Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

藤原保信『自由主義の再検討』ノート(15)

2021-01-11 | 日記
 藤原保信(ふじわら やすのぶ)『自由主義の再検討』(岩波新書・1993年)ノート

 藤原さんは、『自由主義の再検討』を通じて、自由主義の正当化根拠とその限界・弊害を明らかにし、自由主義の再検討されるべき側面と課題を論じてきました。本書の終章がそのまとめになります。

 終 章 コミュニタリアニズムに向けて
1これまでの要約
 自由主義の経済的側面は、資本主義です。その政治的側面は、民主主義・議会制民主主義です。そして、その思想的側面は、功利主義です。功利主義は、自由主義の人間観といってよいと思います。この自由主義に対して理論的・実践的に挑戦し、自由主義に取って代わろうとしたのが、社会主義でした。しかし、1990年代にソ連・東ヨーロッパにおいて社会主義体制が崩壊し、その挑戦は失敗に終わりました。現在のところ中国や北朝鮮が社会主義国を標榜していますが、その国において自由主義の弊害とは別の新たな問題が噴出しています。とりわけ中国では、チベット、ウイグルなどへの民族弾圧、宗教弾圧が横行し、香港における言論の自由の抑圧は、世界中から非難を浴びています。民主主義に反する政治、人権抑圧が深刻化している現実があります。このような状況を踏まえ、藤原さんは、自由主義社会が抱える問題を解決するために、自由主義の問題を明らかにし、それを内在的に解決するための道筋を探し求めました。終章では、藤原さんの要約に基づいて、自由主義を修正ないし発展させようとする藤原さんの理論的試みの当否を検討したいと思います。

 ヨーロッパの思想史を振り返ってみたとき、資本主義の前提である私有財産制度や市場経済における商品交換は、必ずしも好意的には見られていませんでした。営利活動は、社会の経済的基礎を形成するものとして認められていましたが、それは倫理的・宗教的な批判の対象であり、政治的に歯止めがかけられていました。その当時は、近代社会以降のように経済社会(市場経済)と政治社会(国家・政府・議会)が分離しておらず、それらが一体化していたからです。つまり、倫理や宗教は政治社会のあり方を指し示す指針であると同時に、それは経済社会をも左右する指針でもあったということです。
 しかし、近代に入ると、そのような倫理・宗教の指針とそれによる歯止めは取り払われました。人間は自由であり、平等であり、独立している存在である。労働は人間の本質的営為である。労働により作られた物は、自分のものである。人間は他者との間でそれを自由に交換することができる。このように交換手段として貨幣がつくられることによって、貨幣に媒介された交換経済が成立し、それが正当化されるようになりました。しかも、アダム・スミスによれば、市場経済には自動調整メカニズムが内在し、それが機能することによって、資源が有効に利用され、労働者の能力・技能が向上する。労働生産物の改良が進むことによって、社会的富が等しく人々に配分される。このように説かれました。それは、ユートピアの資本主義と揶揄されました。今思えば、バラ色の資本主義でした。

 ヨーロッパの思想史を振り返ってみたとき、自由主義の政治的側面である民主主義や議会制民主主義もまた好意的に見られていませんでした。古代ギリシアでは、民主主義の政治は衆愚政治と同一視され、存在する国制のうちでも低い位置した与えられていませんでした。最も高い位置には、徳のある帰属階級による政治支配が位置づけられていました。しかし、近代以降、人間が平等であること、その思想も同価値であることを前提とし、普通選挙制度を通じて、人々の代表を選出して、政治を運営する議会制民主主義が成立します。経済市場において商品交換の自由、私有財産の自由、富の蓄積の自由が認められているのと同じように、議会制民主主義においては思想、言論、出版、集会・結社の自由が認められ、自由な市民には等しく選挙権が保障され、普通選挙制度を通じて議会と政府が形成されました。その議会と政府は、資本主義経済の外側に立ち、市場経済のルールが侵害されるときに介入する外的国家、消極国家、夜警国家でした。1930年代の世界恐慌のアメリカにおいて、様々な経済政策を打ち出し、危機に瀕した資本主義を救済したのは、この議会制民主主義に基づいて成立した議会と政府でした。それは、労働者の救済ではなく、資本家の救済の経済政策でした。その限りで言えば、新自由主義のイデオロギーと同じものであり、「小さな政府」の国家と同じといってもよいでしょう。

