Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法による過去の清算と法の復権(2・完)

2023-03-23 | 旅行
 四 戦前と戦後の「間」――歴史の時計はリセットされなかった
 エドゥアルト・ドレーアーは、1907年4月29日、ロッカウ(ドレスデン近郊の小都市)の地元の美術大学教授のリヒャルト・ドレーアーの息子として生まれた。1926年から29年までウィーン、キール、ベルリン、ライプツィヒで法学と国家学を学び、第一次国家試験合格後にドレスデンでの3年間の修習を経て、1932年にライプツィヒのヘルマン・ヤールライス教授のもとで学位を取得し、翌年の1933年に第二次国家試験に合格した。同年5月1日、ナチ党に入党し、1943年にインスブルック特別裁判所首席検事に就任し、政敵を法的に排除する苛烈な政治的訴追を行いながら、自転車の窃盗などの軽微な犯罪に死刑を求刑する死刑執行官としての役割を勤めた。戦後、シュトゥットガルトで弁護士として働いた後、1951年に連邦司法省に入省し、刑法・刑事訴訟法改正部会の部会長に就任すると同時に大刑法改正委員会委員兼刑法小委員会委員を務めた(1969年退官)8)。
 ドレーアーは、1960年に秩序違反法施行法の予備草案をまとめ、それをもとに刑法改正作業部会長のカール・ラクナーが秩序違反法施行法の報告用草案を作成した。秩序違反法とは、重大ではない犯罪を秩序違反行為としてまとめ、それに刑罰ではなく、過料を科す法律であり、1952年3月に制定・施行されたものである。それには刑罰基本法としての刑法の総則の正犯・共犯の二元体系が適用された。ドレーアーは、秩序違反行為には統一的正犯体系を適用し、その行為に関与した複数の者の処断方法については、その関与の度合いに応じた刑を科すべきと考え、施行法の予備草案をまとめた。それは、不真正身分犯に非身分者が関与した場合に成立する犯罪とその処断刑を確定する方法とは異なるが、実質的に同じ結論を導き出すことができるものであった。しかし、刑法には真正身分犯に非身分者が関与した場合の処断方法に関する規定がなく、それに適用されるのは正犯の規定しかなかったため、非身分者は真正身分犯の法定刑で処断されざるをえず、この点について長く議論が続けられてきた。そこで大刑法改正委員会は、1962年政府草案33条1項に「正犯の可罰性を基礎づける特別な一身上の要素が、共犯(教唆犯または幇助犯)にないときは、その刑は第64条1項によって減軽する」という1文を盛り込み、刑法(旧)50条2項の条文を政府草案33条2項に移す改正案をまとめた。
 秩序違反法施行法案と刑法改正政府案は、別個のものであるため、1967年4月13日にまず秩序違反法施行法案が刑法改正特別委員会に提示された。その法案を作成したのは、ドレーアーであった。しかも、その法案の中には刑法(旧)50条の改正条項が含まれていた。その法案は、刑法改正特別委員会で異論なく承認された。そして、1967年10月12日から連邦議会の法務委員会で同法案の審議が開始された。マルティン・ヒルシュ議員から、その法案は刑法改正特別委員会ですでに審議されたのかと質問があった。それに「そうです」と答弁したのは、ドレーアーであった。この秩序違反法施行法案が1968年3月から4月にかけて連邦議会の本会議で審議された。この法案は、あまり注目されることなく同年5月24日に可決され、10月1日に施行された。「正犯の可罰性を基礎づける特別な一身上の要素」がない幇助犯の刑が減軽され、それを基準に公訴時効が算定された結果、彼らの罪の公訴時効は1960年5月8日に完成していたことになった。アウシュヴィッツ裁判後、フリッツ・バウアーは安楽死作戦に関与した専門家を継続して追及しようと作業を進めていたが、それはこの法改正によって挫かれた9)。


 五 「1968年」--激動の時代の陥穽
 1960年代の西ドイツは、学生叛乱の時代であった。ナチスの政治的台頭を阻めなかった親世代に対する反抗、その世代に染みついた権威主義的体質の忌避、そしてそれに潜む「新しいファシズム」の危険の告発は、国内外の様々な運動と結合して拡大し、過激さを増した。1950年代末のウルム親衛隊行動隊裁判において第2次世界大戦中の東部戦線でのナチ犯罪が明らかにされるや否や、ルードヴィヒスブルクに「ナチ犯罪究明のための州司法行政中央本部」が設置され、ナチの過去の捜査が強化された。1961年にはイェルサレムでアイヒマン裁判が、さらに1963年にはフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判が行われた。
