Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

ナチス刑法における法実証主義支配の虚像と実像(2・完)

2016-03-13 | 旅行
 ナチス刑法における法実証主義支配の虚像と実像(2・完)

 一 敗戦後のドイツ法学の状況
 二 ラートブルフ・テーゼの歴史認識
 三 法実証主義支配の虚像と実像
 四 残された課題

 三 法実証主義支配の虚像と実像
1.このようなラートブルフ・テーゼの歴史認識を「実証主義伝説」と名付け、批判する議論がある。例えば、1980年代後半の「歴史家論争」23)の余波を受けて、法学者の間でも、ワイマールやナチスの時代の法学と司法において法実証主義が支配的であったという認識に対して疑問が投げかけられた24)。最近でも、ヒトラーの首相就任から80周年あるいは戦後70年という節目の年に、ラートブルフの法概念、そのテーゼの前提にある歴史認識を主題にした議論が行なわれている。法哲学者や法制史家だけでなく、裁判官、実務家からもラートブルフ・テーゼに対する厳しい批判が行なわれている。ドイツ連邦行政裁判所判事のディーター・ダイゼロート25)などは、ラートブルフ・テーゼを正面から批判の対象に上げ、厳しい批判を向けている。ダイゼロートなどが指摘するように、ラートブルフ・テーゼの前提が誤っているならば、ナチス時代の法律家が「法律の形をした不法」に対して抵抗できなかった理由を改めて検討しなければならないし、さらには「法律の形をした不法」へのオルターナティヴである「法律を超える法」の理論的妥当性も問題にしなければならない。

2.1985年5月8日、敗戦40周年に際して、(西)ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、ナチズムの過去について、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けなければな」らず、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいものなのです」と、罪深き過去に向き合い、それを心に刻むことをドイツ人に呼びかけた。世界の人々は、「彼が国家元首という立場にありながら、自国がかつて犯した罪責を一つ一つ具体的にあげて反省した、そのおどろくべき率直さ」26)に胸を打たれ、感動した。
 世界中で巻き起こった共感・感動とその後起こった「歴史家論争」は無縁ではなく、それに対する反動として起こったと言っても過言ではない。ヴァイツゼッカーによれば、ドイツ人が犯したのは「歴史のなかで戦いと暴力に巻き込まれるという罪」27)でしかなく、彼はそれを心に刻むことを呼びかけたに過ぎない。敗戦によってドイツ人もまたナチスの暴力支配から解放された「被害者」であるという認識をにじませていたにもかかわらず、そのような呼びかけでさえも、ドイツ人に重くのしかかった。自国の歴史の負の遺産を継承し、心に刻むことを、現代のドイツ人は負担であると感じたのではないか。戦後40年を経過しても、ドイツの歴史をナチスとの関連なしに論ずることは許されず、歴史がナチスの呪縛から解放されずにいると感じたのではないか。ドイツの歴史学は、あたかも模範的なドイツ公民を育成するための道徳のように位置づけられているのではないか。ロシア革命やスターリニズムの外的な影響とドイツにおけるナチスの台頭との間には因果的な連関があるのではないか。確かに、ナチス・ドイツのホロコーストは、その規模において歴史的に例を見ないものであるが、当時のソ連においても、またその後の世界においても大量虐殺は行なわれており、それらを規模、目的、方法などの点から比較検討することも許されるのではないか。かりにそうであるならば、ドイツ人だけが過去の不法な歴史を継承し、それと向き合うことを強いられるいわれはないのではないか。「歴史家論争」は、ドイツが戦後40年を経ても、敗戦国の過去を引きずり、それとの関係において自己認識を強いられることへの苛立ちと反発から始まったように思われる28)。
 このように「歴史家論争」は、ナチスの犯罪を他国の蛮行と比較して、多少なりとも相対化して、ナチスの過去の克服に終止符を打ち、失われたドイツ人の名誉と誇りを取り戻そうとする保守派とそれに抵抗するリベラル左派との歴史認識をめぐる争いであったといえる。その論争の余波は、法律学の領域において、心に刻み込むべきナチズムの過去とは何であったのという問題を再び検討の俎上に乗せた。法実証主義が不法に対する抵抗力を法律家から奪ったというのであれば、たとえ法律家がナチスの不法に抵抗しようとも、それは法実証主義の思想によって阻まれたに違いないということにもなる。もしそうであるならば、ラートブルフ・テーゼは、ナチス時代の法律家の「無力さ」を強調することによって、そのイメージをナチスの共犯者から「被害者」へと転換し、法律家層の責任を総体として免罪する作用を果たしたことになるのではないか。ナチスの不法に対する個別の責任を棚上げし、法学がナチスの過去と真摯に向き合う道を閉ざしてしまったのではないか。その原因を作ったのは、実はラートブルフ・テーゼだったのではないか。ワイマール時代の法学と司法を支配において支配的であったのは、本当に法実証主義なのか。ナチス時代の法律家は、ナチスの不法に対して無防備だったのか。ナチスの不法の反省から導かれるのは、法律の形をした不法を批判しうる法律を超える法なのか。このような問題が、理論、実務、立法の様々な領域において実証された。

