Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

ディーター・ダイゼロート「責任は実証主義にあったのか?」(2・完)

2015-08-12 | 旅行
 解説
1.本稿は、ディーター・ダイゼロート(Dr. Dieter Deiseroth)による「責任は実証主義にあったのか? ―― 1933年1月30日から80年目のテーマ「法律家とナチ体制」に関する評論」(War der Positivismus schuld? - Anmerkungen zum Thema Juristen und NS-Regime achtzig Jahre nach dem 30. Januar 1933, in: Betrifft JUSTIZ Nr. 113, März 2013, S. 5-10.)の邦訳である。
 ディター・ダイゼロートは、1950年、ヘッセン東部のフリーデヴァルトのヒルアルトハウゼン(Hillartshausen)に生まれ、1977年から1983年までギーセン大学で法律学、社会学、政治学を学び、卒業後はデュッセルドルフ行政裁判所判事(1983年-89年)、連邦憲法裁判所研究助手(1989年-1991年)を努め、その後ミュンスター上級行政裁判所判事、ノルトライン=ヴェストファーレン情報保護局部長の職に就き、2001年以降、連邦行政裁判所判事(Richter am Bundesverwaltungsgericht)を務めている。その間、1985年に「裁判に直面する大規模発電所 ―― ドイツ連邦共和国の行政裁判所におけるエネルギー、労働現場、環境保護をめぐる論争」(Großkraftwerke vor Gericht : Studie zu den Auseinandersetzungen um Energie, Arbeitsplätze und Umweltschutz vor deutschen Verwaltungsgerichten in der Bundesrepublik Deutschland)を執筆して法学博士の学位を取得し、2010年には『ヘルムート・リッダー著作集』の共同編集の作業に関わっている(Gesammelte Schriften von Helmut Ridder, Hrsg. von Dieter Deiseroth, Peter Derleder, Christoph Koch, Frank-Walter Steinmeier. Nomos, Baden-Baden 2010)。
 本稿は、2013年1月、ダイゼロートがザクセン・アンハルトの裁判官研修の一環として行なった講演が基になっている。ドイツ法の歴史のなかで、裁判官が法解釈と法適用をするにあたって最も教訓とすべきことは何か。ナチス党が政権を掌握し、ヒトラーが首相に任命された1933年1月30日から80年を経た2013年の時点において、ダイゼロートは、「第三帝国における法実証主義」の主題を取り上げ、裁判官研修の場で若手の裁判官に対して、現代における法解釈と法適用に関する根本問題を問いかけた。法とは何か、法の解釈と適用は、何を指針に行なわれるべきか。ラートブルフのテーゼを批判的考察の対象にすえて、ドイツの不法な過去を振り返り、そこから未来に向けて法の解釈・適用の方法を展望するダイゼロートの問題提起は、戦後70年を迎える日本の法律家にとっても無関心ではいられないはずである。