 同時にその時期は、世界的にヴェトナム反戦運動が高揚していた。1966年にはベルリン自由大学で「ヴェトナム会議」が開催され、フランクフルト学派の社会哲学者ベルベルト・マルクーゼが講演し、学生運動は徐々に社会変革のための理論によって武装し始めた。1968年1月30日、北ヴェトナム人民軍と南ヴェトナム解放民族戦線による「テト攻勢」は、アメリカが掲げる自由と正義を排撃し、その虚構性を打ち破った。同年4月、公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺は、多民族国家・アメリカにおける人種差別の根深さと平等の欺瞞性を白日のもとにさらした。大学改革を求めて決起したフランスの学生運動は、労働組合の連帯とゼネストの支援を受けて全土に拡大し、引き起こされた戦後最大の内政危機は、ド・ゴール体制の崩壊の契機となった。そのような政治の風は東側諸国においても吹き荒れた。チェコスロヴァキアのドゥプチェクの指導にもとで「人間の顔をした社会主義」の模索は、東独や東欧諸国に民主化の希望と可能性を与えたが、それもつかの間、ソ連は8月にワルシャワ条約機構軍を派兵して制圧した。
 このような激動する世界情勢の中で、ドイツの学生たちは、既成の政党、労働組合から距離を置いて、自らを院外野党運動(Außerparlamentarische Oppositionen)と称して、自由で自発的な行動を行った。大学構内での自主講座の開催、批判大学や対抗大学の開講などから、学内外での抗議行動、さらには学生運動に冷ややかなシュプリンガー社など保守系出版社への抗議行動が展開された。それは放火事件にまで発展した。1967年6月2日、ヴェトナム侵略を続けるアメリカと蜜月関係にあるイランのパーレビ国王夫妻の西ドイツ訪問に際し、西ベルリンで大規模な抗議行動が行われた。そこに参加していた学生ベノ・オーネゾルクが私服警官に射殺されたのを受け、学生の抗議行動は激しさを増した。1968年4月3日、フランクフルトの2軒の百貨店が放火され、実行犯は「ヴェトナムでの殺戮に無関心な社会に抗議するために行った」と自己の行為を正当化した。それに対抗するかのように、4月11日、右翼系学生が抗議デモに参加中の社会主義ドイツ学生同盟の理論的指導者ルディ・ドゥチュケを銃撃した。ドゥチュケは頭部に銃弾を受け、瀕死の重傷を負った。司法大臣グスタフ・ハイネマン(社会民主党)は、純粋なドイツの若者が左右に分かれて対立し、命を落としているのを憂えた。彼らの中には組織の上層部から指令を受けて、それに加担しているだけの者もいるはずである。正義感からの行きすぎた行為の刑を減軽できないかと、刑法を専門とする司法官僚に対して素直な気持ちを述べた。しかし、それをよそに学生たちの行動は苛烈さを増した。1968年5月、非常事態法に反対する闘争が全面的に展開された。社会主義ドイツ学生同盟は、非常事態法(Notstandsgesetz)とは「NS法」であり、それは「民主主義の非常事態」であり、権威主義的国家体制の兆候であると訴えた。反対運動は、学生のみならず、労働組合、宗教団体、政党へと拡大し、ドイツ全土でストライキが決行された。非常事態法案は、ドイツ国民が注目するなかで5月30日に可決され、6月1日に施行された。1968年5月には、非常事態法案以外にも様々な重要法案が連邦議会で審議されていたが、それらはあまり注目されることなく可決された10)。
 ドイツ社会の深部にある不法な過去を暴き、それをえぐり出し、親世代の責任を批判し追及した学生たちの若い情熱と純粋な正義感は、ドレーアーにはどのように映ったのだろうか。激動する時代の若者の情熱と正義には歯止めがかからないものである。それは、あの歓喜と狂気の時代を生きた人々の場合も同じであった。フリードリヒ・エンゲルも、ハンス・マイヤーも、彼らは職務に忠実で、秩序を重んじる勤勉なドイツ人であった。フランツ・シュレーゲルベルガーも、ローラント・フライスラーもそうである。彼らは自己に課せられた職務を遂行するにあたって、下心や、下劣な動機など微塵もなかったはずである。残虐な方法など一切とらなかったに違いない。精緻な刑法注釈書を書き上げる粘り強い根気と精神力、明晰な頭脳と膨大な知識を持った司法官僚がそのように考えていたかは分からない。


 六 永続する過去の清算--どこに向かうのか?