3.例えば、1926年3月29日、ミュンスターで開催されたドイツ国法学会は、「帝国憲法109条の意味における法律の前での平等」をテーマに開催され、その基調報告をエリック・カウフマン(ボン大学)が行なった。カウフマンは、法律の前での平等を定めたワイマール憲法109条は立法者に対しても妥当するのか、憲法の核心部は立法とは異なる次元において成立しているのか、法律の合憲性に関する裁判官の審査権は憲法に規定されていないのか、という「裁判官の法令審査権」の問題について報告した29)。つまり、個人や団体の行為は、民法や刑法などの法令の審査対象にされるが、立法者の行為も平等に審査対象にされるのか。その立法も上位の法令、とりわけ憲法による審査の対象とされるのか。立法者にも個人と同じように「法律の前の平等」の規定が適用されるならば、立法(法令)もまた裁判官の審査対象にされる。これが「裁判官の法令審査権」の問題である。
 すでに述べたように、ラートブルフは、新カント主義と民主主義の立場から、法の理念における法的安定性の要素を重視し、共和制議会の立法を擁護して、「裁判官の法令審査権」を要求する保守的な法律家陣営に反対した。普通選挙と憲法の手続を通じて構成された議会の法令の適否を審査し、その改廃を決定できるのは議会だけである。裁判官には議会制定法の適否を審査する権利はない。たとえ法律に問題や限界があっても、また内容的に不正な法律であっても、法の理念としての法的安定性を重視しなければならない。カウフマンは、このような法実証主義の思想に対して、次のように述べた。

 私は、法学における実証主義が、今日では広く破綻したと評価されていること、私たちの国法学会が少なくともこの問題を問題として受け止めていること、そして法的問題の核心へ、実定的な国法の彼岸にあるものへと進んで、問題解明に真剣に取り組めることを喜ばしく思います。……実証主義は、その性質によれば、安定的な諸関係、または安定的であると評価された諸関係とそれによって与えられた静態性の気風を基盤にして成立するものです。戦争、革命、崩壊、そして平和条約によって、私たちは静態的な民族であることをやめたのです。法律の前の平等という原則によって提起された問題(裁判官の法令審査権の有無――引用者注)が、私たちにとって再び問題となりましたが、それもこのことと関係があるのでしょう30)。

 カウフマンは、法学において実証主義が成り立ちうる前提は、静態性の気風、すなわち社会の政治的・経済的・文化的な諸関係が安定し、少なくとも大きな変化に見舞われないと想定された諸関係が成り立っている場合に限られると述べた。第一次世界大戦における敗北、革命による帝政の崩壊、ヴェルサイユ条約の締結によって、その前提は破壊した。そうである以上、法学において実証主義が成立する基盤は、もはや失われたといわなければならない。ドイツ民族はもはや静態的な情況のなかにはなく、動態的な変化のなかにあり、それに対応し、またそれ応じて変化しなければならない。法制度もまた例外ではない。議会制民主主義、普通選挙によって代表者が選出され、相対的多数の党派が議会において与党となり、彼らの理論と政策が議会の意思を決定し、それが政府の意思となるが、政権与党の政治運営もまた変化のなかにあり、野党の批判にさらされ、その政治基盤は常に不安定である。いずれの党派も次の選挙によって与党にも、野党にもなる可能性があり、他の党派と連立して与党の地位を維持または獲得することもある。そのような政党の合従連衡によって議会や政府の意思が形成され、法律が制定されるが、そのような政党政治の不安定性の上に成立した法律には、帝政時代のような法としての権威はない。憲法や他の諸法との矛盾がない法律であると信頼することもできない。議会の立法行為が変転する政治・経済状況によって決定されるがゆえに、その合憲性・違憲性の判断は議会ではなく、司法に委ねられるべきである。従って、議会の立法行為もまた、法律の前においては、個人や法人と等しく平等な扱いを受けなければならない。法律の前での平等を定めたワイマール憲法109条は、立法者に対しても妥当しなければならない。憲法の核心部分は、立法と同じ次元において成立し、法律の合憲性に関する裁判官の審査権は、憲法に内在していると解釈しなければならない。
 裁判官の法令審査権を否定する実証主義の法思想は、このような批判にさらされたのである。

