Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

ミヒャエル・フェルスター『不法に仕えた法律家』の解説

2021-10-09 | 旅行
ミヒャエル・フェルスター『不法に仕えた法律家』の解説
(1)フランツ・シュレーゲルベルガーは、1876年10月23日、ルドルフ・シュレーゲルベルガーとルイーゼ・シュレーゲルベルガーの次男として東プロイセンのケーニヒスベルクに生まれた。父親のルドルフは、ヨーゼフ・リッテン社(後の北ドイツ信用金庫)を営むと同時に木材加工業をも手がける気鋭の企業家であった。兄が父親の仕事を引き継いだため、フランツは最初は木材加工業を志したが、地元のアルベルトゥス大学の法学部に入学し、民法や商法などを学び、法学教授になることを密かに夢見た。
 1899年12月、23歳のときに法学博士の学位を取得した。論題は、州議会議員の評決態度を理由とした懲戒処分の可否に関する問題であった。評価は「良」であった。個人的・社会的な体験に関する疑問や義憤を出発点にして、それを批判的・分析的に考察して理論化し、法制度の改正へと結びつける。そのような作業を通じて、社会に貢献し、注目を浴び、名声を得る。それが彼の目的であり、喜びであった。
 彼は、小柄で、外見からも分かるように身体的なハンディキャップを負っていた。虚弱体質ゆえに教育課程の体育実技を免除された。同じ理由から「長期間の戦闘に不適格」と判断され、兵役を免除された。当時の若者にとって当然であった軍役への従事は、この若者には無縁であった。彼には女性を背後から抱き込む筋肉質な体格はなかった。女性が身を委ねたくなるような分厚い胸板もなかった。人と接することもなく、内に引き籠もりがちであった。青春時代の貴重な時間は、学位論文を執筆するために、大学の図書館で、あるいは自宅の狭い自室で孤独のうちに費やされた。
(2)1901年12月、フランツ・シュレーゲルベルガーは、25歳のときに第二次国家試験に合格し、ケーニヒスベルク区裁判所判事に就任した。成績は「良」であった。
 1904年、「留置権」に関する最初の学術論文を公表した。帝政ドイツの民法の「留置権」は、ローマ法とゲルマン法の理論の影響を受けていた。彼はローマ法学派の立場から留置権を理論的・解釈論的に構成することに務めた。それは、帝政ドイツ以来の自由主義法理論の伝統の流れをくむものであったが、彼自身は保守主義的な心情を備え、ゲルマン法のドイツ・ロマン主義を拒否していなかった。「私」が落ち着ける情念の世界は、「法」が成立する理念の世界とは別のところにあった。
 シュレーゲルベルガーは、最初の学術論文を公表した年にロシアの旧国境に近い郡庁所在地のリュック州裁判所判事に就任した。当時、リュックの住民は劣悪な社会的・経済的状況にあったため、そこから西部の地域に集団で移住せざるを得なかった。見知らぬ地域で農業労働に従事する人々に新たな公法・民法上の問題が生じた。それに取り組むのは、法学研究者の責務であった。彼は、法実務を通じて得られた課題に対して学問的に取り組む素養を身に着けていた。広範にわたる調査と研究の上に、実証的な裏付けを踏まえて、1907年、『プロイセンにおける農業労働者法』を編集・公刊した。その後、1908年にベルリン州裁判所に移籍し、1909年に高等裁判所に配属された。民事法、商事法、特許法などの分野を担当し、『注釈裁判所構成法』などの詳細な解説書を執筆した。1914年以降の情勢の変化を受けて、戦時法制に関する解説書を執筆するなどした。彼は、実務界から出される複雑な問題に法的指針を与えるために、実証研究の十分な能力を備えていることを示した。
(3)1918年4月、42歳のシュレーゲルベルガーは、帝国司法庁に配属され、商法、経済法の立法作業に従事した。また、労働者保護や国際関係などの法律問題にも関わった。第1次世界大戦における敗戦、帝政から共和政への移行、経済制度の変化、領土問題の解決と講和条約の締結などは、政治制度・法制度に新たな課題と問題を提起した。彼はこれらの問題に迅速かつ的確に対応した。その功績が認められ、1922年にはベルリン大学の客員教授として招聘され、経済法の講義を担当した。彼の密かな夢が実現する時代が始まった。
