Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第12週 刑法Ⅰ(2014.06.30.-07.02.)

2014-06-29 | 日記
 第12週 共同正犯と共犯(2014年06月30日・07月02日)
(1)正犯と共犯
1正犯
 犯罪は、構成要件に該当する違法で有責な行為である。この行為を行なった者は、その犯罪を行なったとして処罰される。それ以外の行為を行なっても、それが構成要件に該当しなかれば処罰されない。このように構成要件に該当する行為を行なった者を「正犯」という。構成要件論を基礎にすえた犯罪体系においては、「正犯」として処罰されるかどうかは、構成要件に該当する行為を行なったか否かによって区別される。
 では、複数の者が犯罪の遂行に関与した場合はどのように扱われるか。例えば、XとYが構成要件に該当する行為(強盗罪=暴行・脅迫+財物の奪取)を分担して行い、その分担行為(暴行または財物の奪取)のいずれもが。構成要件に該当しない場合、どのように扱われるのか。X・Yの行為が行われ、それが協同することで構成要件的結果が発生したにもかかわらず、X・Yが単独で行った行為がそれぞれ構成要件に該当しないために、正犯として処罰できないのか。また、ZがX・Yに構成要件に該当する行為を行うよう唆したり(そそのかしたり)、またそれを手助けした場合、どのように扱われるのか。唆す行為や手助けする行為は、構成要件に該当しないが、正犯として処罰されなくても、何らかの処罰は必要ではないのか。
 犯罪の遂行に複数の行為者が関与することは珍しくない。刑法は、このような共犯現象を想定して、XとYを正犯(強盗罪の共同正犯)として処罰し(60条)、Zを強盗罪の共犯として処罰する規定(61・62条)を設けている。これらの規定によって、処罰の領域が正犯の周辺にまで広げられることから、共同正犯や共犯は「刑罰拡張事由」と呼ばれている。
2共同正犯と共犯
 共犯として処罰されるのは、共同正犯と共犯の2種類である。共同正犯とは、「2人以上共同して犯罪を実行すること」であり、「正犯」として処罰される(60条)。共犯には教唆と幇助の2類型がある。教唆とは、「人を教唆して犯罪を実行させること」であり、それには正犯の刑が科される(61条)。幇助とは、「正犯を幇助すること」、つまり正犯による犯罪の遂行を援助・補助することである。「従犯」と呼ばれ、正犯の刑を減軽したものが科される。「従犯」という名称は「主犯」に対応したものであるが、「主犯」や「主犯格」」の言葉は刑法にはない。
 教唆は、人を教唆して犯罪を実行させることであるが、「教唆して」とは、「人に犯罪遂行の意思を生じさせて」と解されている。つまり、教唆は被教唆者に犯罪の故意を生じさせて、それを行なわせた場合にしか成立しないということである。例えば、XがAを毒殺するために、Yに青酸カリを手渡し、Yは命ぜられた通り、青酸カリをAのコーヒーに入れ、それを飲んだAが死亡したとする。YはXに命ぜられて、A殺害の故意に基づいて殺害しているので、殺人罪が成立する。Xは、Yに殺人の故意を生じさせて実行させたので、殺人罪の教唆が成立する。これに対して、Yは「青酸カリ」の意味を知らず、命ぜられた通り、それをコーヒーに入れただけであった場合には、Yには殺人の故意はなく、殺人罪は成立しない(過失もなければ無罪)。XはYに殺人の故意を生じさせていないので、Xには殺人の教唆は成立せず、無罪である。
 しかし、それでは「処罰のすきま」が生ずる。それを埋めるためには、どのようにすればよいか。教唆の定義から、「犯罪遂行の意思を生じさせて」の部分を取り去り、「人に犯罪を実行させること」と定義すると、被教唆Yに殺人の故意を生じさせていなくても、客観的に見て殺人罪の構成要件に該当する行為を行なわせているので、Xには殺人罪の教唆が成立すると判断することができる。しかし、故意を責任要素と捉える立場からは、「処罰のすきま」は埋めれるが、構成要件的故意を主張する立場からは、別の解決策を考えなければならない。この論点は、共犯は正犯の行為のいかなる要素に従属するかという問題に関わっているので、あらためて検討する。
