Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(01)

2015-09-29 | 日記
 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
 第01回 1931年から1945年にかけての日本への接近

 はじめに
 今日から15回にわたって鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』と読んでいきたいと思います。今日は第1回目なので、この本の著者である鶴見俊輔さんについて簡単に紹介し、またこの本についても作られた経緯を見ておきたいと思います。

 鶴見俊輔さんの略歴と主要著書は、この本のカバーに記載されています。1922年に東京で生まれ、1942年にハーバード大学哲学科を卒業しています。残念なことに、2015年7月に亡くなりました。人間には寿命があるので、やがては死んでいく存在ですが、鶴見さんのように、日本と世界の戦争と平和の問題を考え、発言し、行動してきた人が亡くなったというのは、そのような問題を考え、発言し、行動する人を一人失ったということを意味します。まだまだ彼から学べることは多いと思います。

 鶴見さんが大学を卒業する前の年の1941年12月から、日本とアメリカは、戦争に突入していきます。鶴見さんは、大学卒業後の直後には、日本人捕虜として身柄を拘束され、その後帰国船に乗せられて、日本に送還されます。その当時の日本が、捕虜として送還されてきたとはいえ、アメリカ留学帰りの鶴見さんをどのように迎え入れたのかは良く分かりませんが、大学卒のエリートであっても、「敵国」であるアメリカから来たので、歓迎されることはなかったと思います。彼の人生は、哲学を学んだアメリカからも放り出され、生まれ故郷の日本からも冷たく見られ、孤独のなかから出発したような感じです。そのことが、その後の鶴見さんの考え方にも影響を与えたのではないかと思います。

 鶴見さんについて、もう少し詳しく知りたいひとは、インターネットのウィキペディアで調べてください。哲学者・大衆文化論者としてだけでなく、平和運動家・政治運動家としての鶴見さんを知るきっかけになると思います。主要な著書は、紹介し始めると、その著書の名前を読み上げるだけで時間が無くなってしまいますので、止めておきます。この授業でテキストとして読む『戦時期日本の精神史』は、1931年から戦争終結の1945年までの日本あるいは日本人の精神史を分析したものです。その後の戦後における日本・日本人の精神史については、『戦後日本の大衆文化史』において分析されています。併せて読んでほしいと思います。

 この講義では、『戦時期日本の精神史』をテキストとして使いますが、この本では何が述べられているかというと、加藤典洋さんが「解説」で書いているように、現代日本の思想史です。その学習・研究には、非常に幅の広い視野が求められます。政治・経済、社会・文化・歴史・哲学、国際関係などの知識を総動員しなければ、その理解を進めることはできないでしょう。鶴見さんは、戦時期の日本の精神史の様々な問題をカナダの大学において、カナダの学生に向けて解説しました。それは、このテキストの元になっています。1931年以降、日本を支配した全体主義・ファシズのなかで、日本の知識人がどのように考え、どのように行動したのか。当時の知識人はどのように考えなかったのか。どのように行動しなかったのか。鶴見さんは、その足取りをたどりながら、いわゆる「転向」の事実と意味を問い治し、それが日本の精神史を貫く「文化の鎖国性」という特質と深いところで共通していることを明らかにしました。日本の知識人の営為と思考する作業のあり方に対して、反省を迫る独自の日本文化論でもあると、加藤さんはこの本を紹介しています。それは、現代においてもあてはまることだと思います。

 私は、2013年の秋の講義において、鶴見さんと久野収さんが書いた『現代日本の思想』という岩波新書をテキストとして使用しました。200頁ほどの本を、15回にわたって読み砕いていくという作業を通じて、一冊の本を丹念に精読するという貴重な経験をすることができました。それは講義を行なう私だけでなく、それを聞いている学生にとっても同じだったと思います。「本を読む」とはどういうことか。私は、著者と対話することが「読書」の基本だと考えています。著者は本を書きます。それによって、読者にメッセージを届けようと試みます。読者は、その本を読むことによって、著者からのメッセージを受け取ります。しかし、それは残念なことに、「著者から読者へ」という一方通行的な作業でしかありません。メッセージを受け取った読者が著者に質問を投げ返すという往復作業、双方向的な対話は予定されていません。私は、このような本の読み方だけではツマラナイと思います。本を読むことは、著者と対話することです。この講義では、鶴見さんが書いたことを踏まえながら、なぜこのように書くのだろうか、ここからどのようなメッセージを受け取ればよいのだろうか、この本から自分が感じたことを鶴見さんはどのように受け止めてくれるだろうか、など思いを巡らしながら読み進めていきたいと思います。