2.カウフマンの法実証主義批判の思想傾向は、彼のような法律家に限られたものではなく、裁判官にも見られた。第一次世界大戦におけるドイツの敗戦によって、未曾有のインフレーションが惹き起こされた。それに伴って、金銭債権の増額評価の可否の問題が発生した。当時の通貨法の支配的な学説によれば、通貨価値の変動の有無にかかわらず、名目額の給付によって債務の弁済は完了する、つまり弁済の有無は「マルクは等しくマルクである」(Mark gleich Mark)の原則に基づいて判断された。その原則によれば、第一次世界大戦前のマルクも、その後のマルクも、インフレーション前のマルクも、その後のマルクも、等しくマルクであり、通貨価値も同じということになる。これに従うならば、大戦前のマルク建て債務は、大戦後に通貨価値の暴落したマルクによっても弁済できることになってしまう。大インフレーションの結果、大戦直前の1914年のドル為替相場のマルク価値を1とした場合、その価値は、大戦後の1922年末には約1807分の1に、そして1923年11月20日には1兆分の1にまで下落し、このような通貨価値の大幅な下落にもかかわらず、名目額を給付することで債務の弁済が認められるならば、債権者が耐え難い不利益を被るのは明らかである。このような状況のもとで、債権者が第一次世界大戦前に設定した抵当権をその後の大インフレーションによる通貨価値に合わせて増額評価できるか否かが問題になった。これが増額評価問題である。
 帝国裁判所第五民事部はこの問題について、1923年11月28日、民法242条の「信義則規定」に基づいて、その権利を債権者に認めること判断を示した31)。このような判断は通貨法の原則に反するものであり、立法者が名目額による弁済によって生ずる耐え難い不利益を回避するための立法措置をとろうとしなかったため、それへの憂慮からなされたものであるが、社会情勢の変化は、このような司法判断を求めたのである。それが、自然法によるものであれ、また自由法運動に基づくものであれ、裁判官による法創造を肯定する反実証主義的な法思想に裏づけられていることは明らかである。
 同様の傾向は、刑事立法にも見られる。1922年6月12日の「共和国の保護に関する法律」(共和国保護法)がそれである32)。第一次世界大戦終結後に締結されたヴェルサイユ条約に基づいて、戦後処理交渉が行なわれた。最大の争点は、賠償金の金額の算定であった。1921年のロンドン会議において賠償金の金額が定められ、ヴィルト政権によって受諾された。しかし、この賠償金はドイツ経済を苦境に追いやった。さらに、ヴェルサイユ条約への不満を強め、その不満は右翼テロとして爆発し、ヴァルター・ラーテナウ外相の暗殺事件などが発生した。ヴィルト首相はその葬儀において「敵は右側にいる」と演説し、フリードリヒ・エーベルト大統領は、反政府勢力への対抗措置として共和国保護令を発布した。その後、帝国議会において可決されたのが共和国保護法である。その当時の司法大臣は、グスタフ・ラートブルフであった。
 共和国保護法は、「共和国保護のための刑罰規定」として、帝国または諸邦の共和主義政府の構成員の殺害を内容とする協定または申合せに関与した者に5年以上の懲役または終身刑を科すことを定めた(1条)。この条項は、謀殺や故殺の実行に着手する以前の協定や申合せに既遂に相当する刑罰を科すことによって、政治テロを禁圧し、政治的秩序維持を図ることを目的としたものであった。政治的秩序の維持という目的は、刑法の役割が諸状況の変化を受けて、変動し始めていることを窺わせるものである。さらに、内乱罪や政治的殺人罪などの重罪に対して、自由刑と併せて罰金刑を科す併科主義が採用され、「内乱罪または第1条ないし6条に反する重罪につき、有罪の判決と併せて罰金刑を科すことができる。罰金刑の最高額は、制限されない」(9条)と定められた。これが大インフレーションによる通貨価値の大幅な下落を受けて規定されたものであることは明らかである。罰金刑は、一般的には罰則制定時の貨幣価値を前提に、当該犯罪の抑止効果が期待できる程度の金額を基準に設定されるが、大規模な社会情勢の変化や通貨制度の変更を受けて、その通貨価値が見直された場合には、罰則の罰金刑の部分は全面的に変更されることになる。しかし、大インフレーションの影響によって、その通貨価値の標準が定まらないときに、罰金刑の金額を法定しても意味がない。法令違反行為の類型を明示することはできても、それに対応する罰金刑の金額を法定することは不可能である。罪刑法定主義は、犯罪とそれへの刑罰を法律によって事前に明確にして、刑罰権の行使を予測可能なものにし、自由と権利を保障することを目的としているが、共和国保護法は、この原則を犯罪の法定主義と刑罰の法定主義へと分割し、後者の法定主義のうち、罰金刑の法定を緩和し、それを裁判官の裁量に委ねたのである。それによって、裁判官は罰金刑の明確な金額による拘束から解放され、大インフレーションによる通貨価値の下落に対応した罰金額の算定が可能になった。その立法もまた刑罰法規の安定性よりも、実質的正義を重視する反実証主義的な思想によって裏づけられている33)。

5.さらに注目すべきは、ラートブルフと同じ様に、法実証主義を断罪したハンス・ヴェルツェル自身が、ワイマール末期に実証主義の法思想を厳しく批判していたことである。ヴェルツェルは、次のように述べていた。

 実証主義の時代は過ぎ去った。実証主義は、存在する個々の成果を築き上げたとはいえ、それらを包括する「精神的靱帯」を我々に示すことができなかった。ますます切実になっていることは、基礎的なもの、普遍的なもの、そして全一的なものを問うことである。我々は、刑法の領域において、いわば時代の転換点に立っているのである。現行刑法は古くなり、しかも熱烈に待望されている新刑法典は、依然として帝国議会の暗闇の中に置かれたままである。現行法の構成要件は、解釈論的にはほぼ論じ尽くされた。そこで、学問の関心は、いっそう刑事立法の恒常的で基礎的な要素、つまり哲学的な要素へと向かっている。最近の新しい刑法草案が批判的に議論される場合にも、それは、従来の解決の試みから、現在のそれを経て、さらに改正の可能性へと至る大きな文脈のなかで行なわれている。こうしたすべてのことが、刑法の議論のなかに、哲学的な問題提起をますます取り込む条件となっている34)。