(2)共同正犯
1一部実行の全部責任の原則
 共同正犯は、2人以上で共同して犯罪を実行した場合に成立する(60条)。
 例えば、XとYが共同してAに暴行を加えた場合、XとYには暴行罪の共同正犯が成立する。Xの行為もYの行為も、単独で暴行罪の構成要件に該当する行為である。従って、刑法60条の規定によらなくても、XとYを暴行罪の(単独の)正犯として処罰することもできる。しかし、Xがコンビニの店員に暴行を加え、Yがその隙にレジから現金を奪った場合は、そのようにもいかない。そのような考え方からは、Xには暴行罪、Yには窃盗罪しか成立しないからである。しかし、XとYが「共同して強盗を実行した」といえるならば、両者には強盗罪の共同正犯が成立する。Xが単独で行なった行為は暴行であり、Yが単独で行なった行為は窃盗であり、どれも強盗罪の構成要件に該当しないにもかかわらず、共同してそれらの行為を行なっている場合には、強盗罪の共同正犯が成立するのである。X・Yが強盗を行なううことを取り決めて、役割を分担し、その分担された行為を行なって、結果を発生させているので、分担された行為が強盗罪の実行行為の一部分でしかなくても、他の関与者の分担行為を含めた全部に責任をとらなければならない(一部実行の全部責任)。
2共同実行の事実と共同実行の意思
 共同正犯が成立するためには、複数の関与者が共同して犯罪を実行していることが必要である。犯罪の共同実行は、客観的要件として「共同実行の事実」と主観的要件として「共同実行の意思」からなる。
*ここで、この「共同実行」が、条文上「共同して実行すること」であることに注意してほしい。「共同実行」という表記からは、「二人以上の者が、犯罪の実行行為の全部または一部を、共同して実行すること」のような印象を受けるが、法文の解釈としては、「二人以上の者が、共同して、犯罪の実行行為の全部または一部を実行すること」と解するのが素直な解釈である。このように解釈すると、二人以上の者が、事前に共同して犯罪の遂行計画を相談し(共同して陰謀し=共同謀議し)、そのうちの一人以上の者がその犯罪の実行行為の全部または一部を単独または共同で実行した場合、共同謀議にしか参加しなかった者にも共同正犯が成立すると解釈できる。この問題は「共謀共同正犯」のところで再度取り上げる。
 共同実行の事実は、構成要件該当行為の共同実行の事実であり、関与者がその一部を分担しただけでも、それらが全体として構成要件に該当するならば、共同実行の事実が認められる。ただし、共同正犯の場合の構成要件該当行為は、単独の正犯の場合と比べて広く解される傾向にあることに注意する必要がある。例えば、単独で窃盗を行なう場合、犯行予定の現場に行き、その様子を窺ったり、人の出入りを確認するようなことをしても、それ自体としては住居侵入や窃盗の構成要件該当行為の一部を行なったと評価することはできない。しかし、共同正犯の場合、一部の関与者が先に犯行現場に行って様子をうかがい、後に到着した他の関与者が侵入後に窃盗を行なっている間に見張りをすると、住居侵入や窃盗の共同実行の事実として扱われる可能性がある。見張りは、窃盗罪の構成要件的行為には入らず、その遂行を容易にするだけなので、その幇助にしたあたらないにもかかわらず、犯行計画の全体における見張りの位置づけや、その行為の持つ意味いかんによっては、住居侵入罪や窃盗罪の共同実行の事実を構成する行為として扱われる可能性がある。このように共同正犯における構成要件該当行為の意味を直接的な行為から周辺にまで広げるならば、共同正犯の成立範囲は広くなってしまう。それをどこまで広げれるかは理論的に重要な問題である。その問題は、あらためて「共謀共同正犯」、「承継的共同正犯」、「共同正犯からの離脱」において検討する。