1.グスタフ・ラートブルフ(Gustav Radbruch)は、ワイマール共和国の建国直後の1920年、ドイツ社会民主党から帝国議会選挙に出馬して当選し、1921年から23年までの間、ヴィルト政権およびシュトレーゼマン政権において司法大臣を努めた。その後、キール大学、ハイデルベルク大学で法学教育と研究に従事したのち、1933年にユダヤ教徒であることを理由に政府から教職追放の処分を受け、その後はイギリスなどで亡命生活を余儀なくされたが、ドイツ敗戦後の1945年9月に教職に復帰し、ハイデルベルク大学法学部長として大学の再建に取り組んだ。
 ダイゼロートが批判的に検討する「法律の形をした不法と法律を超える法」(Gesetzliches Unrecht und übergesetzliches Recht)は、ラートブルフがこの時期の1946年に「南ドイツ法曹新聞」(Süddetuche Juristenzeitung, Jahrgang 1, 1946, S. 105-108.)に公表した短い論文である。ドイツの敗戦とナチスの崩壊によって、12年間の法と司法の全貌が徐々に明らかになり始め、ニュルンベルクではナチ党の幹部や政府の要人の裁きに続いて、医師や外交官、法律家も法廷に立たされていた。また、ドイツの法制度とそれを支えた法理論の問題が、脱ナチス化の浄化過程のなかで顕になっていた。このような時期、ラートブルフの論文は多くの人々の間で読まれ、受け容れられた。それは、自身もナチスにより迫害された経歴があっただけでなく、法と司法がナチスに協力・加担した本質的原因を端的に言い当て、それと決別すべきことを強く訴えたからである。その冷静で朴訥とした語り口調は、非常に情熱的で、扇動的であった。「法律は法律なり。開く方であろうとも、法律であるがゆえに法律なり」の法実証主義の思想が、ナチスの恣意的で犯罪的な法律に対する抵抗力をドイツの法律家から奪い去った。この主張は、いわゆる「ラートブルフ・テーゼ」(Radbruchsche These)として集約され、戦後ドイツ法学界において急速に広がった。多くの読者は、そこに戦後ドイツ法学の出発点を見出した。このような理論的環境のなかで、法律家は法学方法論としての法実証主義に対する批判とその反動としての自然法の再生へと向かった。
 ラートブルフ・テーゼは、ワイマール共和国の崩壊期とナチス支配の安定期において、法実証主義が法学と司法において支配的であったという認識を前提としているが、ダイゼロートは、この認識を「実証主義伝説」(Die Positivismus-Legende)と名づけ、批判している。その当時支配的であったのは、法実証主義ではなく、自然法論や精神科学論を指向する法理論や社会学的・政治学的な法理論、さらには反個人主義的・決断主義的な法思想であり、総じて民主主義や議会主義に基礎づけられた議会制定法を忌避する反実証主義的な思想傾向であった。本稿では、それらが法学者の個別具体的な言説に基づいて例証されている。しかし、このような反実証主義的態度は、法学者に限られたことではない。帝国裁判所の裁判官も同じである。例えば、帝国裁判所第5民事部は、1923年11月28日、債権者が第1次世界大戦前に設定された抵当債権を大戦終結後のインフレーションによる通貨価値に合わせて増額評価する権利を有することを民法242条の「信義則規定」に基づいて認め、通貨法の「Mark gleich Mark」の原則を部分的に廃止したのであるが、政府はこの判決を「議会制定法に対する帝国裁判所の反逆」として受け止めた。これは裁判官による法律に反した法創造の典型例である(大河純夫「フィリプ・ヘックの増額評価請求権論(1)(2・完)」法学論叢93巻3号(1973年)28頁以下、同6号(1973年)21頁以下は、この増額評価請求判決を検討して、ワイマール共和国時代の裁判所と政府、裁判官と政治の対抗関係と和解の具体的状況を明らかにしている)。
 ダイゼロートが「実証主義伝説」の例として挙げている論者のなかでも、ハンス・ヴェルツェルの言葉が、刑法学研究の側から見ると非常に興味深い。彼は、ドイツの法律家が第三帝国に引き寄せられ、法律の形をした不法に対して抵抗できなかったのは、彼らのほとんどが法実証主義的心情を抱き、法実証主義に縛られたからであると回想したが、ワイマール共和国の末期に実証主義を厳しく批判したのは、他ならぬヴェルツェルであった。「実証主義の時代は過ぎ去った。実証主義は、実証的な個々の成果を積み重ねたけれど、それらを締めくくる『精神的靭帯』を我々に示すことができなかった。基礎的なもの、一般的なものそして全体的なものの追求は益々切実になっている。我々は刑法の分野でいわば時代の分岐点に立っている。現行刑法は古くなり、しかも熱烈に待望されている新刑法典は依然として帝国議会の暗闇の中に置かれている。現行法規の構成要件は解釈論的にはほぼ論じ尽くされた。そこで、科学の関心はより多く刑事立法の基礎的な要素、言い換えれば哲学的な要素へと向かっている。最近の新しい刑法草案が批判的に議論される場合にも、それは、従来の解決策から現在のそれを超えて改正の可能性へと導く大きな脈絡の中でなされている。こうしたことはすべて刑法的議論の中へ益々強く哲学的な問題提起をくい込ませる条件となっている」。ヴェルツェルはこのように述べて、刑事立法が前提とし、その対象とする前法的・基礎的な要素としての行為概念を、単に惹起されるものとしてではなく、志向性によって因果過程を目的意識的に支配・制御する意味的統一として探求し始めた(Hans Welzel, Strafrecht und Philisophie, Kölner Universitätszeitung 12. Jahrgang 1930 Nr. 9, S. 5 ff.その邦訳は金沢文雄「ハンス・ヴェルツェル『刑法と哲学』」広島大学政経論叢第16巻5・6号〔1967年〕97頁以下)。立法と解釈の方法論としての実証主義は、ワイマール共和国の議会制民主主義のもとで、政治的な権力闘争の妥協の末に可決される法律を法律家に所与のものとして受け容れさせた。そして、その文字を解釈することを任務として課した。しかし、刑法学の真の任務は、法律を基礎づけ、議会や立法を拘束する形而上学的な行為概念の論理構造を明らかにし、その論理則に基づいて立法と解釈を行なうことである。ヴェルツェルは、この論文で目的的行為論の基本思想を初めて展開したと評されているが、その基本思想が法的形而上学と実証主義批判であることは今も変わらない。ヴェルツェルの刑法学説が戦後のドイツで大きなインパクトを与え、その支持を急速に拡大させた背景には、その形而上学的・反実証主義的な魅力だけでなく、「実証主義伝説」による後方支援があったからでもある。