 死んでしまった鶴見さんと対話をするなかで、彼が私たちに伝えたこと、伝えたかったことをしっかりと受け止めていきたいと思います。その作業が行なわれるとき、鶴見さんは、生きて、私たちに語りかけてくれます。

(1)「接近」の前提
1.言語について
 では、まずは「1931年から1945年にかけての日本への接近」というところから読んでいきましょう。ここを第1章と番号づけをしておきます。そして、読みながら、読み方というか、理解の仕方について、私なりに解説したいと思います。

 鶴見さんが取り上げるテーマは、「1931年から1945年にかけての日本精神史」です。この問題を考える前に、鶴見さんはカナダの学生に対して次のような話をしています。

 第1は、言語についてです。言語とは、自分の考えや意見、感想を相手に伝える手段です。音楽を聞いた時に感じた思いや、絵画を見たときに抱いた印象を他人に伝える場合、言語という手段を用います。音楽は音声と音響、絵画は色彩と形象という手段で表現されますが、それは非言語的な表現方法です。しかし、私たちは、それを見たり聞いたりしたときの印象や感想を言語を用いて表現されるわけです。例えば、ワーグナーの音楽を聞いた時、ヒトラーはその印象をドイツ語で話しました。それと同じように日本人は、日本語で語ります。ドイツ語圏で生まれ育った人と日本語圏で生まれ育った人とでは、ワーグナーの音楽の受け止め方、感じ方に違いがあると思いますが、非言語的な芸術の感想や印象を、言語によって評論するという点では、ドイツ人も日本人も同じことを行ないます。しかし、この本のテーマである「日本精神史」は、日本の思想史であり、日本の文化史であり、それは日本人の学問的営為や日常生活において形成され蓄積された歴史の全体です。その歴史の過程において日本人が学問的に考えたこと、日常生活において行なったことは、日本語を用いて考えたことであり、日本語を用いて行なったことです。このような日本語と不可分一体の思考た行動を体系化したものが「日本精神史」であるとするならば、ドイツ語圏で生まれ育った人が、それをドイツ語で理解し、その印象をドイツ語で表現するということができるでしょうか。やとうろ思えば、やれるのかもしれませんが、それは音楽や芸術の感想や印象を述べるのとは、少し違うように思います。

 鶴見さんは、日本精神史を英語を用いてカナダの学生に解説しましたが、果たして成功したでしょうか。日本語を用いる日本人が日本語によって考え行動した「精神史」の内容を、日本語以外の言語によって解説することが可能でしょうか。その問いに対する答えとして、鶴見さんは「困難」ではないかと答えているようです。鶴見さんは、カナダ人に対して、「英語を話す日本人は信頼できない」と話していますが、それは日本精神史の英語的表現と理解の「困難」さを端的に言い表しています。例えば、日本人が使いこなす英語の表現方法は数とパターンが限られているので、単調になりがちです。情緒的な細かなことまで表現できる人は、そんなに多くないと思います。表現や内容が大雑把になりがちです。しかし、「だから信頼できない」ということを鶴見さんは言おうとしているのではありません。英語しか使えない人が日本精神史の英語訳を読んでも、それだけでは日本精神史を理解すること「困難」であるというのは、日本精神史には、日本的性質、日本固有の歴史性、伝統性、文化性など体で感じなれれば、会得できないものが余りにも多くあるからです。頭で考えても、分からないことが多いのです。

 それと同じことが、日本語のなかに取り入れられた英語の表現についても言うことができます。英語圏の思想や文化は、英語で表現されますが、そのいくつかは、戦後の日本語に数多く取り入れられました。例えば、「シックなドレスのファッションショー」。日本人ならば、この言葉で何が表現されているのかは、おおよそ検討がつきます。しかし、英語圏の人はどうでしょうか。どうやら、理解できないようです。例えば、「ヒット・アンド・ラン」という英語表現もそうです。野球が好きな人であれば、それがベンチからバッターとランナーに対して送ったサインであることは、容易に理解できます。しかし、アメリカ人の学者に言わせれば、理解不可能だというのです。この言葉は、アメリカ野球の一つの戦術として日本野球に取り入れられたものですが、この言葉はもとは異なる脈絡で使われていた言葉だそうです。それは、交通事故を引き起こしたドライバーがその場から逃走する「ひき逃げ」という意味です。英語が日本文化のなかに定着したとたん、その英語でさえ、元の言語圏では与えられなかった意味を獲得するのです。英語が取り入れられたからといって、その英語の元の意味がそのまま取り入れられたことにはなりませんし、英語で表現されても、日本文化をアメリカ人が理解できるとは限りません。そこには、深い隔たりがあるのです。