 実証主義の時代は終わった。既存の刑罰法規の論理的・整合的な解釈、その安定的な適用を刑法学の任務としてきた時代は終わった。今や刑法学の関心は、刑事立法の恒常的で基礎的な要素、つまり哲学的な要素へと向かっている。つまり、刑法を刑法たらしめる要素は、それが議会で制定された事実にあるのではない。それは、刑法の本質的な要素、恒常的で基礎的な要素、哲学的な要素である。たとえ普通選挙によって選出された議会であっても、刑罰法規を自由自在に制定・改廃することはできない。政権政党の政治綱領や政府の政策を超越し、刑事立法を拘束する理論的前提や恒常的・哲学的要素があるのである。ヴェルツェルがこのように述べたのは、自らの学問的関心が刑法学の方法論的研究にあったからである。その当時、刑法学方法論において影響力が強かったのは新カント主義の価値哲学であった。新カント主義、とりわけ西南ドイツ学派の価値哲学によれば、対象・客体の認識の方法は、一定の先験的な価値を基準にして、自然的・実在的な対象・客体の意味を認識するというものである。すなわち、認識の方法とは、価値関係的な考察方法によって、対象・客体を意味的・価値的に創り出す作業である。自然科学・実証科学における対象の認識は価値中立的であるにもかかわらず、社会科学や人文科学、規範科学における認識は、任意の「価値」を基準にするため、価値関係的な意味を問題にしなければならない。新カント主義は、このような科学の分野において認識の方法と基準が異なることを認める。
 これに対して、ヴェルツェルは、「認識は常にただ、在るがままの対象を洞察することでしかありえない。それゆえ、一つの対象がいくつかの科学の客体とされても、その対象はすべての科学において同一である」と述べて、諸科学を包括する上位の科学(哲学)が認識すべき普遍的な対象、その基礎的で恒常的な要素に関心を向けたのである。それは、刑事立法もまたその前提とし、その対象とする前法的・基礎的な行為概念、精神的靱帯によって統一された行為概念である。それは、行為を「外界における変化の作用を伴う有意的身体運動」のように自然主義的に定義しているだけでは理解できない。精神的活動の志向性、すなわち目的性を重視しなければならない。外界における因果過程は、外的作用によって惹起される、つまり行為の外的作用が一定の経過を辿って、一定の結果へと帰着するというのではなく、志向的に「設定」される、つまり掲げられた目標を実現するために、有用な因果経過が選択・設定され、結果へと結実するのである。ヴェルツェルによれば、このような前法的な行為概念の解明は刑法学上の因果関係論にとっても、また違法論や責任論にとっても本質的であり、この前法的概念が法的概念の構成的契機をなすことをラートブルフに対して主張しなければならないという。
 ラートブルフの行為概念は、リストの自然主義的刑法学から継承した自然主義的で因果的な行為概念であった。それは、物理と心理から構成される抽象的な行為概念であった。しかし、刑法学が前提とすべき行為概念は、行為者の内的・精神的活動の志向性が外的・物理的な因果経過を切り拓く動態的な行為概念、志向性によって統合された物理的・精神的な意味的統一としての行為概念である。このように述べて、刑法学において支配的であった自然主義的な行為概念を批判したのである35)。
 ヴェルツェルは、このような方法論的観点から行為概念を批判的に解明したが、その矛先を刑法だけでなく、議会や政府にも向けた。ヴェルツェルは、1871年刑法は古くなり、新しい刑法が待望されているというが、それは依然として「帝国議会の暗闇」のなかに置かれたままであると嘆いた。刑法の改正作業は帝政時代から開始され、第一次世界大戦によって中断され、ワイマール時代にいくつかの草案が出されたものの、まだ実現していなかった。刑法学における新旧の学派の間で激しい論争はあったが、フランツ・フォン・リストは、理論に妥協はないが、刑法改正のための妥協はありうると述べ、両陣営は政府レベルでの起草作業に対して協力し、刑法改正作業において一致点が見られた。しかし、それは「帝国議会の暗闇」のなかで頓挫し、実を結ばなかった。刑法改正とは、国家がいかなる行為を犯罪とし、それにどのような刑罰を科すか、その目的・効果はいかにあるべきかという犯罪観・刑罰観の集大成であり、それには国家観・社会観・人間観が色濃く反映するが、それに関する政府の立場はどのようなものであったか。政府は政党の連合によって形成され、その意思は党派間の政策論争の紆余曲折のなかで決定された。刑法改正において築き上げられた様々な成果は、「帝国議会の暗闇」のなかにあった。それゆえ、それらは帝国議会によってまとめらなかった。ドイツの「精神的靱帯」によって大成されるのである。しかし、刑法は様々な問題を解決する装置と化し、その歯車にされてしまった。共和国の秩序維持のための道具とされてしまった。「帝国議会の暗闇」から国家と刑法を取り戻し、それを恒常的な要素によって、精神的靱帯によって包括しなければならない。ヴェルツェルは、このような「帝国議会の暗闇」のなかにドイツ刑法が埋没し、刑法改正作業が進まないことを嘆いたのではないだろうか。