 1920年代は戦後のドイツ社会にとって苦難の時代であった。大インフレーションがそれである。市民階層と賃金労働者が銀行に預けていた勤勉の証しは、紙くず同然になり、それに反して部屋の隅に放置されたビールの空き瓶には高価な値が付いた。雀の涙程度の年金しか受給できない高齢者は生活の基盤を失い、農民は彼らに対して農作物を売り渋った。債務者はここぞとばかり「紙くず」で弁済しようとしたため、債権者の悲鳴は収まらなかった。革命を成功裏に収めた新生ドイツ政府は、1914年制定の通貨法に固執した。革命前の法律であっても、法律として効力を持つ以上、それは革命後も法律として妥当する。このような法律実証主義の論理によって、インフレ前の金マルクもインフレ後のレンテンマルクも同じマルクであるため、「同価値」であるとされた。時代が革命的に激変し始めているにもかかわらず、政府は無為無策であった。これに対して帝国裁判所は、民法242条の信義則の原理に基づいて、金マルクとレンテンマルクは同価値ではなく、金マルクの価額はレンテンマルクによって増額評価されて計算されるべきであると判断した。革命前の法律がなおも法律であり続けるのは、それが「正法」である場合に限られる。その法律の適用に「正」が望めないならば、その法律は法たりえない。裁判所の判断はシュタムラー流の「正法の理論」の後方支援を受けた。それは、法理念による現行法の改廃へと進み、1925年の増額評価法の制定へと結実した。これによって大インフレーションに伴う社会的混乱は収束した。ヒンデンブルク帝国大統領は、シュレーゲルベルガーの功績を讃え、彼に感謝状を贈った。
 時代の変化を身体で感じ、風の吹く方向を見極め、立法作業を通じてその風の流れに乗るこを知った49歳の司法官僚は、公の前に姿を現すことをためらわなくなった。スペイン、ハンガリー、ポーランド、北欧や南米の諸国を訪問し、多くの法律家と交流した。諸外国の同僚は、彼の講演を聞き入った。彼らにとって彼の言葉はドイツの国家と法そのものであった。さらに、1926年に50歳の誕生日を迎えたとき、故郷の母校アルベルトゥス大学から名誉博士号が授与された。司法行政において重要な役割を担う司法官僚は2つの博士号を持ち、首都の大学で客員教授として教鞭をとる存在になっていた。彼を内に引き籠もらせてきたコンプレックスは、ここに完全に克服された。彼の能力を高く評価する司法行政の世界は、彼が落ち着ける居場所となった。
(4)1931年、ギュルトナーが帝国司法大臣に就任し、シュレーゲルベルガーは彼の下で事務次官となった。55歳の年であった。それは1933年1月末以降も変わらなかった。しかし、2月27日に発生した国会議事堂放火事件から状況が変化し始めた。翌日には暴動目的放火罪の法定刑を無期懲役から死刑に引き上げる帝国大統領令が出された。社会が混乱する中で3月5日に総選挙が実施され、7日に閣議が開かれた。病床に伏していた司法大臣に代わって事務次官が出席した。
 内務大臣フリックは、閣議において帝国大統領令を放火の被疑者に遡及適用することを求めた。ヒトラーも同様にドイツ国家が共産主義者の陰謀によって生死をさまよっている時に、死に絶えた法が生の胎動を告げる時代において妥当し続けることなどありえないと、フリックを援護した。この要求が法学的にいかに初歩的な誤謬を犯しているかについて、シュレーゲルベルガーは客員教授の口調で諭した。刑罰法規の遡及適用を容認しているのは、ロシアや中国のような野蛮な国だけである。ヨーロッパには、若干の国を例外としてそのような国はない。事務次官は、13歳年下の首相が煽動する反自由主義と反法治主義をこのように一蹴した。ドイツの自由主義刑法学の伝統は今なお健在であるかに見えた。
