Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法240条の罪の未遂について

2023-06-07 | 旅行
 1 はじめに
 刑法240条とその未遂(243条)の解釈問題について解説します。
 刑法240条は、「強盗が、人を負傷させたときは無期又は6年以上の懲役(拘禁)に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役(無期拘禁)に処する」と定めています。この条文をどのように解釈すればよいのでしょうか。少し難しいので、次のように考えてください。論点は3つあります。
 2 刑法240条の罪
 第1は、刑法240条の罪は、一般に「強盗致死傷罪」と呼ばれています。それはどのような犯罪なのでしょうか。
 刑法240条の犯罪は、一般に考えると、強盗を行った人が被害者を死傷させた場合に成立します。例えば、XがAからカバンを奪うために、Aに暴行し、カバンを奪い、その暴行によってAが1)ケガを負い、または2)死亡した場合です。致傷・致死については故意はなかったので、1)を強盗致傷罪、2)をが強盗致死罪と呼んでいます。いずれも、カバンを奪っているので、強盗致傷罪・強盗致死罪としては既遂です。
 では、XがAからカバンを奪うために、Aにケガを負わせよう、または殺してでも奪おうと考えて暴行し、カバンを奪い、その暴行によってAに3)ケガを負わせ、またはAを4)死亡させた場合です。致傷・致死につき故意があったので、3)を強盗傷害罪または強盗傷人罪、4)を強盗殺人罪と呼んでいます。いずれも、カバンを奪っているので既遂犯です。
 第2は、次のような問題です。もしも、強盗の手段行為である暴行から死傷が発生した場合を強盗致傷罪、強盗致死罪、強盗傷害罪、強盗殺人罪とするならば、そもそも240条のような条文にする必要はなかったのではないでしょうか。例えば、刑法236条の条文に手を加えて、「暴行又は脅迫を用いて他人の財物を強取し、よって死傷させた者は、強盗致死傷の罪とし、……」とすればよかったのではないでしょうか。そうせずに、「強盗が、人を負傷させたときは」と規定したのは、なぜなのでしょうか。それには理由があると思います。強盗を行った人(強盗既遂犯)や強盗に失敗した人(強盗未遂犯)が、その現場から立ち去るときに、(強盗既遂犯の場合は)被害者がカバンを奪い返そうとしたので、それを防ぐために、または(強盗既遂罪の場合だけでなく、強盗未遂犯の場合も)被害者による現行犯逮捕を免れるために、被害者に暴行を加えて死傷させた場合をどのように扱うのかという問題に関わってきます。刑法240条の条文案を起案した人は、それらを「強盗既遂犯または強盗未遂犯」と「傷害罪または傷害致死罪または殺人罪」の併合罪ではなく、「強盗致傷罪・強盗致死罪・強盗傷害罪・強盗殺人罪」と扱うことを考えていたのではないでしょうか。つまり、強盗既遂または強盗未遂を行った人(これは一種の身分です)が暴行の故意に基づいて暴行を行い、それから死傷が生じた「傷害罪と傷害致死罪」、そして殺人の故意で暴行を行い傷害・殺人に至った「傷害罪と殺人罪」の刑を加重する「加重的身分犯」として理解することができます。つまり240条の罪は、強盗の手段行為である暴行から死傷が生じた場合だけでなく、強盗の機会において行った暴行から死傷が生じた場合をも含んでいると理解することができます。

 3 240条の罪の未遂
 第3に、このような240条の犯罪には未遂処罰規定が適用されます(刑243)。では、どの部分が未遂に終わった場合が240条の犯罪の未遂なのでしょうか。判例は、強盗が人から物を奪うために、故意に殺そうとしたが、殺すに至らなかった「強盗殺人の未遂」が240条の未遂にあたると解釈しています(殺人の部分の未遂を重視しているので殺人未遂説といいます)。そうすると、殺人の部分が既遂に達しているならば、強盗の部分が未遂に終わっていても、強盗殺人罪は既遂であることになります。判例もそのように考えているようです。そうすると、強盗が人から物を奪うために、故意にケガを負わせようとし、現にケガを負わせた場合、物を奪っていなくても、判例では強盗傷害罪は既遂になります。
 しかし、強盗傷害罪も強盗殺人罪も財産犯として規定されているので、その未遂としては、強盗罪の部分の未遂も含まれると解釈することもできるように思います。そのような立場からは、240条の罪の未遂は以下のようになります。
 240条  243条
・強盗致傷罪 強盗未遂の致傷罪(強盗既遂の致傷未遂は強盗罪と同一です)
・強盗致死罪  強盗未遂の致死罪(強盗既遂の致死未遂は強盗致傷罪や強盗罪と同一です)
・強盗傷害罪 強盗未遂の傷害罪(強盗既遂の傷害未遂は強盗罪と同一です)
・強盗殺人罪 強盗未遂の殺人罪
       強盗既遂の殺人未遂罪(判例の立場)

 4 おわりに
 ただし、このような解釈は判例では採用されていませんが、解釈論としては不可能ではないように思います。