 共同実行の意思は、構成要件該当行為の共同実行の意思であり、関与者間における意思の連絡と解されている。その意思が「犯罪遂行の意思」(すなわち犯罪の故意)を意味するならば、共同実行の意思は、「特定の犯罪を共同して遂行する意思」となる。それに対して、共同実行の意思には、もちろん「犯罪遂行の意思」が含まれるが、それ以外にも「事実行為の遂行の意思」も含まれると解するならば、共同実行の意思は「たんに行為を共同して遂行する意思」で足りることになる。共同実行の意思が「犯罪の故意」であるならば、共同正犯は「故意犯の共同正犯」だけとなり、関与者には同じ罪名の故意犯が成立することになる。これに対して、共同実行の意思が「事実行為の遂行の意思」であるならば、共同正犯は「行為の共同正犯」でしかなく、関与者のうち、犯罪の故意のあった者には故意犯が成立し、それがなかった者には過失犯が成立し、関与者全員が「共同正犯」として扱われる。例えば、XとYが共同してAに暴行を加えて死亡させた場合、Xには殺人の故意があったが、Yには暴行の故意しかなかった場合、共同実行の意思を犯罪の故意と捉えると、XとYは傷害罪の範囲内で共同正犯が成立するだけであり、死亡結果については、その発生と因果関係に立つ行為に帰属される。致死結果が誰の暴行に起因するのかが疑わしい場合には、因果関係が否定される。これに対して、共同実行の意思を事実行為の遂行の意思と捉えると、行為を共同して行なっている以上、Aの死亡結果はX・Yの共同行為に帰属され、因果関係が成立する。Xには殺人の故意があったので殺人罪が成立し、Yには暴行の故意があったので傷害致死罪が成立し、両罪は共同正犯の関係に立つ。このように共同正犯における共同実行の意思の内容を犯罪の故意として捉えるか、それとも事実行為の遂行の意思として捉えるかによって、共同正犯の成立範囲は異なってくる。その問題は、あらためて「過失犯の共同正犯」、「結果的加重犯の共同正犯」、「片面的共同正犯」において検討する。
(3)共犯
1正犯と共犯
 正犯とは、構成要件該当行為を行う者のことであり、共犯とは、それ以外の行為によって正犯の犯罪遂行に関与する者のことである。正犯の犯罪遂行への関与には様々なものが考えられるが、刑法では教唆と幇助の二種類に限定して、処罰領域が拡大されている。
 正犯とは構成要件該当行為を行う者のことであるが、その意味は単純ではない。例えば、XがYに命じて窃盗を行なわせた場合、Yが窃盗の正犯であり、Xはその教唆犯であるが、Yが責任無能力者であったり、幼児である場合、Yが窃盗の構成要件該当行為を行なったといえるだろうか。というよりも、XがYを道具のように利用して窃盗の構成要件該当行為を行なったと評価すべきではないだろうか。責任能力は責任要素であるので、それが欠如していたからといって、Yの行為の構成要件該当性判断に影響が及ぶわけではない。しかし、「その犯罪を誰が行ったのか」という問いに対して、「それを行なったのはYであり、Xは教唆しただけである」と答えるならば、不可解な印象が持たれるのではないだろうか。責任能力のない者は正犯にはなりえないと考えることができるならば、この印象は解消される。
 また、医師Xが態度の悪い患者Aに下剤を飲ませて、腹痛を生じさせようと考えて、事情を知らない看護師Yに下剤を手渡して飲むよう指示し、Yが指示通りAに飲ませ下痢の症状を発生させた場合、Yには傷害の故意はないので傷害罪にはあたらない。無罪である。XはYに傷害罪の故意を生じさせていないので、(教唆には犯罪の意思を生じさせることが必要であると解すると)傷害罪の教唆にはあたらない。無罪である。しかも、XはAに直接下剤を飲ませていないので、傷害罪の正犯でもない。無罪である。しかし、これでは「処罰のすきま」が生じてしまう。それを埋めるためには、責任能力はあっても故意のない者は正犯にはなりえないと考えなければならない。そして、医師Xは、傷害罪の故意のないYを道具のように利用してAを傷害したと、端的に述べることによって、「処罰のすきま」を埋めることができるであろう。