6.そして、何よりも指摘しておかなければならないのは、政治的野望の実現のために刑罰法規を自由に行使することを目論んでいたヒトラーが、それを阻害する近代刑法の罪刑法定主義を批判する反実証主義的な主張をしていたことである。1933年1月30日に首相に就任したヒトラーは、3月5日実施の帝国議会選挙において圧勝し、憲法を始めとするワイマールの制度を全面的に再編することを目論み、2月27日に起こった帝国議会議事堂の放火事件を共産主義者の犯行であると宣伝して、選挙戦において最大限に利用した。帝国大統領は、この非常事態に対応するために、放火の翌日に「民族および国家の保護のための帝国大統領令」(帝国議会放火令)を公布し、ヒトラーはこれを放火の被疑者であるオランダ人青年マリヌス・ヴァン・デル・ルッベに遡及適用することを目論んだ。
 放火行為の時点において、刑法では暴動等の目的に基づく放火には終身刑または10年以下の懲役刑が定められていたが(刑法307条)、帝国議会放火令はその最高刑を死刑に引き上げ、それを絞首して執行することを定めた。ヒトラーはこの絞首による死刑をヴァン・デル・ルッベに科すことによって、政敵である社会民主党や共産党の弱体化を図ろうとしていた。しかし、憲法の非常事態制度は、憲法上の様々な権利を停止することはできても、罪刑法定主義(116条)を対象としていなかったため、帝国議会放火令の遡及適用は、非常事態であっても、憲法に反し許されなかった。ヒトラーは、著名な刑法家に遡及適用の可否を質すために鑑定を依頼するなどしたが、素人目には分かりにくい、非常に歯がゆい回答しか帰ってこなかった。また、3月5日の総選挙において、ナチスは単独過半数を制することができず、連立政党であるドイツ国家民族党(Deutschnationale Volkspartei)の議席を合わせても、過半数をわずかに超える程度しかなかった。
 ヒトラーは、3月7日の閣議において、放火令の遡及適用の問題について、他の閣僚の意見をあおぐために、議題として審議にかけた。ヒトラーの側近の内務大臣フリックは、刑法は暴動目的放火罪に最高でも終身刑しか定めていないが、帝国議会議事堂の放火という邪悪な行為には絞首による死刑が相応しく、そのために帝国議会放火令の遡及適用が認められるべきであり、刑罰法規の法的安定性を重視する罪刑法定主義は斥けられるべきであると力説した。ヒトラーも同じ様に、ドイツ国家の躍動する生命が共産主義者の暴力的破壊活動によって破滅の危機に瀕し、大勢の民衆がその暴力的破壊活動にヴァン・デル・ルッベの絞首刑で応えることを望んでいる時に、現行法の不十分な規定を適用することで満足することはできないと述べた。
 しかし、ヒトラーの主張は閣議では受け入れられなかった。ヒトラーの主張を一蹴したのは、司法大臣フランツ・ギュルトナーの代理として閣議に出席していた事務次官フランツ・シュレーゲルベルガーであった。1876年生まれで、ヒトラーより13才年長の法学博士の学位を持つ司法官僚は、ヒトラーとフリックに対して、近代刑法の基本原則である罪刑法定主義、「法律なければ刑罰なし」の原則を堅持すべきことを説き明かし、それを否定しているのはロシア、中国などの前近代的で野蛮な国だけであるとたしなめた。その上で、フリックの提案を司法省において検討・審議し、省としての見解をまとめることを約束したが、まとめられた見解においても、最高刑を死刑に引き上げた帝国議会放火令を適用することは憲法上認められないことが繰り返し指摘された。放火令を適用するためには、憲法改正が必要であった。ただし、ナチスと補完政党だけでは、それに要する帝国議会の三分の二の議席には満たなかった。憲法改正が現実的に困難な政治情勢のなかでは、一介の司法官僚でさえ、後に総統と呼ばれることになるヒトラーに対して、憲法の罪刑法定主義に刻み込まれた近代の法原則の意義を説き明かすことが許されていたようである。
 その後、状況は一変した。ヒトラーは、3月15日の閣議において、憲法改正のための「授権法」の法案を提出し、了承を取り付けることに成功した。ヒトラーは、一方で共産党議員を逮捕・身柄拘束して、議会に出席できなくし、他方で非連立野党を分断するために、中央党(Zentrum)、バイエルン人民党(Bayerische Volkspartei)、ドイツ国家党(Deutsche Staatspartei)などに説得工作を行なって、授権法案への賛同を取り付けた。そして、3月23日、帝国議会に授権法案を提案し、一気に成立させた。授権法は、立法権を議会だけでなく政府にも与え、しかも憲法違反の法律の制定権をも付与し、憲法改正の権限を白紙委任するものであった。ヒトラーは、これに基づいて、帝国議会議事堂放火令の遡及適用を内容とする「絞首と死刑の執行に関する法律」(ヴァン・デル・ルッベ法)を最初の政府制定法として制定した。ヴァン・デル・ルッベは、この法律に基づいて死刑を言い渡され、そして執行された36)。
 罪刑法定主義は、ヴァン・デル・ルッベを死刑に科すというヒトラーの政治的野望を阻むものであった。ヒトラーにとって、ワイマール憲法は「悪法」であったが、妥当する実定法であった。彼がラートブルフの教えを受けた法実証主義者であったならば、憲法の法的安定性を尊重したであろ。また、憲法の解釈を媒介にして、法の理念の一つである「正義」を実現することに務めたであろうう。しかし、ヒトラーは法実証主義者ではなかった。彼にとって正義は、胎動するドイツ国家の生命力であり、誇りと名誉ある民族的精神であり、前法的で超法規的な精神的靱帯であった。それは、ドイツ民族の歴史と伝統に内在する具体的・普遍的な要素であり、ワイマール共和国が成立する前から存在する基礎的・恒常的な要素であった。それは、観念的な世界においてとどまらずに、ワイマール共和国やヴェルサイユ体制という現実を揺るがし、突き動かし、変革する民族的・精神的な力であった。それは、1933年3月23日に「授権法」という、官僚や法曹に慣れ親しまれた法律という形式によって表現された。法律を解釈・適用することは、もはや法を実証することではなくなった。民族の精神と国家の任務を担う権力を実証し、貫徹することであった。ワイマール憲法体制の実証主義の時代は終わった。ドイツの民族的精神と国家的任務を法によって実証・貫徹する時代が始まった。民族精神と国家的任務が伝統的な法律の形式によって表されたおかげで、帝政とワイマールの時代に法学教育を受けた法律家は、それへの抵抗感を感じなかった。ワイマール時代からの法実証主義は、法律家から不法に対する抵抗力を奪い去ったのではない。ナチス時代に順応することに矛盾を感じさせなかっただけである37)。