3.ダイゼロートが批判的に検証する「実証主義伝説」は、すでに日本においても議論されている。例えば、法哲学者の青井秀夫は、ラートブルフ・テーゼの論理を分析して、(α)「法律は法律なり」と教える法実証主義が、法律家を何十年にわたって支配してきた、(β)法実証主義の法学的忠誠心がナチ時代の法律家にも見られ、その教義の形式論理ゆえに「ナチの法律もまた法律なり」と理解されてしまい、ナチの恣意的で犯罪的な法律に対して抵抗することができなかった、従って(γ)ナチ時代の法律家は、ナチ政権に対して積極的に協力したというよりは、むしろ法実証主義を淵源とする法忠実性ゆえにナチの不法に消極的にコミットするしかなかった、という3段論法の形式において再構成し、この「法実証主義伝説」の(β)と(γ)の論点を反証している。ナチ時代の法律家が法実証主義的心情に囚われ、ナチの法律の形をした不法に抵抗できなかったという伝説を反証するために、いわゆる「レオ・カッツェンベルガー事件(Der Fall Leo Katzenberger)」の裁判において、ナチ時代の裁判官が、ナチ的世界観の要請に応え、カッツェンベルガーに死刑を科すために、法律による拘束からどれほど自由であったかを指摘している(ニュルンベルク・ヒュルト州特別裁判所1942年3月13日判決。Vgl. Justiz im Dritten Reich - Eine Dokumentaion, Herausgegeben von Ilse Staff, 1964, S. 194 ff.)。
 カッツェンベルガーはユダヤ人であり、ドイツ人女性と婚外性交渉をもった嫌疑をかけられ、「ドイツ人の血と名誉を保護するための法律」(Gesetz zum Schutz des deutschen Blutes und der deutschen Ehre vom 15. September 1935)の2条の「ユダヤ人とドイツ血統の国民との婚外性交渉の罪」(Außerehelicher Verkehr zwischen Juden und Staatgehörgigen deutschen oder artverwandten Blutes)で裁判にかけられた。その法定刑は、同法5条2項によれば1日以上5年以下の軽懲役若しくは1年以上15年以下の重懲役(mit Gefängnis oder mit Zuchthaus)であったにもかかわらず、カッツェンベルガーに言い渡されたのは、死刑であった。青井は、このような法律から逸脱した量刑判断こそが、ナチス時代の裁判官が、法律に拘束されず、ナチ的世界観やいわゆる「健全な民族感情」によって法律から自由にされていたことの証左であるとして、次のように糾弾する。