さらに、XがYを脅迫して窃盗を行なわせた場合、Yには窃盗罪が、Xにはその教唆が成立すると解してよいだろうか。脅迫による自由意思の抑圧の程度にもよるが、Yの自由意思が完全に抑圧されていた場合には窃盗の故意があっても、適法行為の期待可能性がないために、責任が阻却される。このような場合、Xには窃盗の教唆が成立するだけなのだろうか。それとも自由意思を欠いたYを道具のように利用した窃盗が成立し、正犯としての責任が成立するのではないだろうか。
 正犯とは構成要件該当行為を行う者のことであり、共犯とはそれ以外に行為によって正犯の犯罪遂行に関与する者のことであると、一般的に定義することはできても、その定義を個別の事例に形式的・機会的にあてはめると、以上のような場合には妥当な結論が得られない。刑法学は、構成要件論を基礎にした犯罪体系論を採用しているので、「構成要件に該当しない行為でも正犯として扱われる場合もある」と言うことはできないが、「構成要件に該当する行為を行うとはどのような意味なのか」を考え、妥当な結論を導き出すことを試みることは必要であろう。そこで共犯の正犯に対する関係を「構成要件該当行為を行なわせる者とそれを行なう者との関係」というように形式的に捉えるのではなく、直接的な行為者に対する支配性の程度に着目して、当該犯罪が遂行される過程において、誰がその過程を支配・操縦したのか、誰が最も重要な役割を担ったのかと実質的な観点から正犯と共犯を区別することが主張されている。このような考えによれば、責任無能力者、幼児、故意のない看護師、脅迫下にある被害者が直接的に構成要件該当の行為を行なっているので、形式的に見れば彼らが正犯のように見えるが、実質的には背後者が彼らを利用して犯罪を間接的に行なったと認定し、正犯として扱うことができるのではないだろうか。このように解することによって、不都合な結論や処罰のすきまを埋めることができるであろう。このように他人を道具のように利用して犯罪を行なわせた場合、その背後にいる者を間接正犯という。本来的には共犯である者が、正犯に一定の事情がある場合に正犯として扱われる場合が間接正犯である。
2共犯の処罰根拠
・堕落説
 正犯は、構成要件該当の行為を行なった者のことである。構成要件は法益侵害の類型であり、それを直接行なった者が「正に犯した」者であることに異論はない。教唆・幇助は、正犯ではないので、正犯として扱われることはないが、処罰される。しかも、教唆には正犯の刑が科される。共犯が処罰される理由は何か。
 教唆であれ、幇助であれ、正犯を犯罪の世界へと堕落させて、構成要件該当の違法で有責な行為を行なわせている。共犯は、正犯をそそのかし、またそれを手助けして、犯罪結果を発生させている。このように共犯を処罰する理由があると考える立場を「堕落説」という。堕落説の内部では、正犯に「構成要件該当の違法で有責な行為」を行なわせたことが共犯の処罰根拠であると解する「責任共犯論」と、正犯に「構成要件該当の違法な行為」を行なわせていればよく、正犯の有責性までは必要ではないと解する「違法共犯論」がある。いずれも、共犯には正犯の法益侵害結果と因果的な関係はないとする点において共通している(責任共犯論は後に説明する「極端従属形式」の考えと共通性があり、違法共犯論は「制限従属形式」の考えと共通している)。
・惹起説
 これに対して、「犯罪は法益侵害である」ことを前提とすると、正犯であれ、共犯であれ、犯罪として処罰される以上、法益侵害との間に因果的な関係がなければならない。共犯は、正犯のように直接的に法益侵害を惹起したわけではないが、正犯を介して、いわば間接的に法益侵害を惹起したので、処罰されるのである。このように共犯を処罰する理由があると考える立場を「惹起説」という。しかし、正犯によって惹起された法益侵害の性格をめぐって、惹起説の内部では意見の対立がある。