 秩序違反法施行法と非常事態法が連邦議会で可決された後、フリッツ・バウアーが7月1日の朝、自宅の浴槽のなかで死んでいるところを裁判所の職員に発見された。享年65歳。ナチスによる迫害と亡命生活、司法省と裁判所に残留する元ナチとの軋轢、検事長としての肉体的疲労と精神的疲弊、それを抑えるための鎮痛剤と睡眠導入剤の常用などが重なったことが原因であると見られた。また、1969年3月30日の日曜日の早朝、フランス人女性のフランシーヌ・ルコントが、ヴェトナム和平交渉の拡大パリ会談の会議場近くで焼身自殺をはかった。国連がヴェトナム戦争とナイジェリア戦争の停戦和平のために乗り出すよう求める書簡をウ・タント国連事務総長に送ったが、変化が見られなかったことに絶望し自殺したようである。心身に変調をきたしていたことも要因であると報じられた。享年30歳。さらに、同年8月6日、フランクフルト学派のテオドール・アドルノがスイスでの休暇中に急死した。僚友のマックス・ホルクハイマーは、講義中のアドルノに対して女子学生が上半身裸体で乳房を突き出して抗議したことが死の原因ではないと異例の談話を発表した。そのホルクハイマーも1973年にこの世を去った。右翼系学生の銃弾を頭部に受けて重傷を負ったルディ・ドゥチュケは、その後遺症に悩まされながら1979年のクリスマスの日に亡くなった。享年39歳。彼は、ナチスの台頭を阻めなかった親世代を非難し、彼らが引きずる権威主義的体質を厳しく批判した。そして、それが日常の生活様式や文化の至る所に潜み、同時代人の人格の構成要素になっていることを自覚していた。学生運動や社会運動内部における男性優位の無自覚な運営が批判されるべきことも知っていた。この権威主義的パーソナリティーこそが新しいファシズムの精神的培養土であると告発したアドルノの思想を受け継ぎ、徹底した自己批判と自己検証を模索する中での死であった11)。
 しかし、過去の克服と不法の清算は、なおも粘り強く続けられた。ナチ犯罪の実行犯が謀殺罪の幇助犯として扱われようとも、それに謀殺罪の身分、すなわち「下劣な動機」や「残虐性」などの要件が備わっているならば、公訴時効にかかることなく訴追できるからである。フリードリヒ・エンゲル事件後、注目される一つの裁判が行われた。ジョン・デミャニュク裁判である。デミャニュクは、1920年にウクライナのジトーミル州ベルドィーチウの農家に生まれた。1941年にソ連赤軍に入隊し、独ソ戦の中、1942年にドイツ軍捕虜としてソビボル、マイダネク、フロッセンビュルクの各強制収容所で看守として勤務した。戦後アメリカに亡命し、ニューヨークに移住し、1958年にアメリカ国籍を取得し、本名の「イヴァン」を「ジョン」に改名した。
 デミャニュクは、1986年にイスラエルに移送され、トレブリンカ強制収容所での残虐行為に関与した疑いで、当地の裁判所で死刑判決を受けたが、後に無罪が確定し、アメリカに移送された。しかし、アメリカではソビボル強制収容所の看守歴があったことが証明されたため、デミャニュクから市民権を剥奪することが決定された。2009年5月11日、ドイツに移送され、11月30日、27,900人に対する謀殺罪の幇助犯としてミュンヘン第二州裁判所に起訴された。裁判所は強制収容所で看守として勤務したデミャニュクを「大量殺戮機械の一部」であったと指弾し、勤務した約3年間に28,060人の謀殺罪を幇助したとして、5年の自由刑を言い渡した。彼は、下劣な動機から残虐な方法でユダヤ人を死に追いやった大量殺戮の一旦を担ったというのである。デミャニュクは控訴したが、保釈中の2012年3月17日、バイエルン州の老人福祉施設で死去した。91歳であった12)。