 このように考えてくると、次のように言うことができます。明治維新以降、日本には、欧米の言葉や文化が取り入れられましたが、それによって日本人の思考方法が欧米化したかというと、そうではないということです。確かに、日本に欧米の言葉は文化、思想が入ってきました。日本人は、合理的に物事を考え、行動することができるようになりました。しかし、それは「記号」として用いられていることは否めません。「そのように考え、行動する方が、合理的だ」といった感じです。本来、合理主義は、そのようなものではなかったはずです。しかし、その言葉、思考方法・行動様式が「記号」として用いられてしまっているのが、日本の合理主義の特徴です。ようするに、あまり意味を考えなくなっているということです。例えば、観念論という哲学の一潮流の理論体系を表す言葉があります。ドイツ語では、Idealismus(イデアリスムス)、英語ではIdealism(アイデアリズム)と表現します。日本では、頭の中だけで考えて、それを実証できない人を批判するときに、「君は、観念的だね」と表現することがあります。しかし、観念論は本来的にはそのようなものではありません。しかも、他者の見解を批判するときに、また自分の見解の優位性を誇るために用いる擁護ではありません。しかし、日本では、この観念論という言葉は、伝家の宝刀のように、批判の言語的表現、殺し文句として用いられることが少なくありません。外来の英語が導入され「記号化」される前に、すでにそれを指し示す日本的・土着的なものがあったはずです。なぜ、それを用いないのでしょうか。そのようなものを踏まえなければ、日本の精神文化の歴史を自覚的に理解し、「身につける」ことはできないように思います。

2.「転向」の特殊性について
 鶴見さんは、日本精神史を解説する前提として、カナダの学生に対して、「転向」というテーマを話しました。「転向」という思想現象は、日本精神史において、特殊性を有しているということです。

 私は、「特殊性」という言葉に対して注意を払う必要があると思います。それには、2つの理由があります。特殊性は、一般性に対置される概念であり、普遍性に対する固有性と同じ意味を持っています。例えば、どのような社会においても、またいつの時代においても、どのような文化のもとであっても、またいかなる宗教のもとであっても、共通して話題になる問題(人間の死生観のようなもの)、共通して遵守される規則(人を殺すことは罪であること)には、一般性・普遍性があります。しかし、そのような社会や時代、文化や宗教と対立する社会・時代、文化・宗教がある場合、相手方との間に一般性・普遍性・共通性を認めることができるかというと、それはできません。他者との違いと区別が明確だからです。そのときに、自分を表現するために用いられるのが、特殊性や固有性という概念です。この言葉は、本来的に備わっている「違い」という意味で用いられます。それは、歴史や文化、風土などによって形成されることから、他のものとの間にある「ありのままの違い」を指し示し言葉です。「もとより違っていて当然の性格」という意味で用いられます。「違いがあるのが当たり前」なので、他者から批判されるようなものではありません。日本文化や日本精神史を研究する外国人研究者が、この本来的な意味での日本の特殊性をどこまで理解できるのかという点にについては、興味がありますし、鶴見さんもまたカナダの学生に対して、同じような関心を持っていたのではないかと思います。