 共犯は正犯を介して法益侵害を間接的に行うことであるが、その法益侵害が正犯にとって違法であることが必要か。この問題をめぐって対立がある。例えば、XがYに対して「Aの殺害」を教唆した(外部円)。YはナイフでAの背部を刺した(中部円)。Aは出血多量で死亡した(内部円)。A死亡という結果と直接的に因果的な関係にあるのは、中部円にあるYの行為であり、それと間接的に因果的な関係にあるのは外部円にあるXの行為である。直接・間接の違いはあっても、A死亡に対して因果的な関係があることに違いない。この場合、たとえYの行為が正当防衛などにあたり、違法性が阻却されようとも、Xにはそれとは無関係に殺人の教唆が成立すると論ずるものがある(純粋惹起説)。しかし、Yにとって違法性が阻却される結果が、なぜXには違法になるのか。この点、この説は不可解であり、正犯とは無関係に共犯の成立を認める考え(後に説明する共犯独立性説)に陥ってしまう。やはり、Xに共犯が成立するためには、A死亡の結果が正犯Yにとっても違法であることが必要であると思われる(混合惹起説)。共犯の処罰根拠としては、共犯もまた正犯と同じように、法益侵害を惹起している点にあると考えられる。
3共犯と正犯の関係
 共犯の処罰根拠は、正犯を堕落させるという点にあるのではなく、正犯の違法な行為を介して、自らも違法な行為を行うという点にあると解される。ここで正犯と共犯の関係をもう少し詳細に見ておく。
・共犯の正犯の実行に対する従属性
 刑法61条は教唆を「人を教唆して犯罪を実行させた」ことと規定し、62条は幇助を「正犯を幇助した」と規定している。いずれも、人を教唆・幇助して犯罪を行なわせたと規定している。このことは、教唆犯も幇助犯も、その成立には犯罪を実行する正犯が存在していることを前提としている。つまり、共犯の成立は、正犯による犯罪の実行に条件づけられている(従属している)のである(共犯従属性説)。この「従属性」は、共犯は正犯が犯罪の実行に従属することを意味する。従って、正犯が犯罪の実行に着手していないにもかかわらず、教唆犯・幇助犯が成立するというようなことは基本的にありえない。ただし、XがYに犯罪を行なうよう教唆したが、Yはその実行に着手する前に止めた場合、Yが犯罪の実行に出ていなくても、Xをその犯罪の教唆として処罰できる場合もある。つまり、教唆の成立が正犯とは別に(独立して)認められる場合もある(共犯独立性説)。この「独立性」は、教唆は正犯の犯罪の実行とは無関係に成立することを意味している。このような立場からは、正犯が実行しなくても、少なくとも教唆の成立は認められる(幇助については、犯罪の遂行のイニシアチブは正犯にあるので、正犯が実行に着手しなかった以上、幇助の成立を認める必要はないと思われる)。例えば、破壊活動防止法などには、内乱罪の独立教唆罪の規定がある。
 刑法の目的は法益保護であり、犯罪の本質は法益侵害である。正犯が実行に着手しておらず、法益侵害の実質的な危険がない場合にまで、共犯の成立を認める必要はない。従って、共犯は、正犯の実行に従属し、それによる法益侵害や危険が生じた場合に成立すると解すべきである。そのような意味から、原則としては共犯従属性説が妥当である。
・共犯の正犯の要素に対する従属性
 共犯は正犯の実行に従属する。では、この実行従属性はどのような意味か。刑法61条は教唆を「人を教唆して犯罪を実行させた」と規定し、62条は幇助を「正犯を幇助した」(犯罪を行なう人を幇助した)と規定し、共犯の成立は正犯の「犯罪」を前提にしている。この「犯罪」はいかなる意味か。