 デミャニュク裁判もまたアウシュヴィッツ裁判と同様に、ドイツの過去を克服し、その不法を清算する裁判であった。たとえ敵国の捕虜であろうが、強制収容所の看守役を強いることが「虐待」にあたろうが、彼をナチスの謀殺罪の幇助犯として裁くことなしには、ドイツ史の不法な過去を克服することはできない。彼には緊急避難も過剰避難も適用されない。トラは叩かなかったが、ハエは叩く。そういう論理なのだろう。そうであるなら、ベルンハルト・シュリンクが『朗読者』を通じて吐露した過去を背負い続ける重圧をデミャニュク裁判から感じざるを得ない。ドイツ語の文章を読めない女性(ロマ族の可能性を指摘する説もある)がナチの手先、ホロコーストの加害者として、戦後のドイツ人によって裁かれることにシュリンクが重苦しい心情を吐露したのは、彼女が真に裁きを受けるべき者たちの身代りとして、不法を清算する儀式の生贄として捧げられたからであると思われる。デミャニュクはハンナである13)。
 ヨシュカ・フィッシャー外相(当時)のもと、ドイツ外務省が省史における不法な過去の調査研究を開始し、その成果を2010年に『『ドイツ外務省<過去と罪>』としてまとめた。ナチス政権を対外的に代表した国家行政組織の過去が明らかにされた。それに触発されてハイコ・マース法相(当時)のもとで、ナチ党員や親衛隊員の連邦司法省における人的連続性などが調査され、それが2016年に『ローゼンブルクの記録』としてまとめられた。刑法による過去の克服と不法の清算が、被疑者らの生物的寿命に限界づけられて終わろうとしているとき、責任ある省庁がその襟を正して、自身の黒史を後世に伝えることは意義深い14)。しかし、それだけでは十分ではない。なすべきことは、アドルノが提起し、ドゥチュケが実践した権威主義的パーソナリティーの克服である。ハンナとデミャニュクを過去の克服の儀式に捧げることを厭わない司法の権威主義を根絶することが課題である。過去の克服は、未来の模索へと向かうのか。不法の清算は、法の復権をもたらすのか。今後とも注視したい。

6)公訴時効論争については、Vgl. Martin Asholt, Verjähfung im Strafrecht, 2016, S. 45 f.石田勇治『過去の克服--ヒトラー後のドイツ』(2002年)180頁以下、ペーター・ライヒェル(小川保博・芝野由和訳)『ドイツ 過去の克服--ナチ独裁に対する1945年以降の政治的・法的取り組み』(2006年)243頁以下参照。
7)Vgl. Thomas Vormbaum/ Kathrin Rentrop (hrsg.), Reform des Strafgesetzbuchs - Sammlung der Reformentwürfe Band 3: 1959 1996, 2008, S.245 ff.
8)エドゥアルト・ドレーアーの経歴については、Vgl. Ernst Klee, Das Personen-Lexikon zum Dritten Reich - Wer war was vor und nach 1945, 2003, S. 118.; Richter (Sondergericht), Books LLC(R), Wiki Series, Memphis, USA, 2011, S. 4 f.
9)Manfred Görtenmaker, Christoph Safferling, Die Akte Rosenburug - Das Bundesminisiterium der Justiz und die NS-Zeit, 2016, S. 399 ff.刑法(旧)50条の改正過程について詳細に分析するものとして、佐川友佳子「身分犯における正犯と共犯(2)」立命館法学317号(2008年)118頁以下参照。また、注2)のPerels(ペレルス)とGreve(グレーヴェ)の論文を参照。
10)ドイツの「68年世代」については、三島憲一『戦後ドイツ--その知的歴史』(1991年)135頁以下、石田前掲注6)・208頁以下、井関正久『ドイツを変えた68年運動』(2005年)41頁以下参照。Vgl. Julia Angster, Die Bundesrepublik Deutschland 1963-1982, S. 33 ff., 64f.