 鶴見さんは、この特殊性という言葉を「転向」という現象を説明するために用いています。「転向」は、1920年代に政治運動において使われ始めた言葉です。しかも、日本社会を変革する社会主義者の運動とそれを抑圧する天皇制警察との間にあった政治的緊張関係のなかで用いられた言葉です。社会の変革を求める政治勢力とそれを抑圧する政治体制との対立と緊張は、どこに国にもありましたし、今でもそうです。対立が激しく、それに対する抑圧が暴力的であればあるほど、社会変革の運動の路線をめぐって、争いが生じます。このままの路線で果たして良いのだろうか。別の方法があるのではないか。困難に直面して、運動内部における論争は、どこに国においても起こりました。運動の路線を見直そうとする人たちは、従来の路線から方向転換して、別の道を進み始めます。「転向」は、この方向の転換を意味します。その限りで言うならば、日本の「転向」を「特殊」なものと見る必要はないように思います。どこの国にもあった現象の1つでしかありません。日本の社会変革運動における「転向」は、他の国の「転向」と共通性があり、特殊というよりは、一般的・普遍的であると言えます。しかし、ここで問題になっているのは、日本の「転向」の背景事情とか、その根拠とか、転換された方向性についての特殊性であり、それは諸外国とは違った特徴のようです。鶴見さんは、そこに日本的な特徴がある、特殊性があると見ています。しかも、それには戦争中の15年間の知的・文化的な傾向を表しています。

3.「転向」の偶然性と必然性について
 「転向」は、方向転換を意味します。それは、既存の路線からの方向転換であり、ここにあるモノとは違う別のモノになることでもあります。それは、これまであったモノ、既成のモノ、基準となっていたモノ、標準的なモノからの離れて、他のモノへと移行することであるために、「」転向」の原因や理由を考えるならば、その既成のモノ、基準、標準とは何であったのか、なぜそこから離れて、他のモノへと移行していくのかを考えなければなりませんし、それを考えるためには、「転向」という現象を生み出した社会の文化の特徴がよく理解できるように思います。それは「転向」にだけ限ったものではありません。もっと広く、1931年から1945年までの戦争の時期は、その前後の時代とどのような関係があるのかという問題でもあります。大規模な戦争に突入する前の時代が標準的な時代であったとするならば、戦争の時代はその標準的な時代からの逸脱であるといえます。なぜ標準的な時代から標準的でない時代へと逸脱していったのでしょうか。「転向」の問題は、戦争と平和をめぐる問題であり、過去の歴史の問題であると同時に、現代的な問題でもあります。

 「転向」の背景事情について、次のような仮説が考えられます。1931年から1945年までの15年間は、明治初年以来の近代日本史のなかにおいて、1つの偶発的な出来事、偶然的な出来事なのではないか。近代日本史の大きな流れから見ると、何者かが標準的ではない流れを作りだし、それを日本に押し付けたのではないか。このような仮説です。このような仮説からは、近代日本史における標準的なものは、平和の流れであり、標準的でないものは、戦争の流れであり、戦争の流れは、何者かによって作り出された偶然の出来事として扱われることになります。従って、「転向」もまた、偶発的に起こった戦争の時代の悲しい出来事であったということになり、平和の時代においては、そのような出来事については、あまり心配しなくてもよい、ということになります。しかし、そうでしょうか。それとは別の答えもあり得るのではないでしょうか。つまり、1931年から1945年までの15年間は、明治初年以来の近代日本史のなかの一つの偶然の出来事ではなく、必然的な出来事であるという仮説です。

 近代日本史の流れを大きく見ると、鎖国状態を解いて、国際社会に仲間入りしたので、平和と友好の国際関係を形成するチャンスがあったのは確かですが、アジアにおける欧米諸国、ロシアの進出は、近代化したばかりの日本にとっては脅威であり、それとの緊張関係・対抗関係が生ずる流れも同時にありました。19世紀末から20世紀初頭にかけての日清戦争・日露戦争の時代以降、その傾向が強まっていったと見ることもできます。15年間の戦争は、決して偶然生じたものではななく、日本の開国、近代化、近隣の大国との友好と対抗の関係といった複雑で様々な要因が積み重なって生じたということです。そうすると、「転向」の問題は、一見すると平和であると思われる社会においても考えなければなりませんし、現代の日本のように戦争か平和かの争いが再燃してるところでは、なおさらのことそうです。このような現代的な問題として考える立場からは、「転向」は日本近代史の例外的で偶発的な現象ではないと受け止められます。

4.歴史の区分について
 この本のなかですでに述べられているように、日本における戦争のことを「15年戦争」と呼んでいます。第2次世界大戦、太平洋戦争という名称が用いられえるのが普通ですし、大東亜戦争という名称を用いる人もいます。しかし、鶴見さんは、1931年の満州事変から日本が本格的に中国に対して戦争を仕掛け、最終的にはアメリカをも相手にして戦い、1945年に終わった戦争であるため、15年戦争と表現しています。