 3月21日、86歳を迎えた帝国大統領は、フルードリヒ大王の墓前において手を差し出して44歳の若き首相と握手を交わした。これによってヒンデンブルクが国家社会主義のヒトラーに帝国首相として信頼を寄せていることが明らかにされた。それは宣伝相ゲッペルスが演出した「国民的高揚の日」であった。シュレーゲルベルガーは、2週間前の閣議においてヒトラーにとった態度を後悔し始めた。新生ドイツの国家と法に忠誠を誓っていないのではと疑われることを恐れたようである。恐れは地位を揺るがす危機を意味した。彼は忠誠心を誇示するために、この国民の高揚に便乗した。高揚した国民が国家社会主義の政治指導を受け入れたように、その高揚に乗じた事務次官も国家社会主義の法思想を受け入れ、それに従った。地位を揺るがす危機は、それを強固なものに変える好機となった。
(5)ただし、シュレーゲルベルガーがようやく手に入れた地位を維持するのは容易ではなかった。彼はいわゆる「3月に咲いたスミレ」でさえなかった。彼が党籍を得たのは、あれから5年後の1938年、ようやく62歳になってからであった。ハンス・フランクのように1923年に若干23歳で入党し、1928年に国家社会主義法曹同盟の設立に参加し(1936年以降は国家社会主義法擁護同盟に改組)1933年にバイエルン司法大臣に就任した国家社会主義の闘士には敵わなかった。また、ハンス・ケルルのように1923年に36歳で入党し、1933年にプロイセンの司法大臣を務めた古参の党員の足下にも及ばなかった。あるいは、オットー・ティーラックのように1932年に43歳で入党し、1933年にザクセン司法大臣に、1935年に帝国裁判所副長官に、そして1936年に民族裁判所長官に就任したエリート法曹にも及ばなかった。彼には国家社会主義の武勇伝はなかった。街頭において大闘争を指導した経験も、親衛隊のデモを率いたこともなかった。ましてや、群衆を前に煽動的な演説を行ったこともなかった。総統との人脈も接点もない一介の官僚法曹にすぎなかった。国家社会主義の国民革命の戦利品として役職や地位を要求できる立場にはなかった。
 しかし、そのようなシュレーゲルベルガーの立場の弱さは、彼の強みでもあった。戦利品として司法大臣の職を求める古参の闘士たちの猟官運動は、ヒトラーの法律家嫌いをいっそう根深くさせた。そのため、ギュルトナーの死後、帝国司法大臣の任命は先送りされ、差し当たり空白を埋めるためにシュレーゲルベルガーが司法大臣の代行として起用されることになった。法学博士の学位を取得し、母校から名誉博士号を授与され、ベルリン大学客員教授として教壇に立ってきた帝国司法省の事務次官は、ここにドイツの司法機関の頂点に立った。1935年の司法の帝国化によって帝国司法庁は司法省として改組され、ドイツ司法の中央集権的管理・統制の中心的機関、国家社会主義の司法政策を遂行する中枢機構となった。その統轄責任者の地位に就いたシュレーゲルベルガーは、ヒトラーの要請に言われるがままに従った。裁判官の独立性を否定して、裁判機構を行政のメカニズムの歯車に変えた。裁判所の司法判断に行政が介入し、それを統制・支配することを受け入れた。アーリア民族の優生の裏返しとして、精神障害者に対する「安楽死作戦」の立案・計画・遂行を強力に指導した。ユダヤ人およびポーランド人に対する特別刑法を制定して、ホロコーストの法システムの確立のために能力を発揮した。「夜と霧」の命令によって被占領地域のレジスタンス活動家を司法テロの恐怖に陥れた。これらは全て帝国司法省の官僚法曹として行われたものであった。国家の司法政策に奉仕することは官僚法曹の職務であり、それを司法機関の中心において担えたことは法曹として望外の喜びであった。その結果として法律家として最高位の地位を得た。戦後のニュルンベルク法律家裁判において彼が払った代償が厳しいものでなかったことは余り知られていない。
(6)法律家としてのシュレーゲルベルガーの履歴は、世紀の転換期に現れた法学方法論の変化と発展の推移に符合している。
 法学博士の学位を取得した後、1901年に25歳の若さでケーニヒスベルクの区裁判所の判事に就任し、3年後の1904年に「留置権」に関する初の学術論文を公表したのを皮切りに、1907年には『プロイセンにおける農業労働者法』を編集・公刊した。その才能は高く評価され、1908年にベルリン州裁判所へ、翌年の1909年にはベルリン高等裁判所に配属され、民事法、商事法、特許法などの法領域の課題の研究を進めた。ドイツの経済社会の歴史と構造を実証的に分析し、そのメカニズムの効果的な機動のために欠陥や欠損があれば是正する。法は合理的な目的を実現する合目的的な手段である。シュレーゲルベルガーにとって、ドイツの経済社会は、その構造を分析し、諸因子へと個別化し、それを相互に関連づけて総合する外的対象であり、法制度はその機能性を実効たらしめる装置として位置づけられた。法学は、さしずめ社会経済の病理の解剖学であり、立法と解釈・適用はその臨床医学のような位置づけであった。
