Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

パレスチナ問題とイスラエル・ハマス戦争について

2024-05-25 | 旅行
 パレスチナ問題とイスラエル・ハマス戦争について
 一 はじめに
 二 パレスチナ・反植民地の訴え
 三 一枚のビラが伝える真実

 一 はじめに
 1948年5月15日、ダビッド・ベン=グリオン(初代首相)は、イスラム国の建国を宣言した。あれから76年が経過した。イスラエル建国に至る経過の全てが、今日のパレスチナ問題の原因であり結果である。自然の時間は過ぎあり、今も時を刻んでいるが、民族の歴史は、ユダヤ人にとっても、またパレスチナ人にとっても変わらないまま、立ち止まっているかのようである。ドイツ戦後史で用いられてきた「零時刻」にたとえると、社会と民族の歩みは、1948年5月15日から全く変化していないように思えて仕方ない。アメリカやドイツの諸大学で、イスラエルによるガザ侵攻に反対する世論と運動が激しさを増している。日本においても、その余波を受け、行動が準備されつつある。それは、ここドイツの北西部の大学街ミュンスターにおいても同じである。
 2024年5月18日、ミュンスター滞在中、中央駅前の集会関係者(パレスチナ・反植民地 Palaestina Antikolonial)から一枚のビラを受け取った。短い文章ながら、それには彼らのパレスチナに対する連帯の熱い思いが込められている。それを読んでみた。そして、日本語に訳した。以下、それを紹介する。

 二 パレスチナ・反植民地の訴え
 パレスチナの悲劇の歴史
 発端
 19世紀末に遡る。ユダヤ人の国民国家を建国するシオニズム運動がヨーロッパで起こった。その背景にはヨーロッパにおける反セム主義とユダヤ市民に対する攻撃があった。どの地にユダヤの国を建国すべきかをめぐって様々な考えがあった。その中には、アルゼンチン、ウガンダ、パレスチナが候補地として挙がった。シオニズムの先駆的思想家・創始者であるテオドール・ヘルツルは、彼の理想を貫いた。パレスチナに入植すべきであると。

 バルフォア宣言
 第一次世界大戦の最中に、フランスとイギリスは中東を分割しあった。1917年、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアは、シオニズム運動に対してパレスチナの地を約束した。イギリスの政治家は、実は彼ら自身が反セム主義者であり、イギリスからユダヤ人を追い出したかったがゆえに、シオニズム運動を支援したのである。その地には、他のヨーロッパ植民地国家があったが、テオドール・ヘルツルは、彼らにパレスチナにおけるイギリスの利益を代表してもらうよう期待した。テオドール・ヘルツルは、その宣言である「ユダヤ国家」において次のように明らかにした。
 「我々は、ヨーロッパのために、その地においてアジアに対抗する壁を造ろうと思う。野蛮に対する文化の前哨施設を設置しようと思う」。

 ナクバ(パレスチナの地からのパレスチナ人の追放)
 パレスチナは、元々はユダヤ教徒、キリスト教徒そしてイスラム教徒が相互に生活していた土地であった。第一次世界大戦後、そしてとくに第二次世界大戦中にユダヤ人がパレスチナに流入し、入植し始めた。地元住民は、ユダヤ人が自身の国の建国を要求していることを悟った。ユダヤ人と地元パレスチナ人との緊張が高まった。1947年以降、状況は劇的に悪化した(辞書)。国連は、パレスチナの分割案を提案した。それは、パレスチナ人が住民の過半数であっても、土地の半分以下しか得られないと定められていた。パレスチナ人は、この誤った計画を拒否した。すると、シオニズムの民兵がパレスチナ人に対するテロ攻撃を開始した。1948年以降、追放は制度的に組織化された。先住人口の80パーセントを超える75万人以上のパレスチナ人が、町と土地から追放された。500を超える村が破壊された。大量の虐殺が行われた。少なくとも1万5千人のパレスチナ人が殺された。このようなパレスチナ人の追放は、アラビア語で「ナクバ(Nakba)」(壊滅的状況)と呼ばれているが、これは現代近東史における決定的瞬間の一つであり、イスラエル人はその血塗られた虐殺に基づいて彼らの国家を建国したのである。1948年5月15日、イスラエル国の建国がダビッド・ベン=グリオンによって宣言された。彼はすでに数年前にパレスチナ人に対して自身の立場を表明していた。
 「私は再移住を支持している。それに不道徳な何かがあるとは思えない」。
 追放されたパレスチナ人とその子孫は、今日までヨルダン川西岸、ガザ、国境を接するアラブ諸国の避難所で生きてきた。彼らは、その村と町に帰ること許してほしいと求めている。国連はすでに1948年にパレスチナ避難民が故郷に帰還する権利があることを認めた(第194号決議)。イスラエルは、75年間それを拒否し続けている。