 このような市場経済と議会制民主主義を支えている価値観・人間観が、功利主義の思想です。それは、近代の市民社会が実現した人間の欲望の解放をストレートに正当化しています。ヨーロッパの思想史を振り返ってみたとき、たとえばプラトンによれば、人間の「魂」(人間の本質的部分であり、人間観といえます)には、理性的部分、気概的部分、欲求的部分があるが、理性的部分が人間の徳の高さを表しており、欲求・欲望は人間の徳の低さを示していると考えられていました。そこには、貴族と平民を分け隔てる身分制の階層構造があり、貴族による政治支配が最も望ましいと考えられたからですが、それでも欲望の追求の自由を認めてしまうと、それに歯止めがかからなくなってしまうので、それを倫理・道徳・美徳・善によって抑制する必要があると考えられていました。その抑制機能を果たすのはが、人間の理性的部分であったと思います。しかし、近代以降、人間が様々な社会的・政治的・宗教的な束縛から解放され、身分制の足かせも取り払われて、欲望が全面的に解放されました。解放されるやいなや、人間を抑え込んできた倫理・道徳・美徳・善も取り払われ、もっぱら快楽と幸福の追求、不快と苦痛・不幸の回避が人間の行動の原理になり、最大多数の最大幸福が政治と立法の原理にしました。自由主義は、経済を自由化して資本主義を正当化し、政治を自由化して議会制民主主義を正当化し、人間を倫理・道徳から自由にして功利主義の人間観を正当化しました。

 このように前近代的な封建制・身分制から人間が解放され、自由で平等な個人によって成立したのが市民社会です。この市民社会は、功利主義的な市民の社会であり、政治的な介入を極力少なくしようとします。また、思想の自由、価値観の多様性の名の下に、特定の倫理的・道徳的な価値、とりわけ私有財産を否定し、富の蓄積を消極的に捉える倫理観・道徳観が市民社会のなかに浸透するのを斥けようとします。このように市民社会は、政治国家から解放された自由な市場経済社会です。そこにおいて実現されたのは、結果的には、スミスの自動調整メカニズムが機能した市民社会ではなく、人間疎外が深刻化した市民社会、搾取と収奪によって人々が苦しめられる市民社会でした。マルクスは、このような市民社会を変革し、共産主義社会を実現しようとしたのです。マルクスは、市民社会の経済原理こそが搾取と収奪の原理であり、自由な市場経済こそが人々の不自由を生み出していることを告発し、資本主義が社会主義へと発展していくことを科学的に予見しました。しかし、その実践も(少なくとも、ソ連、東ヨーロッパにおいては)失敗に終わりました。藤原さんは、若い頃、資本主義は社会主義にとってかえられると学び、そのよう著名な学者の考えが実現するだろうと考えていたようです。それは現実のものとはなりませんでした。

 ソ連や東ヨーロッパにおける社会主義、中国や北朝鮮における社会主義に比べると、自由主義・資本主義は、マルクスやその後の社会主義思想家の予見とは異なり、繁栄しているようにも見えます。しかし、そのことをもって資本主義が勝利したとか、自由主義が勝利したなどと言ってはいられません。南北問題、環境問題、食糧問題などのグローバルな問題は、自由主義・資本主義とは無関係に起こっているのではなく、その究極的な原因は、国内外において弱肉強食の市場経済を正当化している自由主義にあることは明らかです。そのような自由主義を再検討することが、現在の課題です。藤原さんが問題を指摘してから、30年ほどが経過しましたが、問題の深刻さは増すばかりです。このような閉塞的な状況から脱するために、藤原さんが期待をかけたのが、コミュニタリズムの政治哲学であったことはすでに紹介しました。

2関係の網の目と共通善
 藤原さんは、コミュニタリズム(共同体主義)の思想家の主張を支持しています。1980年代以降、アメリカにおいて活躍している政治哲学者のサンデル、マッキンタイヤー、テイラー、ウォルツァーらは、自由主義それ自体を否定するわけではありません。その限りでいえば、コミュニズム(共産主義)とは一線を画します。彼らが批判的な考察の対象としているのは、1970年代以降のロールズなどによる功利主義批判、すなわち正義論です。とりわけサンデルの主張によれば、ロールズらの正義論は「善を欠いた正」の理論でしかないといいます。善悪の価値基準を持たない正義論だというのです。したがって、サンデルによれば、正義は善を志向する正義でなければならないということです。人間も正義を実行するために、善を踏まえなければならないというのです。