 「法律は法律だ」という実証主義的態度からすると、本件の場合、重懲役または軽懲役の刑罰しか可能ではないはずである。ところが、この判決は、さまざまな術策を弄し、最終的には「民族の敵対者に関する法律」が要請している「健全な民族感情」という判断基準によって死刑の判決を下している。こうした適用の仕方は、いわゆる実証主義的態度とは似ても似つかぬものである。……「ドイツ人の血と名誉を保護するための法律」(1935年)のような人種差別のための悪法であっても、明確な文言で制定された法律自体は、もしそれが本当に実証主義的に適用されていたのであれば、皮肉なことにユダヤ人を保護する法律ともなりえたかもしれない。というのも、その後の帝国裁判所刑事部による、この法律の実際の適用例では、「ユダヤ人」(Juden)の概念や「人種恥辱」(Blutschande)に関する構成要件が自由かつ無制限に拡張されて適用されており(それは「実証主義的法適用」とはほど遠い)、こうした法運用の実態から深刻な問題が生じている。もし本当にその法律の杓子定規の適用がなされ、さらに重懲役または軽懲役の刑罰が本当に規則通りに執行されていたのであれば、当時のユダヤ人にとって監獄はまだしも安全な砦でありえたはずである(青井秀夫「実証主義伝説の謎 ―― 戦後法哲学の現実と課題」岡本勝・小田中●樹・川端博・田中輝和『阿部純二先生古稀祝賀論文集 刑事法学の現代的課題』〔2004年〕8頁以下。なお、青井秀夫『法理学概説』〔2007年〕290頁以下、足立英彦「『ラートブルフ・テーゼ』(実証主義は法律家を無防備にする)について」青井秀夫・陶久利彦『ドイツ法理論との対話』(2008年)299頁以下参照)。

 青井は、ナチ時代の裁判官が、血統保護法というナチ固有の法律をも実証主義的に適用するを拒み、「さまざまな術策」を弄してユダヤ人を死刑台に追いやった法実務を「制定法を超えた不法実務」と呼び、「法実証主義伝説」がこの点を見落としてきたために、ナチ時代の法的思考様式と戦後の「再生自然法」における思考様式との間にある「連続性」が隠蔽されてしまったと指摘する。

4.このような青井の指摘は、ダイゼロートが本稿の第3章の「ナチ国家における法理論」において展開している内容と符合し、それを具体的に例証するものである。ナチ時代の法律家は、決して実証主義によって拘束され、法解釈と法適用の自動装置のように振舞ったのではなかった。カッツェンベルガーを死刑に処し、いわばホロコーストを司法の場においても実践するために、法律に抗してでも「さまざまな術策」を弄したのである。それが事実であるならば、この「さまざまな術策」の具体的な内容が検討されなければならない。ここでその内容を詳細に論ずることはできないが、差し当たり次のことを指摘しておきたい。それは、青井が「いわゆる実証主義的態度とは似ても似つかぬものである」と指弾した死刑適用の方法、すなわちカッツェンベルガーに死刑を言い渡すために用いられた「民族の敵対者に対する命令」(Verordnung gegen Volksschädlinge vom 5. September 1939)の「健全な民族感情」という判断基準の適用方法に関連している。
 血統保護法は、ユダヤ人とドイツ人の婚外性交渉を禁止し、それに重懲役または軽懲役を科すことを定めている(同法2条、5条2項)。従って、カッツェンベルガーがドイツ人女性と婚外性交渉を行なったことを理由に、彼に死刑を科すことはできない。この規定を実証的に解釈・適用するならば、血統保護法の立法意思を実現できるが、ナチのホロコースト政策の要請に応えることはできない。この要請に応えるためには、この法の実証的適用を拒み、法定刑にない「死刑」を科さなけれればならない。この二つの法解釈と適用は相容れないが、青井は、民族敵対者令が要請している「健全な民族感情」という判断基準を適用することによって、血統保護法にはない死刑という刑罰を科すこと、つまり法律を超える不法実務が可能になったと述べている。問題は、この不法実務を支えた論理である。血統保護法の婚外性交渉の罪にあたる行為に対して、それとは異なる法である民族敵対者令の「健全な民族感情」という判断基準が、いかなる論理に基づいて適用されたのか。青井が指摘した「さまざまな術策」が、この判断基準の適用論理にほかならないが、その論理の内容はどのようなものであるのか。青井の批判は、この点について明快な分析を与えているとはいえない。血統保護法の罪にあたる行為に対して、それとは異なる法の判断基準を適用して、法定刑にはない刑を言い渡したのであれば、このような法適用は、「実証主義的態度とは似ても似つかぬものである」。しかし、カッツェンベルガー事件の裁判官は、そのような法適用を行なったのではない。裁判官は、カッツェンベルガーに血統保護法5条2項に定められていない死刑を科したのではなく、民族敵対者令2条および4条に定められた死刑を科したのである。
 民族敵対者令2条は、「空襲の危険に備えるために採られた措置を利用して、身体、生命または財産に対する重罪または軽罪を行なった者は、15年以下の重懲役または無期懲役、特別に重大な場合には死刑に処せられる」と定め、3条は、「放火もしくは他の公共に危険を及ぼす重罪を行ない、それによってドイツ民族の防衛力を毀損した者は、死刑に処せられる」と定め、そして4条は、「戦争状態によって作り出された通常ではない諸関係を利用して、他の重罪を故意に行なった者は、その罪の特別の非難可能性ゆえに健全な民族感情が求める場合には、通常の刑の枠組を超えて、15年以下の禁錮、無期禁錮または死刑に処せられる」と定めている。血統保護法の婚外性交渉の罪は、放火や他の公共危険犯ではないので、カッツェンベルガーの行為に3条を適用することはできない。しかし、婚外性交渉の罪が、「空襲の危険に備えるために採られた措置を利用して」行なわれ、それが被害者の「身体」に対する重罪にあたり、かつ「特別に重大な場合」であれば、2条に定められた死刑を科すことができる。また、婚外性交渉の罪が、4条の「他の罪」に該当し、それが「戦争状態によって作り出された通常ではない諸関係を利用して」行なわれ、かつ「その罪の特別の非難可能性ゆえに健全な民族感情」が死刑を求める場合には、4条に定められた死刑を科すことができる。この点について、裁判官は判決で次のように述べている(Staff, a.a.O., S. 204 ff.)。

