役割を明らかにする。

 このように書かれています。白樺派とは、日本文学史においては、大正デモクラシーを背景として成立した文学運動の1つです。自由主義を基調として、人間の生命の偉大さと大切をさを高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作したといわれています。それは、ありのままの自然を観察する自然主義とは、全く立場が違います。ダーウィンの進化論などに影響を受けた自然主義では、人間の生命は、自然とその法則の作用、遺伝と社会環境の因果律の影響下にあると理解されますが、白樺派の立場は、そのような科学主義・自然主義・実証主義とは立場ではありません。この本では、白樺派が「観念論」という哲学理論の代名詞として挙げられています。日本共産党とは、1922年に結成され、今日においても活動を続けている政党です。科学的社会主義の理論に基づいて組織をつくり、その理論にもとついて活動方針を決め、実践している日本政党政治上、歴史のある政党です。その日本共産党が「唯物論」の代名詞とされています。生活綴り方運動とは、耳慣れないかもしれませんが、初等教育における自由主義的な国語教育運動です。1920年代から太平洋戦争が起こるころまで続けられていたようです。それがプラグマティズムの思想の実践として挙げられています。北一輝らの超国家主義とは、1930年代初頭における国家主義者による軍事クーデタの運動です。それが超国家主義として挙げられています。戦後世代とは、太平洋戦争が始まった1941年の時点で、大学生、高校生、中学生だった人たちのことです。この人たちは、国家や政治が目指した日本の将来像やその進路が正しいものであると教えられ、それを信じて戦争に行き、協力した世代です。そして、戦後、あの戦争は間違いだったと言われ、はしごを外された人々です。彼らは、国家に対して不信感を持っています。国家や政治が作りあげたシステムが先にあって、そのあと個人がそれに付いていくのは、もうごめんだ、うんざりだと感じている人々です。そのような心境が「実存主義」として挙げられています。
 私たちは、20世紀の前半の日本の歴史や政治を考えるときに、その現象をまず見ていきますが、その背後にあり、その現象を作り出したり、ゆり動かした思想を見抜かなければなりませんが、それは見えにくいものです。歴史、政治とそれを作りあげている思想を一体的なものとして捉えて、そのつながりを理解しなければなりません。そうせずに、両者を切り離してしまうと、思想と現象との関連性を見失い、場合によっては、否定的な現象を生み出す思想を、知らないうちに信奉しているということも起こりかねません。そのような意味で、この本の問題の立て方はユニークで、面白いと思います。5つの思想は、「まえがき」では、「日本の代表的思想流派」というふうに書かれています。「学ばなければならない共同遺産」とも表現されています。それらのの内容を時代ごとに検討していきたいと思います。それぞれの時代に、その思想とそれに基づいた運動が、どのような問題関心を持っていたのか、何を目指していたのか、その目標を実現するために、どのような組織を作ったのか、その組織は多くの人々の支持と共感を集めたのか、それともあまり支持されなかったのか、それの原因は何だったのか、その原因は解決されて、その後の運動に活かされているのか。このような事柄を一つ一つ考えていきたいと思います。私は、法学部の刑法担当の教員です。国家、政治、思想の問題について興味を持っていますが、専門的に学んだわけではありません。日本の刑法思想史を学ぶなかで、日本の政治や思想について考えてきただけです。したがって、部分的には専門的に解説できるところもありますが、部分的には皆さんと一緒に考えてみたいところもあります。5つの思想の検討を通して、現代に至る日本の歴史と政治を考えたいと思います。1つのテーマを2回ないし3回に分けて、ゆっくりと考えていきたいと思います。量をこなすというのではなく、この本の内容を読んで、質のよい学習をしたいと思います。

(6)授業における約束
 この講義をスタートするに当たって、皆さんと約束をしたいことが5つあります。まず第1には、テキストを指定してありますので、かならず事前に読んできてほしいと思います。難しい内容かもしれませんが、先ほどもお話ししたように、50年以上読まれているベストセラーです。この本が出され、それを読んだ当時の学生は、今では70才を超える人々ですし、皆さんの先輩にも読んでいる人がいると思います。難しくとも、一度はこのような本を読んで、体と頭を鍛えてください。それは、今後の皆さんの学習にとっても良い効果を与えてくれると思います。第2には、事前に読んだことをノートに記録する、紙のノートでもよいですし、パソコンに入力してもよいです。ノートに書くということです。まず、第1章をざっと読んでみて、その内容を簡単に要約するということから始めてください。そして、分からなかったこと、疑問に思ったことを書いてください。授業を聞きながら、自分が見落としていたことなどを、赤ボールペンなどで書いていけば、立派なノートが出来上がります。第3に、授業は休まずに受けてください。この授業の内容は、試験の直前になって、あわてて対策を立てて、勉強しても効果はないと思います。暗記ものの授業ではありません。1回、1回の授業での学習の積み重ねが大切なので、必ず授業に来てください。第4に、授業を受ける以上、私語などをして、他の人の学習の妨げになるようなことはしないでください。授業中に話したり、居眠りしたりして、学習不足になるのは、その人の自己責任ですが、他の人の学習に邪魔になるようなことはしないでください。そして第5に、最近の学生の就職状況の話とも関わりますが、公務員だけでなく、民間企業の就職において、歴史や文化などに関する教養が非常に重視されていると聞きます。最近の学生は、専門的な知識や技能は持っているけれども、教養が足りない、一般常識がないというふうに見られています。皆さんは、いつ教養を身につけるのでしょうか。いつ一般常識を身ににけるのでしょうか。教養書や一般常識について書かれた本を読んで身につけるのでしょうか。そんなことする必要はないでしょう。この授業を15回連続して、しっかりと勉強すれば、一定の教養を身につけることができると思います。完璧でなくても、質の良い知識を身につけることができると思います。
 以上の5つの事柄を約束事として守ってください。よろしくお願いします。

 次回は、第1章「日本の観念論--白樺派」です。頁数では、2頁から15頁です。事前に予習してください。