 近代の市民社会における人間は、社会的な関係から離れて、個として存在し、しかも自由な存在であり、自らの選択と判断によって、それぞれが善を求めていくと考えられてきました。善は主観的なものだと捉えられてきました。しかし、現実の人間は社会的な関係から離れてはいません。決して、「負荷なき自我」でも、「遊離せる自我」でもありません。共通する言語によって会話と交流を重ねる言語共同体の構成員であり、そこには共通のルールもあれば、共通の善悪の観念もあるはずです。その意味でいえば、善は決して主観的なものではなく、客観的で実在するものであるはずです。言語共同体に実在する価値観というものがあるはずです。誰しもそれを踏まえて行動すべき日常生活の指針があるはずです。経済活動をする場合でも、政治的な行為を行う場合でも、それを遵守することが、人々の自由保障につながる指針、真の意味での自由主義の価値観があるはずです。このような善の観念が社会に定着していること、また定着させるべきことに目を向ける必要があります。そして、各人が行動するとき、この善の観念を指針とすべきです。経済的な取り引きにおいても、政治的な行動においても、善に従うべきです。自由主義の政治・経済であっても、このような善の価値観を超えることがあってはなりません。そのような「負荷なき自由」、「遊離せる自由」であってはなりません。

 藤原さんが言う「善」の意味は、このように理解することができます。しかし、藤原さん自身は、このような善が即座に人々と社会の指針になるとは考えていないようです。「このような人間像はあまりにも理想主義的にすぎるようにみえるかもしれない。仮に人間が自己解釈的で物語的であることを認めたとしても、それ自身が自己の利益や権力目的を中心にして行われることもありうる」からです。自己の利益や自己の権力目的は、他者に害悪を及ぼさない限りで正当化されてきました。その限りで言えば、他者への悪を問題にするだけで、他者への善、他者との間で善をなすことは重視されてきませんでした。しかし、「近代の自由主義は、人間の悪の側面、その回避に目を向け、その理想主義的な可能性に目を向けることが少なかったように思われる。しかも今日、悪はもはたたんなる個人の行為の結果たることをこえて構造化しているのである」と、藤原さんは指摘しています。資本主義経済のルールや政治的民主主義の制度は、自由主義の思想に基づいているので、それに違反しなけえば、何をしても自由です。しかし、そのようなことでは、社会そのものを維持できなくなっています。人間は自由で平等な存在です。それを前提にして、人間は善を行うのも自由、悪を行うのも自由、ただし悪を行った場合には法的な制裁を受けることを甘受しなければならなりません。それは確かです。しかし、このような考えは、善や悪が個人の自由な選択の結果であるという考えを前提にしています。しかし、個々人の行動は社会的な関係によって規定され、個人の悪い行動もまた社会的な原因に基づいているのが事実です。その責任を個人に押しつけるだけでは、何の問題解決にもつながりません。政治や経済が善の価値基準に基づいていなければ、個人に自己責任を問うことはできないはずです。個人に悪の責任を問えるのは、善の基準を踏まえた政治・経済だけです。