 1931年、日本の陸軍指導者が中国の満州で戦闘を引き起こして、さらに進んでこの地域に日本軍が自由にできる政権を打ちたてたとき、この手法は世界にとって新しいものでした。それをイタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーが真似をしました。ヨーロッパでは1939年に第2次世界大戦が始まり、アジアでは1941年に太平洋戦争が始まったという認識されています。このような認識だと、1931年からの日中戦争までの期間が抜け落ちてしまいます。満州事変のイタリア、ドイツに与えたインパクトは、日本がすでに世界大戦とつながってたことを意味しています。鶴見さんは、このあたりのことを念頭において、精神史を考察していますが、興味深いところです。

5.歴史認識の空間的枠組と時間的枠組
 鶴見さんは、カナダの学生を対象に日本精神史を解説していますが、おそらくこの学生たちは様々な意味で日本の歴史や文化に興味を持っている人たちでしょう。日本に対する興味関心は様々でしょうが、それを入口にして、日本という考察の対象の中に入っていくわけです。中に入っていくとどのようになるでしょうか。イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチは、若いころから日本の文化に興味を持っていました。彼は、最初から最後まで日本に対して愛情を失わずに、失望しなかった数少ない1人だといいます。考察の対象に対する愛情とは、どういう意味でしょうか。

 リーチは、日本に対する関心とともに、中国や朝鮮に対しても関心を持っていました。彼は陶芸家なので、日本の焼物と同時に、中国や朝鮮の焼物にも目を向け、その違いと特徴について考えることができました。つまり、「全体」のなかで「個」を捉える視点、「個」と「個」を関連づけて、「全体」を見渡す観点があったということです。アジアのなかで日本を理解する視点、日本と中国、日本と朝鮮を関連づけて、アジア全体を見渡すことができたということです。ですから、美しく見えていた日本の文化が、中国や朝鮮と関連づけられても、たとえ戦争や侵略などの歴史を踏まえても、醜く見えるようなことはなかったということです。愛情というのは、そういう意味だと思います。

 しかし、日本を中国や朝鮮の側から見ると、日本の嫌な側面が浮き彫りになるのも事実です。とくに、1910年の日本と朝鮮の併合、1931年から1945年までの15年の戦争がそうです。もし日本の近代史を中国や朝鮮などのアジアの近代史の全体になかに位置付けて捉える視点を持たないならば、戦争をした日本に失望するでしょうし、日本文化を美しい文化とは思えなくなるでしょう。アニメが好きだとか、フィギュアが好きだといった趣味と嗜好の話に限れば、そんなことはないと思いますが、お茶、俳句、文学など日本の精神文化に興味を持った人、そこに美しさを感じた人ならば、幻滅してしまうでしょう。リーチは、そうではなく、戦争という歴史的事実に直面しても、その背景にある要因を地理的・空間的に広げて捉える視点、歴史的・時間的なプロセスにおいて考える視点を持っていたので、冷静に、かつ愛情を持ち続けながら日本を考察することができたのだと思います。それは、失望や幻滅を避けるための方法という意味ではありません。物事を正確に捉えるための思考方法という意味で大切なことだと思います。

(2)歴史認識の多様性
 過去の歴史、日本の精神史を振り返りながら、そこから知識と思想のあり方について考えるヒントをつかみ出す。これが、鶴見さんがこの本のなかで行なおうとしていることです。歴史を振り返るためには、過去の史料を読み返し、その時代の動きの中でそれを位置付けて、読み直すことが必要です。現代史の場合、数多くの史料があります。多くの証言も残されています。当時を生きた人から、直接話を聞くこともできます。1931年から1945年までの15年間の戦争の歴史、日本の精神史について、様々な解釈が成り立ちますし、当事者の様々な体験もあります。歴史に働きかけようとした思い、情熱があります。政治家の野望もあります。経済家の野心もあるでしょう。1個人の善意もあれば、悪意もあるでしょう。積極的に関わった人もいれば、消極的に関わった人もいるでしょう。自覚的な人もいれば、不本意だった人もいるでしょう。このような様々な人々によって過去の歴史が作られたわけですから、その解釈も様々です。あらかじめ立場を決めて、「この解釈が、正統な解釈である」と断定して、他の解釈を批判し、斥けることはできません。従って、鶴見さんの解釈も見解も一つの可能性を示しているだけであって、それに右へならえをする必要はありません。鶴見さんの見解も、それを解説をする私の意見も、同じ様に一つの可能性を示しているだけであって、絶対に正しいものではありません。歴史の見方、史料や史実の解釈には、多様性と可能性があることを認識してほしいと思います。