 「犯罪とは構成要件に該当する違法で有責な行為である」という定義をあてはめると、正犯が犯罪の構成要件に該当する違法で有責な行為を行なった場合に、それを教唆・幇助した者に共犯が成立することになる。つまり、共犯は正犯の構成要件該当性、違法性、有責性に従属することになる(極端従属形式)。この考えは、堕落説における責任共犯論と同じ内容である。例えば、Xが責任無能力者Yを利用して窃盗を行なわせた場合、また責任能力のあるYを脅迫して自由意思を抑圧した状態で窃盗を行なわせた場合、Yは窃盗罪の構成要件該当の違法行為を故意に行なっているが、責任無能力であるために、また適法行為の期待可能性がなかっために、責任が阻却される。極端従属形式からは、正犯の有責性が欠如しているため、Xには窃盗の教唆犯は成立しない。この場合、「処罰のすきま」が生ずるが、それは間接正犯論によって埋められる。共犯は正犯の有責性の要件にまで従属するため、共犯の成立範囲が狭められるが、それは間接正犯論によって正犯の領域に取り込まれて処罰される。「極端従属形式」の立場においては、共犯の正犯に対する従属関係は、「犯罪を実行させた」という客観的な関係だけでなく、犯罪の故意を作り出したとか(教唆)、それを強化した(幇助)という主観的な関係が必要である。堕落説の「責任共犯論」も同じである。それは共同正犯論の「犯罪共同説」にも対応していると思われる。ここには、共犯現象は行為の外部的・客観的な領域においてだけでなく、行為者の内面的・主観的な領域における犯罪の共同現象と捉える考えからがあるように思われる。
 これに対して、共犯規定の「犯罪」とは、犯罪の構成要件に該当する違法な行為であり、有責性の要件は含まれないと解するものがある(制限従属形式)。制限従属形式によれば、Yの行為が窃盗罪の構成要件に該当する違法な行為である以上、Xにはその教唆が成立することになる。「処罰のすきま」は生じないので、間接正犯の理論を用いるまでもない。制限従属形式からは、正犯の責任がなくても、共犯が成立するのであるが、それは何故か。Yによって行われる行為は、外界における事象であり、それは構成要件該当性・違法性という法的評価の対象である。故意や期待可能性は内面・主観における事象であるので、両者は区別される。外界における事象は共同・連帯できるが、内面における事象は個別的に認定される。一般に「違法は連帯的に、責任は個別的に」という標語で語られているが、共犯現象とは外界における客観的な事象であって、関与者の内面・主観は共通しうることはあっても、それは共犯現象にとって重要ではない。
 さらに、共犯規定の「犯罪」とは、構成要件に該当する行為であり、違法であることを要しないと解するものがある(最小従属形式)。XがYに教唆してA殺害を行わせたが、YがAを殺害しようとした瞬間にAが先制攻撃をしかけてきたので、とっさに反撃し、それが正当防衛にあたる場合、制限従属形式からは、X の殺人教唆が否定されてしまう。この「処罰のすきま」を埋めるためには、共犯は正犯の構成要件該当性に従属すると解する以外にない。
 また、共犯は正犯の構成要件に該当することさえ必要なく、正犯に違法という一般的な性格が備わっているだけで足りると解するものがある(一般違法従属形式)。例えば、公務員Xが非公務員の妻Yを教唆してZから賄賂を受け取らせた場合、Yは公務員でないので、賄賂を収受しても収賄罪の構成要件にあたらない。XはYを教唆して構成要件に該当しない行為を行わせただけである。上記3種の従属形式からは、教唆犯は成立しない。この「処罰のすきま」を埋めるためには、共犯は正犯の一般違法に従属すると解する他ない。ただし、公務員Xと妻Yの関係を見れば、このような場合、Xが収受したと認定することもできる。そうすると、Xには収賄罪の正犯が成立する。その場合、Yにはその幇助が成立する(Yは「認識ある幇助的道具」である)。
 このように「共犯の要素従属性」をめぐっては議論があるが、通説・判例は「制限従属形式」を採用していると解されている。しかし、その実際の運用は複雑である。