3実践と徳
 コミュニタリズムの論者のマッキンタイヤーは、善の価値を内的善と外的善に分類し、それを人々の実践を通じて実現するための条件について提案しています。倫理性や品性、美徳を重視する提案なので、分かりにくいところがありますが、藤原さんの紹介に基づいて解説したいと思います。
 負荷のない自由や遊離した自由に基づいて経済活動や政治活動をしても、それは市場経済の論理や議会制民主主義の問題を解決することはできません。それらの活動が善の指針によって導かれたときに、自由主義のもとにおいても、善の経済、善の政治が実現します。それを実現するのは、私たちです。共通する善を実現するためには、各人の卓越性が発揮される必要があります。卓越性は、1個人の行動によって発揮されるものではありません。それは、社会的に確立された協同的な人間的活動を通じて発揮されるものです。人間が協同しあって活動するとき、卓越性が発揮されます。したがって、この社会的に確立された協同的な人間的活動がいかにすれば可能になるかが重要です。マッキンタイヤーは、この人間的活動のことを「実践」と呼んでいます。そして、社会に共通する善は、この実践によって達成されるといいます。
 マッキンタイヤーは、善を内的な善と外的な善に区別します。内的な善とは、社会的に確立された協同的な人間的な活動である実践によって達成されるものであり、達成することが目的になるものです。それは時には競争や経済を刺激することがあったとしても、その達成が社会全体にとって善であるものです。例えば、石油や天然ガスなどの化石燃料には限界があり、その欠乏のつけを次世代にまわすわけにはいかないと考え、それに代わるエネルギーの研究・開発が進められていますが、それは内的な善にあたると思います。企業や大学・研究所を中心に研究・開発が進められ、商品化のために競争が過熱することがありえますが、それは最終的には社会に恩恵をもたらすならば、それは善であり、内的な善です。これに対して、外的な善は、私有財産や経済的な富、社会的な名声や地位のように、内的な善を達成したときに、その個人の所有物になるようなものです。したがって、ある人が所有すれば、他の人は所有できない、ある人がより多く所有すれば、他の人はより少なくしか所有できないものです。外的善には、このように不平等や不均衡が伴う場合があります。
 マッキンタイヤーは、このように善を内的善と外的善に区別して説明したうえで、内的な善が達成できるのは、「徳」によってであると言います。マッキンタイヤーは「徳」を次のように定義します。「徳とは、その所有と行使が実践に内的な善を達成することを可能にし、その欠如が実際にわれわれをしてそのような善の達成を妨げるような、習得せられた人間の資質である」。徳のある人が、その徳に基づいて、社会的に確立された協同的な人間的活動を行ったとき、内的な善を達成することができます。もしも、徳がなければ、内的な善を達成することはできません。この徳は、人々に最初から備わっているものではありません。習得しなければなりません。マッキンタイヤーは、徳によって内的な善が達成できると言います。それはその通りだと思います。では、外的な善の問題、富や名声の不均衡はどのようにすれば解決できるのでしょうか。藤原さんの紹介から、その点を読み取りにくいのですが、おそらく次のように説明されるのではないかと思います。内的な善が達成されることによって、社会全体に善の効果が及び、人々は等しくその恩恵を受けることができる。その内的な善の実現に奉仕し貢献した結果として富を得ることは、正当化される。それが外的な善だということです。そのような内的な善を達成するために、徳のある行為を行い、その結果として得られた富や地位・名声だけが、外的な善として正当化されるということです。逆に言えば、富や地位・名声を手に入れたからと言って、それが徳のある行為によって得られたのではない限り、それを外的な善と言うことはできません。それは功利主義から一歩も出ていないということです。富や地位・名声を求める人々は数多くいます。しかし、富や地位・名声は、それ自体が目的であってはなりません。それが結果として得られるのは、内的な善が達成されたときだけです。富や地位が自己目的にされることがありますが、そのようなとき、それを達成するための手段は、内的な善とは異なるものになりかねません。市場経済においては、そのような目的と手段は、他者を害しない限り自由です。そのため、徳や善が問題にされない問題があります。このような功利主義的な自由主義をやめて、徳のある行為によって内的な善を実現する自由主義を模索すべきでしょう。これが、藤原さんがマッキンタイヤーから得た自由主義の再検討のヒントです。


4自然と人間
 コミュニタリズムの論者が主張する「善」は、共通する言語を用いて会話と交流を重ねる言語共同体における善です。コミュニティーの善といっていいと思います。その善が小さな集団であるコミュニティー(地域的共同体)の善にとどまらず、さらに社会的共同体、そして国家的な規模にまで拡大していくことが必要です。ただし、ある国家における善は、他の国家における善と一致するとは限りません。国際関係における善のあり方が問題になってきます。言語も違えば、宗教も違う地域共同体の間において、また社会や国家の間で、共通する善というものが成立しうるのだろうか。歴史も違えば、文化も違う。生活習慣や儀式も異なる。もちろん、法律も異なる。そのような多様な人々、社会、国家において一様な善のようなものがありうるのだろうか。多元的で多様な善を超える一元的で一様の善というものはありうるのか。このような疑問が真っ先に出されることが予想されます。その疑問に対する答えとして藤原さんが考えているのは、人間と自然の関係です。
 人間は様々な歴史、文化、言語によって結ばれています。人間社会には自ずと差異が生じます。したがって、善の観念も多様です。しかし、人間を取り巻く自然的環境・地球環境は1つしか存在しません。この唯一の自然を共通項として統一的な善の価値基準を模索できなでしょうか。個人の生活から始まって、地域共同体、社会的共同体、国家、さらには国際関係において、政治も経済も、自然を軸にして成立する善の価値観を基準に営むことはできないのでしょうか。自然を征服の対象とするのではなく、共通善の成り立つ基盤として捉え直すことはできないのでしょうか。共通する善の価値観を、功利主義を制約する原理とすることはできないのでしょうか。共通する善の価値観によって自由主義を再検討することが、いま求められているのではないでしょうか。今から30年ほどまえに藤原さんが問いかけた問題は、ますます現実味をもって私たちに迫っているように思います。


