Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

記事紹介:『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』(京都民報2017年8月27日)

2017-08-31 | 旅行
『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』
 ドイツで大反響 今月日本で出版 翻訳者・本田稔(立命館大学法学部教授)に聞く

 第2次世界大戦中におけるユダヤ人大量虐殺(=ホロコースト)で指導的役割を果たしたアドルフ・アイヒマンを追い詰める(イスラエルで裁かれ死刑)とともに、アイシュビッツ強制収容所でのホロコーストの首謀者らをドイツの法廷で裁いた検事長フリッツ・バウアー(1903年~68年)。彼の業績・生涯を初めて描いた『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』(ローネン・シュタインケ著)の日本語訳(アルファベータブックス)が今月出版されました。翻訳者の本田稔立命館大学法学部教授(刑法)に出版の意義について聞きました。

 フリッツ・バウアーは、ドイツのシュトゥットガルトのユダヤ系の商人の家庭に生まれました。10代で社会民主党に入党。20代前半で法学博士号を取得し、史上最年少の区裁判所判事に就任しました。

 33年1月にナチが政権を掌握した直後にゲシュタポに身柄拘束され、ホイベルク強制収容所に8カ月収容された後、釈放されますが、36年にデンマークへの亡命を余儀なくされます。43年にはドイツ軍によるドイツ系ユダヤ人の強制送還から逃れるため、スウェーデンに亡命。49年にドイツに帰国し、50年にブラウンシュバイク、59年にフランクフルトの検察官として司法界で活躍します。

 57年にアイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているとのアルゼンチン在住ユダヤ人からの通報を受け、調査した情報をイスラエル諜報特務庁(モサド)に提供。アイヒマンのイスラエル連行(60年)、同国での裁判(61年)実現に力を尽しました。

 また、63年12月から65年8月まで行われた「アウシュビッツ裁判」では、200人を超えるアウシュビッツ強制収容所の生存者の証言をもとに、ホロコーストの全貌が明らかにしました。強制収容所の設置目的がユダヤ人の大量殺人であったこと、看守などの関係者はこの目的を熟知していたこと、ドイツ国民が分業化された工場の流れ作業のように各自が分担された職務を遂行することでホロコーストが可能となったことをバウアーは立証しました。22人の被告人のうち、最終的に20人に判決が下されました。謀殺罪または謀殺罪の幇助などの理由で6人に終身刑、11人に有期刑、3人に無罪が言い渡されました。

 ところが、バウアーの死(68年)後、謀ったように司法省内のナチスの残党たちが反撃に出ます。一方で69年に完成予定の謀殺罪の時効を10年間延長しつつ、他方で謀殺罪の幇助者のうち謀殺者の身分を持たない者の罪を減軽する刑法改正をしたのです。その結果、その時効はすでに60年の時点で完成していたことになりました。裁判は打ち切られ、社会的関心も薄れ、やがてバウアーの存在も忘れられていきました。

 著者は、1983年にドイツに生まれたローネン・シュタインケ。大学では刑法と犯罪学で法学博士号を取得し、現在は南ドイツ新聞の記者です。法学部生のときに法律家フリッツ・バウアーの存在を知り、その人物について刑法担当講師に質問したところ、「知らない」という返事が返ってきたそうです。彼は、「アウシュビッツでの蛮行を裁判にかけた検察官の名前がなぜ知られていないのか」。この疑問を解き明かすために調査・研究しました。

 戦後ドイツでは元ナチス党員で戦争に加担した人々が50年代に原職に復帰し、司法省も例外ではなかったこと、周囲がナチスの残党という状況の中で、彼らによる妨害や脅迫、孤独と闘いながらバウアーがアイヒマンを追い詰め、アウシュビッツ裁判を進めたこと明らかにしました。

 さらにシュタインケは、バウアーが強制収容所に収容後、転向と引き換えに釈放されたこと、亡命先では当時のドイツでは違法とされた同性愛行為を行ったこと、薬や多量の喫煙、飲酒なしに精神の安定を保てなかったことなど、彼のプライベートにも光を当て、自らの苦悩と向き合いながら、巨悪とたたかったことを紹介。死後、ナチの残党の官僚が刑法「改正」を指揮したことを暴くなど、バウアーの精神の継承・発展を本書で訴えました。

 2013年に刊行されると、ドイツ社会は、著書のバウアー論に機敏に反応しました。
 大手紙はこぞって書評で取り上げ、映画界ではジュリオ・リッチャレッリ監督が『顔のないヒトラーたち』(14年)、ラース・クラウメ監督が『アイヒマンを追え』(15年)を製作。テレビでも「検事長の文書ファイル」(16年)が放映され、いずれも高い評価を得ました。

 司法界は14年、ヘイコ・マース連邦司法大臣からシュタインケに対して、連邦レベルの裁判官、検察官、司法官僚を前にしてフリッツ・バウアーについて講演を依頼。昨年、ドイツの司法省と学者、法律家が共同研究をし、『ローゼンブルグの文書ファイル』を出版し、刑法「改正」を仕組んだ司法官僚たちの実名と略歴を公表しました。

 バウアーは自国の人権、平和、民主主義を根付かせるために検察官の立場からナチの過去を見つめ、その克服に取り組みました。シュタインケはジャーナリストという職業を通じて、過去と向き合いました。彼らの実践は非常に教訓的です。

 日本でも戦争犯罪人や戦争遂行に協力した人物らは、日本の法廷で裁きを受けないまま、50年代に次々と要職に復帰しました。今や、首相をはじめ閣僚の多数が「先の戦争はアジア解放の聖戦だった」と主張する政治団体に所属し、戦争放棄をうたう憲法9条「改正」のシナリオを打ち出しています。

 侵略戦争は、絶対主義的天皇制の国家が治安維持法などにより人々の自由を圧殺して遂行されました。しかし、町内会にいたるまでの国家総動員体制は、国民の協力なくしては機能しなかったのも事実です。戦争体制に組み込まれた私たち国民もまた問われています。私たち一人ひとりが、この国の歴史と未来を考える責務を負っています。

**********
 ローネン・シュタインケ(本田稔訳)『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』(アルファベータブックス・2017年)の感想をお寄せください。また、誤植・誤訳に気づかれた方は、申し訳ありませんが、お知らせください。改訂の際に参考にさせていただきます。
 今後は、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判の後続裁判である安楽死裁判(1960年代後半)について研究する予定です。
 なお、冒頭写真は、『ローゼンブルクの文書ファイル』(左側)とフリッツ・バウアー研究所編『アウシュヴィッツ裁判判決記録』です。