 シュレーゲルベルガーが1918年に帝国司法庁に配属された直後、ドイツは戦争から平和へ、帝政から共和政へ移行し、ドイツの憲政は激変した。法体制も法体系も変転の渦へと投げ込まれた。新たな問題が民事法と経済法の法領域に対して投げかけられた。その影響は刑事立法にも及んだ。第1次世界大戦後の大インフレーションは、民事法の領域においては増額評価法という形で反映したが、刑事法の領域では罰金刑の最高額に限界を設けない刑事立法という形で反映した(1922年6月21日の共和国保護法9条は、内乱罪若しくは1条ないし6条に反する重罪に対する有罪判決と併せて罰金刑を科すことができる。罰金刑の最高額は、制限されない(die Hohe der Geldstrafe ist nicht beschränkt.)と定めた〔RGBl.Ⅰ, S. 585〕)。裁判官による自由な法発見や量刑裁量の拡大が自由法運動の具体的な成果であるのか、それとも形式的な法律実証主義に対する実質的な価値的・理念的批判の産物であるのか。それはともかく、政変や不況が法定安定性の形骸化の要因になったことに間違いはない。「貨幣価値の下落という渦巻にあって、秩序、所有権、合法性といったあらゆる従来の価値は瓦解した」というアルトゥール・ローゼンベルクの指摘は、ワイマール共和国の建国当初の法状態の核心的部分を端的に言い当てている。シュレーゲルベルガーが1925年に増額評価法を立案したのは、法思想における主流が自然主義から価値哲学への移行期に重なっている。
 価値哲学とは、存在と当為の明確な峻別の上に成り立つ批判的認識論である。ワイマールの政変によって、戦勝国の政治制度と文化・イデオロギーがドイツに流入した。皇帝は亡命し、帝国の権威は失墜し、伝統的な制度と秩序が崩壊した。それに代えて到来したのは、自由と民主と平等の時代であった。保守されてきた民族共同体は解体され、進歩的な市民社会が形成され始めた。ドイツの政治的現実は、流入した政治的理想からいかに離れているかを測定する定点でしかなく、政治的理想がどれほど輝かしいかを際立たせる暗幕の役割を担うだけであった。
 民族不在の国家と法は、両親が亡くなった後の故郷の家が朽ち果てるように荒廃した。その空白を埋めたのが、議会制民主主義であった。議会への進出を目論む政党は、右派であれ左派であれ、またドイツの保守主義であれ、国際連盟主導の国際協調主義であれ、共産主義インターナショナリズムであれ、仮装の民意を取り込むことに躍起になった。政党政治は、種々雑多なイデオロギー片の噛み合わないジグソーパズルのごとく、民意をめぐって離合集散と合従連衡を繰り返した。議会も政府も同じであった。国家試験をスルーした元学生活動家が時流に乗って政治家として議会に君臨し始めた。彼らは学位と法曹資格を持つ行政官僚と司法官僚に対して自身を国権の最高機関と名乗った。
 伝統豊かなドイツの学術文化は退けられた。支配的な啓蒙と科学が野蛮な反知性主義であることは透けて見えていた。人文主義的な知識の体系の否定の上に成り立った実証主義科学では、現在の定点観測さえままならなかった。近代的知性が吹聴する分析と総合、客観性と法則性、合理性と合目的性によって、近代社会の建築図面を書くことができても、ドイツの風土の上に構築することはできなかった。敗戦と革命によって失われたドイツ民族の精神は、肉体の周辺を彷徨う霊魂のように、再び宿るべき国家を探し求めた。民族の絶対的理念を羅針盤とした国民運動が始まりつつあった。「ドイツを取り戻す」。世界に冠たるドイツ民族の復興の時代が予感された。存在と当為、事実と価値、現実と理念、主観と客観の相対主義・二元的分裂主義の時代は終わり、絶対主義・一元的統一主義の時代が始まった。シュレーゲルベルガーは、増額評価法の制定に関与した時期にすでにそれを感じ取っていたのではないか。価値哲学は廃れ、時代に相応しい法思想の訪れを待っていたのではないか。そのような時代に興ったのが、法思想におけるヘーゲル・ルネッサンスではないか。