 しかし、だからといって、確かなものなど何一つないのだとか、絶対的に正しい事柄などそもそも存在しないのだと勘違いしないでほしいと思います。今ここにいる時点においては、過去の歴史について様々な解釈が成り立つという意味で、私たちは絶対的な考えをしりぞけて、相対的な姿勢を貫くべきだと思います。しかし、長い歴史を振り返ったときに、やはりそこには一定の法則があり、確かなものがあり、真理と呼べるものもあると思います。多くの人たちが、「これは正しい」と、共通の認識を持てるものがあると思います。それは、一般的・抽象的な内容のものであるかもしれませんが、確かなものがあると思います。その一般的・抽象的な確からしさが、今日の時代と社会において、どのように特殊的・具体的な形態とともなって表現されるべきかを考えることが重要なことだと思います。

 「平和は大切ですか?」と質問されれば、ほとんどの人は「大切です」と答えるでしょう。ここには一般的・抽象的であっても「真理」があります。この「真理」は、人類が過去の歴史においてつかみ取ったものです。戦争を繰り返し行ない、そこから体験し、獲得した絶対的な真理です。しかし、「平和を維持するためには、どうすればよいと思いますか」という質問に対しては、答えは様々です。平和の探求の仕方、それを維持する方法をめぐっては、私たちは絶対的真理には到達していないようです。だから議論しなければならないのです。政治家が勝手に決めるのではなく、私たち一人一人が主体となって、議論を起こし、それに関わり、仮説を提示して、意見交換を続けなければならないのです。意見の対立は、議論を困難にさせるものです。多数の意見が正しく見えることがあります。そのため、少数意見を主張する勇気が出にくくなることがあります。控え目な人、慎重な人、じっくり考えるタイプの人は、とくにそうです。言論が自由に行なわれる空間においては、民主主義は必要ですが、多数決原理は妥当しないと思います。そうであるにもかかわらず、多数の人々の意見が世論を形成していきます。その勢いは、止まりません。それが、社会と時代をリードしていきます。少数意見の人は、なんとなく置いてきぼりにされたような感じになります。取り残されたような気持ちになります。そこに全体主義の危険があるわけですが、それは自分の意見が世論を形成し、多数派を形成している人には、どうもわかりにくいようです。私なんかは、少数派の意見のなかにこそ、真理hがあると考えています。

(3)本講義の目的
 この授業では、1931年から1945年にかけての日本精神史に関する鶴見俊輔さんの見解を勉強したいと思います。この授業を通じて、皆さんに行なってもらいたいことは、次の3つです。

 第1は、予習です。300頁近くの本を15回の授業で読んで行きます。1回20頁足らずなので、事前に読んでください。私の話しを聞くよりも、鶴見さんが何を言っているかを知ることのほうが重要です。

 第2は、本の読み方です。この本はカナダの大学でカナダの学生を対象に英語で話された内容を日本語に書き直したものです。カナダの学生は、この授業を通じて鶴見さんの日本精神史の議論を学んだと思います。日本の文化に興味はあっても、日本の精神的なものを共有していないカナダの学生が。このようなテーマについて勉強したのです。少なくとも、日本で生まれ育った人であれば、彼ら以上にこの問題について理解できると思います。「理解」というのは、鶴見さんに対して「賛成」の意見を持つということではありません。あえていうなら、「反対」の意見や「疑問」を持つことができるようになって、初めて「理解」できたといえるのではないかと思います。読めば読むほど、疑問がわいてくる、「鶴見さん、それは違うだろう」という気持ちが出てくるような読み方をしてほしいと思います。

 第3は、日本文化や精神史だけでなく、幅広い問題関心を持って、それを考える方法を身につけてください。考え方というのは、最初に公式があって、それをあてはめていくという作業ではありません。全体を眺めるときだけでなく、細部を見極めるような場合でも、着眼点が必要です。しかも、それは人それぞれの視点なので、自分だけのオリジナルなものです。そのような考え方の基本を身につけるように努力してください。

 次回は、第2章「転向について」を読んで行きます。