 四 残された課題
 ワイマール時代の反実証主義的な法思想は、学説・立法・裁判例において様々な形をとって現れた。ドイツが、戦争、内戦、革命、動乱を経て獲得したものは、皇帝不在の国家、共和制の政体であった。共和主義と民主主義を待望してきた者には、ワイマールの議会制定法こそが法源であり、それを超越する規範を法として認めることはできなかった。ラートブルフは、このような意味において議会制民主主義を基礎とした法実証主義の立場に立っていたといえる。これに対して、エリック・カウフマンは反対の立場にあった。ヴェルツェルもまた同じであった。彼らは、ワイマールの議会制民主主義を全面的に拒絶しないまでも、議会制定法だけが法であることを拒否した。カウフマンにとっては、ドイツ民族が動態的な民族となったがゆえに、ドイツの法律は実証主義が妥当するような静態的なものではありえなかった。ヴェルツェルにとって、刑事立法は本来的には帝国議会の政治的妥協の産物であってはならず、内的な精神活動と外的な因果経過の変化の構造的統一である行為概念に基づいて成立すべきものであった。
 1933年以降、具体的な形態をとって現象し始めたドイツの政治状況が、カウフマンやヴェルツェルが認識していた精神状況とどのような関係にあったのかは、必ずしも明らかではない。ナチスの政権掌握後、カウフマンはそのユダヤの出自ゆえに公職追放の処分を受け、1938年の「水晶の夜」以降は、ポーランドへの亡命を余儀なくされた。それに対して、ヴェルツェルには、そのような事情がなかったために、研究活動に引き続き従事することができた。彼は、1935年の教授資格請求論文において、刑法のイデオロギー的基礎の研究、とりわけ19世紀末から20世紀初頭にかけて刑法学において影響力のあったリスト流の自然主義・実証主義を斥け、またそれを補完した新カント主義の価値哲学を批判した。具体的な歴史的状況がドイツの民族共同体に求めているものがある。それは、今では法律のなかに目に見える形で表現されている。法律において表現され、法として規範化されるのは、具体的な歴史的転換期の価値であり、それは総統の意思である。法学の課題は、法規範の意味と内容が明らかにすることであり、それは具体的な歴史的転換期の価値のあり方を理解することである。ヴェルツェルは、そのように主張した38)。これもまた法実証主義の一形態である。それは、現実の法律の実証主義という点では新カント主義のそれと同じであるが、新カント主義が法律を法的理念の側から実証したのに対して、ヴェルツェルの主張は、権力者の現実の意思によって実証した。両者は、方法論的に決定的に異なる。
 1953年に彼が回想したように、「つい20年前には、実証主義が学問と実務を完全に支配していた」。その実証主義のために、法律家は、ナチスの法律を法律として受け入れ、それを当時の社会に適合するよう解釈・適用した。ナチスの法律が不正な法律であっても、法の理念としての法的安定性を重視したために、悪法に抗しきれなかった。それが、ラートブルフ・テーゼの法律家像である。しかし、新カント主義を批判したヴェルツェルには、そのような説明はあてはまらない。法実証主義が法律家をナチスの不法の前に無防備にしたという主張は、ラートブルフ流の法実証主義にあてはまっても、それに批判的であったヴェルツェルにはあてはまらない。法的理念としての法律の安定性を重視したため、ナチスの犯罪的な法律に抵抗できなかったという抗弁は、新カント主義の法律家にはありえても、政治的現実のなかに法的理念を見出した法律家にはあてはまらない。
 ヴェルサイユ条約によって失われた誇りと名誉を取り戻すために、ドイツ国家の生命力に担われた政治運動が飛躍的に前進し、ワイマール共和国を揺るがし、突き動かし、変革する熱狂と興奮の時代に、新ヘーゲル主義の哲学が興った。それは、存在と当為、現実と理念の一元論のうえに、現実を理念によって弁証し、理念を現実によって確証・実証する実証主義の一形態であった。1933年の時点で支配的であったとヴェルツェルが主張したのは、この実証主義であったのではないだろうか。ラートブルフ・テーゼによって、ナチス時代の法律家が法実証主義によって無防備にされたという歴史認識が独り歩きし、そのイメージがナチスの共犯者から「被害者」へと転換され、法律家層の責任が総体として免罪されてしまったため、1933年の時点においてヴェルツェルを支配した法実証主義が、ラートブルフ流の法実証主義とは異なるものであることを理論的に総括する道が閉ざされてしまったのではないだろうか。
 残された課題として、まだ総括されていない法実証主義の内容を明らかにする作業が残されていることを指摘しておかなければならない。ナチス時代の裁判官と法律の関係、ユダヤ人・ポーランド人に対する排外主義的な刑事特別法のようなナチス固有の法律を当時の裁判官がどのように解釈・適用したのかという問題について、具体的な裁判例を素材にして検討しなければならない。その作業として、さしあたり1942年のニュルンベルク・フュルト州裁判所付設ニュルンベルク上級州裁判所管区特別裁判所のレオ・カッツェンベルガー事件判決を分析することを予定している39)。この事件は、第二次世界大戦の最中にユダヤ人のカッツェンベルガーがドイツ人女性のイレーネ・ザイラーに接吻、抱擁するなどした行為が血統保護法の婚外交渉罪(2条)と民族敵対者令の空襲対応措置を利用した犯罪(2条)および戦争状態を利用した犯罪(4条)の観念的競合にあたるとして、死刑が言い渡された事案である。この事件判決については、すでに法哲学者の青井秀夫による分析がある40)。青井は、この事件の裁判官がカッツェンベルガーに血統保護法の規定にない「死刑」を言い渡したこと、これがナチスの時代の裁判官が法規による拘束から自由な法適用を行なっていたことを示していること、そしてナチスの時代に法実証主義が支配的であったならば、血統保護法のようなナチス固有の人種立法であっても、それが実証主義的に適用され、法定された重懲役が科されていたはずであること、そうであったならばカッツェンベルガーにとっては監獄であってもまだ安全な砦でありえたと告発し、ナチス時代には法律の実証主義的な解釈だけでなく、法律を超える悪しき実務もあったことを指摘している。ただし、カッツェンベルガーに言い渡されたのは、血統保護法に定められていない死刑ではなく、民族敵対者令に定められていた死刑であったことをここでは指摘するにとどめておきたい。青井の批判と評価の当否を含めて、レオ・カッツェンベルガー事件判決を踏まえて、ナチス時代の刑法解釈とそれを基礎づけた法学方法論の内容を明らかにしなければならない。