(7)シュレーゲルベルガーの理論的態度の変遷と法学方法論の推移の関係はあくまでも仮説でしかない。法理論家としてのシュレーゲルベルガーに関しては、ニュルンベルク法律家裁判の判決を受けて書かれたグスタフ・ラートブルフの人物評価がある(「ライヒ司法省の名声と終焉」)。ラートブルフは、シュレーゲルベルガーを「卓越した法律家」、「著名な民法学者」、「刑法上の問題にうとかった」帝国司法大臣代行であったと評価したが、その法思想を掘り下げることはなかった。ラートブルフは、1941年1月から42年8月までの大臣代行の時代は、「省にとっても彼自身にとっても不運な時代であった」と嘆いた。司法大臣の職をめぐって急進的な党員のフランク、ティーラック、フライスラーが争い、またゲシュタポのヒムラーが警察機関によって省全体を併合しようとしていたとき、シュレーゲルベルガーの司法政策は、「警察の侵犯から司法の国境を防衛すること、すなわち、裁判官の独立を防衛すること」に向けられていたと肯定的に評価しさえした。シュレーゲルベルガーの退任後、「最高の司法官庁がひどく堕落したにもかかわらず、最後の焔は、最も困難な時代にも、われわれの司法において、決して完全には消えることはなかった」と述べて称賛しさえした。1人の司法官僚の長い人生を一言で言い表すことは容易ではなく、ラートブルフのように評価しうる一面もあったのかもしれない。
 それでも、なおも必要であると思われるのは、帝政時代に裁判官・司法官僚として頭角を現し、その後の共和政の時代に経済再建の立法作業を推進し、独裁政においてヒトラーとナチ党の安楽死と民族排外の司法政策を指導した1人の法律家の態度の変遷と足跡を政治過程に対応させて説明することである。その法思想の変遷とその契機を明らかにしなければ、法律家としての評価を明らかにすることはできないであろう。自然主義・実証主義の技術的法思想から新カント主義に依拠した法学的価値哲学を経て、新ヘーゲル主義法学へと移行した現代ドイツの法思想は、いかなる理論的・実践的な契機として展開したのか。第2次世界大戦の終結後、それは総括されたのか。いかに総括されたのか。シュレーゲルベルガーのような法律家が登場する思想的土壌はなくなったのか。ニュルンベルクの法律家裁判で問われなかった法思想上の問題を解く鍵を与えてくれるのは、法律家シュレーゲルベルガーだけである。彼からまだ多くのことを学ぶことができる。


(8)2003年4月、立命館大学法学部に着任後、「ニューズレター」(2003年8月)にシュレーゲルベルガーについて研究する予定であると書いた。あれから18年が経ち、ようやく始まった。その時すでにミヒャエル・フェルスター『不法に仕えた法律家』を読み始めていたが、シュレーゲルベルガーの法律家としての評価が定まらなかった。法律の形をしたナチの不法によって抵抗力を奪い取られた悲劇の法曹(ラートブルフ)とは思えなかったからである。政治や社会に翻弄されたのは事実であるが、それに抗することができなかったのか、それとも時流に乗ったのか。判断しかねた。心理学者のミッチャーリッヒは、戦後のドイツ人は「悲しむ能力を喪失した」と分析したが、法律の解釈・適用を職責とする法律家には「悲しむ能力」はないのか。今も分からない。ハイコ・マース編集の『ナチの不法に抗した裁判官と検察官』(Heiko Maas [Hrsg.], Furchtlose Juristen - Richter und Staatsanwälte gegen das NS-Unrecht, 2017)によると、シュレーゲルベルガーのような法律家ばかりではなかったようである。
 法律家の評伝を読み通すことは歴史家の趣味でしかなく、法解釈学には何の意味も持たないとして一蹴されがちである。しかし、映画の脚本のような筆致で書かれた本書は、個人的に非常に興味深く、読み応えがあり、多くのことを知ることができた。邦訳を快く許可していただいた著者のミヒャエル・フェルスター氏にはあらためて感謝を申し上げたい。