5道徳的秩序、経済的秩序、政治的秩序
 しかしながら、現実の社会は、藤原さんが述べたコミュニタリズムの理論で運営される状況には至っていません。それが現実です。資本主義社会である以上、資本の論理で動いています。自由な市場において、自由で平等で独立した人々が、他人が必要としてそうな商品を呈示して交換し、それによって利益をあげる経済が続いています。それが続けられる限り、そこにおいては自ずと資本の論理が貫かれ、搾取と収奪が続けられることになります。それを批判し、新たな社会を模索するために、社会主義の理論と運動が様々な努力を重ね、実践を続けてきましたが、様々な課題が残されたままの状態が続いています。
 どうすればよいのでしょうか。藤原さんは、次のように言います。「私有財産と市場をやむを得ざる前提としながら、それに法的、政治的規制を加えつつ、徐々に軌道修正していくような発想を採るべきかもしれない」。政治・経済の根本を変革して、新しいものに変えていく革命のような大規模な取り組みでなくても、小さな規模でよいから、少しずつ修正を施していって、改良を積み重ねるという方法をとるのが現実的なのではないでしょうか。かつては、そのような理論的態度に対して、修正主義であるとか、改良主義といったレッテルを貼って非難することがありました。革命思想の原則を否定し、最終的には社会主義への道を閉ざし、資本家階級に利するだけであると悪罵を投げつけることもありました。しかし、そのような主張でさえ、1990年代以降のソ連や東ヨーロッパにおける社会主義の崩壊に直面して、これまでの態度を変更せざるを得なくなっています。さらには中国における社会主義の実践に対して、ある時は肯定的に見ていた態度を変更することを余儀なくされています。まさに社会主義は今のところ「何処にもない」(ユートピア)と言わざるを得なくなっています。
 資本主義は現実に存在しています。したがって、私有財産と市場をやむを得ざる前提とせざるをえません。それを急進的に変革することは、現実的な課題ではなさそうです。資本主義の弊害を認識し、それに何らかの規制を加える必要があることを痛感している人々との間において、共通する課題やテーマ、その方法を模索し、それによって多数派を形成していくことが、何よりも必要なことでしょう。そのような多数派を形成するための一致点は何でしょうか。コミュニタリズムの論者や藤原さんが提唱している共通善という価値基準が、そのままの形で受け入れられるかどうかは分かりません。それを拒否する人もいるでしょう。それは十分に予想されます。しかし、拒否するならば、その人が考える一致点とはどのようなものなのでしょうか。教えて欲しいと思います。それを会話と交流を積み重ねて模索したいと思います。そのような理論的な営為が必要であり、また可能です。
 近代以前は、政治的なものと道徳的なものは、善かれ悪しかれ不可分一体のものでした。経済的なものは、それらに包摂されていました。貴族による政治支配や身分制の階層構造のもとで、人々の自由は虐げられていました。人々の経済活動の自由は、非常に制約されていました。宗教的な価値観は、それを正当化していました。近代の自然法思想が、それを批判し、人々を解放し、自由と平等を唱えたことは、画期的であり、革命的なことでした。しかし、その結果、経済は政治や道徳から解放され、完全な自由のもとで行われるようになり、それが新たな問題を生み出しました。徳や善を追求するのではなく、富を追求し蓄積することが自由に行われるようになりました。さらに、政治や法、宗教・道徳は、それを保障する役割を担うだけでした。結果的に、自由な経済社会に従属することになりました。
 藤原さんは、このような近代の様相を迷妄(めいもう)と名づけ、次のように転換することを主張しています。

 われわれは今やふたたび善悪、正邪についての判断基準を提供しうるものとしての道徳的空間と、積極的な問題解決のメカニズムとしての政治的空間を回復し、経済の世界を逆にそれに従属させそれによって方向づけていかなければならないであろう。

 このような転換は、近代以前に舞い戻ることを意味しません。自由主義の経済的側面である資本主義的生産様式と資本主義的生産関係を前提としながら、自由主義の政治的側面である議会制民主主義と法治国家から、経済的な諸関係に対して反作用を及ぼしていくために、政治と法が積極的な役割を果たしていくことが必要です。そのために政治と法を共通善によって構成すること、そのための議会制民主主義のあり方を理論的に転換することが必要です。藤原さんは、最後に述べています。「このような構造の組み換えこそ今日何よりも要請されているところであり、本書もまた思想史の立場からのそれへのひとつのアプローチであり模索であったといえる」。
 藤原さんは、このような主張が「理想主義的すぎる」と批判されることを覚悟の上で、新たな問題提起をしています。それは思想史研究のレベルに止まらないインパクトを持っています。政治や経済の実践に携わっている人が、この問題提起を受け止め、誠実に対応してくれれば、厳しい社会を徐々に変革することができるのではないかと思います。私たちの人権の持つ意味も少しずつ明らかになり、その実現の仕方も具体的になるのではないかと思います。