23)1980年代後半の歴史家論争における主要は議論をまとめたものとして、J・ハーバーマス/E・ノルテ(清水多吉その他訳・三島憲一解説)『過ぎ去ろうとしない過去 ナチズムとドイツ歴史家論争』(1995年)参照。
24)法律家による「歴史家論争」については、長谷川正安・渡辺洋三・藤田勇編(前掲注5〕)227頁以下参照。Vgl. Ralf Dreier und Wolfgang Sellert (Hrsg.), Recht und Justiz im 》Dritten Reich《, 1. Auflage, 1989.本書所収の個別の論文を紹介するものとして、ラルフ・ドライアー/ヴォルフガング・ゼラート編(刑法読書会紹介)「『第三帝国における法と司法』(1)~(10・完)」警察研究62巻4号(1991年)~63巻3号(1992年)。そのなかで、裁判官と法律の関係について論じたものとして、Hans Hattenhauer, Wandlungen des Richterleitbildes im 19. und 20. Jahrhundert, a.a.O., S. 9-33.(H・ハッテンハウアー〔本田稔紹介〕「19世紀および20世紀における裁判官像の変遷」警察研究62巻4号〔1991年〕72頁以下).ラートブルフ・テーゼの歴史認識を批判的に検証するものとして、Manfred Walther, Hat der juristische Positivismus die deutschen Juristen im "Dritten Reich" wehrlos gemacht?, a.a.O., S. 323-354.(M・ヴァルター(本田稔紹介)「法実証主義は『第三帝国』における法律家から抵抗力を奪い去ったのか」警察研究62巻11号〔1991年〕67頁以下), Micha Brumlik, Gesetzliches Unrecht. Die Wehrlosigkeuit des wissenschaftlichen Rechtspositivismus gegenüber nationalsozialistischen Staasverbrechen, Fritsz Bauer Institut (Hrsg.), Gesetzliches Unrecht. Rassistisches Rechts im 20. Jahrhundert, 2000, S. 15f.ドライアーとゼラートの問題提起を受けて、それを目的的行為理論の法思想史的考察に反映させるものとして、内藤謙『刑法理論の史的展開』(2007年)586頁以下参照。
25)Dieter Deiseroth, War der Positivismus schuld? - Anmerkungen zum Thema Juristen und NS-Regime achtzig Jahre nach dem 30. Januar 1933, in: Betrifft JUSTIZ Nr. 113, März 2013, S. 5ff(ディーター・ダイゼロート(本田稔訳)「責任は実証主義にあったのか?――1933年1月30日から80年目のテーマ「法律家とナチ体制」に関する評論」立命館法学360号(2015年)135頁以下).
26)ヴァイツゼッカー演説の邦訳は永井清彦「荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領演説全文」岩波ブックレットNo.55(1986年)8頁以下を参照した。その解説の村上伸「ヴァイツゼッカー演説のいくつかの背景」42頁以下参照。また、演説の精神を解説するものとして、永井清彦『ヴァイツゼッカー演説の精神――過去を心に刻む』(1991年)参照。
27)原文では、schuldhafte Verstrickung in Krieg und Gewaltという表現が用いられている。これには「責任が問われるのは、戦争と暴力に巻き込まれたことである」というニュアンスがある。「ヒトラーは全国民をその憎悪の道具とした」(14頁)というようなこれに似た表現も演説の至るところで見れる。このような表現の内容と意図を分析し、「ドイツの過去は清算されていない」との仮説を主張するものとして、木佐芳男『<戦争責任>とは何か 清算されなかったドイツの過去』(2001年)197頁以下参照。
28)2015年8月14日の安部晋三首相の「戦後70年談話」とヴァイツゼッカー演説の内容的同一性を指摘するものとして、阿比留瑠比「『戦後70年談話』に込められた首相の真意」正論2015年10月号74頁以下参照。安部首相は、「談話」のなかで、中国や北朝鮮・韓国などを念頭に置きながら、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません」と述べた。阿比留によれば、安部首相は「談話」のこの文章をまとめるにあたり、ヴァイツゼッカー演説を参考にし、安部首相自らが、「安部談話について謝罪が足りないと批判するならば、それはワイツゼッカー演説を批判するのと同じことだ」と、周囲の関係者にも語っていたいう
29)Erich Kaufmann, Die Gleichheit vor dem Gesetz im Sinne des Art. 109 der Reichsverfassung, in: Veröffentlichungen der Vereinigung der Deutschen Staatsrechtler, 1927, Heft 3, S. 2ff. Vgl. Deiseroth (Fn.25), a.a.O., S. 6(邦訳・138頁以下).