11)いまいずみあきら(作詞)・郷伍郎(作曲)、新谷のり子・古賀力(歌)「フランシーヌの場合」(1969年6月15日発売)は、フランシーヌ・ルコントに捧げられた追悼曲である。学生運動の経験がある新谷は、1960年の安保闘争で警官隊の弾圧によって圧死した樺美智子の命日に合わせてこのレコードを発売することを希望したという。学生運動や政治運動の闘士が常に男性であるとは限らないことがよく分かる。3月30日は、フランシーヌ、新谷のり子、樺美智子の3人の名前を記憶に刻む日である。また、アドルノはフリッツ・バウアーの葬儀委員長を務めた。バウアーの訃報に接したときの彼の思いは、その「社会学講義」の第14回最終講義(1968年7月2日)で語られている。T・W・アドルノ(河原理・太寿堂真・高安啓介・細見和之訳)『社会学講義』(2001年)202頁以下参照。
12)ジョン・デミャニュクについては、Vgl. Heinrich Werfing, Der Fall Demjanjuk - Der letzte Grosse NS-Prozess, 2011., Tom Segev, >>Der Fall ist abgeschlossen, aber unvollendet<< - Der Prozess gegen John Demjanjuk in Jerusalem, in: Einsicht 02 Bulletin des Fritz Bauer Instituts Herbst 2009, S. 16 ff.本田稔訳「刑法によるナチの過去の克服に関する3つの論考--ヨアヒム・ペレルス、ミヒャエル・グレーヴェ、トム・セゲフ」立命館法学379号(2018年)412頁以下参照。
13)映画「愛を読むひと」(The Reader)について西部邁氏の見解(https://www.youtube.com/watch?v=or82_AMu1jw)参照。西部邁は、様々な留保をつけながらも、『朗読者』の1シーンにおいてハンナ・シュミッツがルーマニアで育ったと述べたことを捉えて、彼女がドイツ人ではないこと、ミヒャエルが贈った下着を手に取り喜んで踊りだしたことからどこにもいるようなドイツ人女性ではないこと、「ルーマニア」という国名から「ロマ族」であることを推察する。そしてヨーロッパにはユダヤ人迫害だけでなく、それ以外にも差別と排除の歴史があったこと、ユダヤ人はヨーロッパのカーストの中に位置付けられ、一応は人間として扱われていたが、ロマはそこからも排除された人間以下の存在を強いられていたこと、シュリンクはそれを意識しながら『朗読者』を書いた可能性があることを指摘する。なお、伊藤白「『朗読者』と『糾弾の文化』--ベルンハルト・シュリンクにおける過去の罪の相対化」ドイツ文学158巻(2018年)60頁以下は、シュリンクがハンナをホロコーストの「被害者」として描き、加害と被害の関係を転倒させ、ナチ犯罪を相対化していることを検証する。
14)Vgl. Eckart Conze, Norbert Frei, Peter Hayes Moshe Zimmermann, Das Amt und Vergangenheit - Deutsche Diplomaten im Dritten Reich und in der Bunedsrepublik, 2010.(エッカルト・コンツェ/ノルベルト・フライ/ペーター・ヘイズ/モシェ・ツィンマーマン〔稲川照芳/足立ラーベ加代/手塚和彰訳〕『ドイツ外務省<過去と罪>』(2018年)。その紹介として、拙稿「ドイツ現代史の深層に迫る問題提起の書 独立歴史委員会による外務省の歴史の記録」図書新聞2018年7月7日); Manfred Görtenmaker, Christoph Safferling, Die Akte Rosenburug - Das Bundesminisiterium der Justiz und die NS-Zeit, 2016.連邦司法省の報告書に関しては、Vgl. Hieko Maas, Fritz Bauer - "Ein Held von gestern für heute", in: Recht und Politik 3/2015, S.145 ff.(ハイコ・マース〔本田稔訳〕「フリッツ・バウアー『昨日の英雄。それは今日のためにいる』」立命館法学373号〔2017年〕487頁以下); Heiko Maas, Die "Akte Rosenburg" - Der Umgang des Bundesjustizministerium mit der NS-Zeit in den 1950er und 60er Jahren und die politischen Konsequenzen für die Gegenwart, in: Recht und Politik 4/ 2016, S. 193 ff.(ハイコ・マース〔本田稔訳〕『ローゼンブルクの記録--連邦司法省は1950年代および60年代にナチ時代とどのように関わったか、それは現代にいかなる政治的結果をもたらしたか』立命館法学374号〔2017年〕386頁以下).また、拙稿「現代司法における戦前・戦後の断絶と連続--フリッツ・バウアーをめぐる近年のドイツの司法事情から学ぶ」法と民主主義524号(2017年)31頁以下参照。
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