 認定された事実の法的評価は、被告人カッツェンベルガーが人種汚辱的な行動を行なった際、戦争によって作り出された通常ではない諸関係を一般的に利用したことを示している。男性は都市と地方のどこにもいなかった。彼らは、兵役に従事したり、また国防軍のその他の目的のために徴用されていたため、地元で仕事をしたり、秩序維持に専念することを妨げられていた。被告人は、この一般的な関係、すなわち戦争によって変更された状態を利用したのである。被告人は、彼が1940年の春まで、ザイラーの住居へ訪問し続けていたとき、何らかの徹底した統制措置がとられるならば、彼の陰謀が見破られないであるとか、あるいは見破られるのが困難になるだろうということを計算に入れていた。ザイラーの夫が兵役に徴用されたことによって変更された家庭の状態は、彼の行動を容易にした。/この視点に立つならば、カッツェンベルガーの態度は特別に非難に値する。それゆえ、彼は人種汚辱罪(婚外性交渉の罪を指す ―― 引用者)と観念的競合の関係に立つ民族敵対者令4条の罪につき責任があるというべきである。……被告人カッツェンベルガーは、1939年の戦争の勃発以降、灯火管制の暗闇が生じた後にザイラーの住居に複数回にわたって立ち入った。被告人カッツェンベルガーは、空襲から防御するために採られた措置によって保護されている時に、その暗闇を利用して行動した。平時には煌々と照らす街路照明がシュッピットラートーアグラーベンの街路にあるが、それがなかったことが被告人に一層大きな安心感を与えた。彼は、この状態の意味を完全に認識しながら、その都度その状態を利用した。彼は、実行に際して、街路を歩く人の監視をこのようにして遮ったのである。……従って、被告人は、民族敵対者令2条に反する行為を行なったことになる。……当裁判所は、彼のいかがわしさに対する唯一のあり得る回答として、民族敵対者令4条を適用する場合に定められた最も重い刑罰、すなわち死刑を彼に言い渡すことが必要であると考える。彼の人格と実行行為の継続反復性を考慮に入れることによって、彼の行為が特に重大な場合にあたるならば、その限りにおいて、被告人に対しては、人種汚辱罪との観念的競合の関係に立つ民族敵対者令2条によっても有罪を言い渡さなければならない。従って、以上から、被告人に言い渡されるべきは、法律がそのような事案について定めた死刑以外にはない(傍点は引用者)。