4要素従属性に関する諸問題
 通説・判例は、「共犯の要素従属性」に関しては、制限従属形式を採用している。共犯は、正犯の構成要件該当性・違法性に従属するということである。しかし、故意を構成要件要素と解するために、制限従属形式の理解については複雑な問題が生じているように思われる。
 例えば、医師Xが事情を知らない看護師Yを利用して患者を傷害した場合については、Yには傷害罪の故意がないので、Xに傷害罪の間接正犯が成立するというのは、故意を構成要件要素と解するからであるが、責任無能力者や幼児Yを教唆して窃盗を行なわせた場合、Yには窃盗罪の構成要件該当の事実の認識があり、それは故意の窃盗罪の構成要件に該当する違法な行為であるにもかかわらず、Xには窃盗罪の間接正犯が成立すると解されている。なぜ教唆犯ではないのか。
 思うに、責任無能力者や刑事未成年者が、構成要件該当の事実を認識していても、違法性を基礎づける事実を認識しているとはいえないと解されているからではないだろうか。違法性を根拠づける事実の認識がないため、それが誤想防衛の場合と同じように故意の阻却を根拠づける理由になっているのではないだろうか。このようにYに窃盗罪の故意がないため、窃盗罪の構成要件該当性が否定されるため、それを行なわせたXには窃盗罪の教唆は成立せず、間接正犯論に基づいて、窃盗罪の間接正犯と解するのであろう。
 そのように理解するならば、責任無能力者と刑事未成年者については、そのようにいえよう。しかし、脅迫されたため適法行為の期待可能性のない者を利用して窃盗を行なわせる場合については、どうであろうか。適法行為の期待可能性がないことは、責任阻却事由である。行為者に「故意」があり、故意責任が推定されるにもかかわらず、適法行為の期待可能性がないために「責任」が阻却されるのである。つまり、故意があるということは、違法性を基礎づける事実の認識があるということが前提なのである。従って、期待可能性のない者を責任無能力者や刑事未成年者と同じように扱うことはできない。このように考えるならば、通説・判例の制限従属形式の立場からは、期待可能性のない者Yの場合については、Xに間接正犯を認めることはできない。その限りにおいて、通説・判例の制限従属形式は不徹底であると言わざるを得ない。
 かりに、期待可能性のない者は、端的に言ってXの「道具」でしかないというなら、間接正犯論=道具理論を、故意のない看護師、責任無能力者、刑事未成年者だけでなく、故意はあるが、期待可能性のない者に対しても適用できると解すればよい。故意あるが、期待可能性のないYは、背後にいるXの道具だということである。しかし、Yを道具とみなしたからと言って、Yの行為の正犯性が否定されるわけではない。Yは窃盗の正犯である(責任が阻却され、無罪である)。背後にいるXもまた(間接的にではあるが)窃盗の正犯である。正犯Yの背後にいるXは共犯ではなく、正犯だということになる。この「正犯の背後の正犯」の問題について、どのように考えるのか。
  XがYを教唆して殺人を行なわせたが、Yが行った殺人が正当防衛にあたる場合、制限従属形式からは、Yの行為は違法ではないので、Xには殺人罪の教唆は成立しない。これに対して、最小従属形式からは、Xに殺人罪の教唆が成立する。ここに「処罰のすきま」が生じていると解するならば、制限従属形式から、それを埋めるために、XはYの正当防衛行為を利用した殺人の間接正犯として扱われることになろう。しかし、ここでもYの行為については殺人罪の構成要件該当性が認められるので、殺人罪の正犯である。正犯Yの背後に間接正犯Xがいることになる。
 防衛の意思があるということは、違法性の事実を基礎づける事実を認識していないということなので、故意がないということになる。故意がなければ、故意犯の構成要件に該当しない。それは、正犯ではないので、正当防衛行為を利用した間接正犯は、「正犯の背後の正犯」の問題は生じない。