30)Kaufmann, a.a.O., S. 3.
31)RGZ 107, S. 87.増額評価判決を分析して、ワイマール共和国時代の裁判所と政府、司法と行政、裁判官と政治の対抗関係と和解の具体的状況を明らかにするものとして、大河純夫「フィリップ・ヘックの増額評価請求権論(1)(2・完)」法学論叢93巻3号(1973年)28頁以下、同6号(1973年)21頁以下、広渡清吾「ワイマール期の大インフレーションと裁判所」清水誠編『ファシズムへの道 ワイマール裁判物語』(1978年)253頁以下、平野敏彦「ドイツ自由法運動の生成と展開――H・カントロヴィッツを中心として(4)」法学論叢107巻5号(1990年)52頁以下参照。
32)Gesetz zum Schutze der Republik vom 21. Juli 1922, RGBl.Ⅰ, 585.拙稿「罪刑法定主義の歴史的断想――ワイマール帝国憲法116条による刑法2条の侵食」森本益之・加藤久雄・生田勝義編『大野眞義先生古稀祝賀 刑事法学の潮流と展望』(2000年)68頁以下参照。
33)帝政時代からワイマール時代にかけての刑法改正作業における罪刑法定主義の意義の変容過程を跡づけたものとして、拙稿「刑法における遡及処罰の法理――ヴァン・デル・ルッベ法への道標」浅田和茂・高田昭正・久岡康成・松岡正章・米田泰邦編『井戸田侃先生古稀祝賀論文集 転換期の刑事法学』(1999年)743頁以下参照。
34)Hans Welzel, Strafrecht und Philosophie, in: Abhandlungen zum Strafrecht und zur Rechtsphilosophie, 1975, S. 1f.(Zuerst erscheinen in: Kölner Universitätszeitung Bd. 12 (1930), Nr. 9, S. 5).その邦訳として、ハンス・ヴェルツェル(金沢文雄訳)「刑法と哲学」広島大学政経論叢16巻5・6号(1967年)97頁以下参照。
35)ヴェルツェルの刑法学方法論を批判的に検討したものとして、拙稿「刑法史における過去との対話(2)」法と民主主義No.463(2011年)84頁以下、拙稿「刑法のイデオロギー的基礎と法学方法論」本田稔・朴智賢編『刑法における歴史認識と過去清算』(2014年)162頁以下参照。
36)Vgl. Rudolf, Morsey, Das 》Ermächtigungsgesetz《 vom 24. März 1933 Quellen zur Geschichte und Interpretation des 》Gesetzes zur Behebung der Not von Volk und Reich《, 1992, Adolf Laufs, Einführung, in: Das Ermächtigungsgesetz ("Gesetzes zur Behebung der Not von Volk und Reich") vom 24. März 1933, 2003, Irene Strenge, Das Ermächtigungsgesetz 24. März 1933, in: Journal der Juristischen Zeitgeschichte Zeitschrift für die Rechtsgeschichte des 19. bis 21. Jahrhunderts, Jahrgang 7 Heft, 2013, S. 1f.
37)この問題について批判的に考察するものとして、拙稿・前掲注32)および前掲注33)、拙稿「ヴァン・デル・ルッベ法における遡及処罰法理の史的構造」杉原泰雄・樋口陽一・森英樹『戦後法学と憲法・長谷川正安先生追悼論集』(2012年)223頁以下参照。Vgl. Dieter Deiseroth (Hrsg.), Der Reichstagsbrand und der Prozess vor dem Reichsgericht, 2006.
38)Hans Welzel, Naturalismus und Wertphilosophie im Strafrecht. Untersuchungen über die ideologischen Grundlagen der Strafrechtswissenschaft, in: Abhandlungen zum Strafrecht und Rechtsphilosophie, 1975, S. 105f.
39)Vgl. Justiz im Dritten Reich - Eine Dokumentation, Herausgegeben von Ilse Staff, 1964, S. 194ff.
40)青井秀夫「実証主義伝説の謎 ―― 戦後法哲学の現実と課題」岡本勝・小田中聰樹・川端博・田中輝和編『阿部純二先生古稀祝賀論文集 刑事法学の現代的課題』(2004年)8頁以下参照。なお、青井秀夫『法理学概説』(2007年)290頁以下、足立英彦「『ラートブルフ・テーゼ』(実証主義は法律家を無防備にする)について」青井秀夫・陶久利彦編『ドイツ法理論との対話』(2008年)299頁以下、鈴木敬夫「制定法を超えた不法実務――ナチ司法とE・ヴォルフの『正法』をめぐって」札幌学院法学31巻1号(2014年)243頁以下参照。ディーター・ダイゼロート(本田稔訳)「責任は実証主義にあったのか?」(「解説」)立命館法学360号154頁以下参照。