 カッツェンベルガー事件の裁判官は、カッツェンベルガーに対して死刑を言い渡した。それは、民族敵対者令2条および4条に定められた刑であった。それは、青井の指摘するように「不法実務」であろう。しかし、「法律を超える」ものではない。死刑判決が法律に基づくものである限り、それは法実証主義的な法適用であったということができる。ただし、それは裁判官が「悪法もまた法律なり」の形式論理によって抵抗力を奪い去られ、その重圧におされて、ナチの不法メカニズムに組み込まれていったからではない。ダイゼロートの言葉を借りて言うならば、「価値関係的な目的」のために、そして形式的な法規範に内在しない「実質的」な政治目的のために、法律家が法律を用いて自己を道具化し、不法のメカニズムを機動させる歯車になることを厭わなかったからである。ラディカルに表現するならば、近代哲学を基礎づけている目的合理主義の思想、事柄の妥当性と有効性を手段・目的関係において論ずる科学的立場、その法学方法論への応用としての目的論的概念構成方法が、法律を目的実現のための道具として活用することを可能にしたからである。近代合理主義は、「目的」を内容的に制限する原理を持っていない。そのために、特定の目的が政治や社会において設定されてしまえば、総じて法律家は、ある時には「法律」を超えて(反・法律実証主義)、またある時には「法」を指針にして(法実証主義)、与えられた目的を実現するために奉仕する。それゆえに、ファシズムとホロコーストを目的とするナチの恣意的で犯罪的な法律に対して抵抗できなかったのである。問題なのは、カッツェンベルガー事件において、「死刑判決を導くために、曖昧な条項を人種汚辱罪に結びつけたのは、思い切った法的構成である」と司法省事務次官(当時)ローラント・フライスラー(Roland Freisler)をして驚嘆させた法解釈技法なのである。磨かれた職人技にも似た目的合理的な法学的概念構成方法こそが批判されねばならない(Vgl. Robert M.W.Kempner. Ankläger einer Epoche, 1986, S. 283; Klaus Kastner, "Der Dolch der Mörders war unter der Robe des Juristen verborgen", der Nürnberger Juristenprozess des Jahres 1947, Journal der Juristischen Zeitgeschichte, 2007, S. 85 ff.〔クラウス・カストナー(本田稔訳)「謀殺者の短剣は法律家の法服の下に隠されていた――1947年ニュルンベルク法律家裁判」立命館法学325号(2009年)72頁以下〕、拙稿「ナチスの法律家とその過去の克服 ―― 1947年ニュルンベルク法律家裁判の意義」立命館法学327・328号〔2010年〕795頁以下参照)。

5.本稿は、2012年夏から1年間、訳者がフランクフルト・ゲーテ大学法学部で研究していたときに収集した資料・文献のうちで最も興味深く読んだものの一つである。法と司法におけるナチズムの過去の問題は、フランクフルト大学の法学者によって盛んに研究されてきた。今もそうである。マックス・プランク欧州憲法史研究所やフリッツ・バウアー研究所などが学内外で研究会活動を活発に行なっている。帰国後も、元客員研究員宛に研究会開催のメールが送られてくる。フランクフルトという特殊な知的環境において、ナチズムの過去が現在形で語られるのは、ある意味で当然なのかもしれない。しかし、ドイツ司法の最高位にある裁判官が、これと同じ議論を続け、しかも裁判官研修の場で問題提起していることに、またそのようなことを許容している政治的・法文化的な寛容さに驚きを禁じえない。ダイゼロートは、ライプツィヒの連邦行政裁判所の裁判官執務室でこの論文を執筆したのであろう。そこは、オランダの共産主義青年に対して死刑を執行した帝国裁判所の執務室であるだけに、80年前の過去に向き合うのに適した場所であったに違いない。

6.ディーター・ダイゼロート判事からは、2015年6月12日付けの電子メールにおいて、本稿の邦訳の許可をいただくことができました。ここに記して感謝します。