 イスラエル占領下の現実
 イスラエルは、建国後、パレスチナ人の帰還を阻むために全てのことを行った。同時にイスラエルは、さらにパレスチナの地を奪うための全てのことを行った。1967年、イスラエルは、ガザ地区、ヨルダン川西岸、シリアゴラン高原を占領した。それ以降、ヨルダン川西岸、ガザ地区、ゴラン高原において無数の違法な入植用住居が建築された。現在、ヨルダン川西岸には、およそ80万人の違法なユダヤ人入植者が生活している。このユダヤ人入植者とイスラエル軍は、毎日のようにパレスチナ人に対してテロを企てた。パレスチナ人の住居は破壊さ、農家のオリーブの木には火が放たれ、それは都市の重要拠点にまで及んだ。そこでは、通勤中のパレスチナ人や通学中の子どもが襲われた。パレスチナ人は、ユダヤ人入植者と兵士によって常に殺害された。軍事的支配下にある生命は、毎日のように生と死をさまよい闘っている。

 ガザ
 2005年にガザから入植者が引き上げられた。それ以降、イスラエルはガザを違法に封鎖し、その地で生活するパレスチナ人の全住民の生命を脅かした。イスラエルは、あの縦長に続く湾岸沿いの狭い帯状の地区を刑務所に変えた。そこにいる人間は、飢え、清潔な水も与えられず、体を動かすこともできなかった。もちろん、将来を展望することなどできるはずもなかった。ガザは繰り返し空爆に見舞われた。この疑いようもない事態が、2023年10月7日の事件に行き着いた。イスラエルは、その事件を、パレスチナ人を追放し続け、それを自衛の名のもとに正当化するための機会として利用したのである。ハマスとの闘争という口実のもとに、イスラエルはその目的を追求し、イスラエルの国境線を公式に拡大したのである。
 ガザ地区には230万人のパレスチナ人が暮らしている。封鎖、空爆、飲料水や電気、日用品の不足、さらに医療体制の不整備が続いている。それは何を意味するのか。それは、彼らに対する刑罰を集約した要素を意味している。この3ヶ月の間にも約3万人が死んでいった。そのうち1万1千人が子どもである。この事実こそ、民族謀殺(ジェノサイド)の基準を満たしている!

 パレスチナ人に対するジェノサイドに反対しよう! 彼らが故郷に帰還する権利を擁護し、自由に生きる権利、尊厳、真の平和のために行動しよう! 平和を求める運動に連帯しよう! 我々が拓いた水路に続け! ミュンスターの行動を超えて、さらに流れ続けよ!

 三 一枚のビラが伝える真実
 以上が「パレスチナ・反植民地」が配布したビラの内容である。パレスチナから追放されたパレスチナ人の惨状が端的に書かれている。また、ガザ地区の230万人のパレスチナ人の生命が危機に瀕している状況が記されている。このような状態は人間の生命にとって深刻であり、一日も早く解決策を講じなければならないのは確かである。そのために何をなすべきかを考える必要があるのは言うまでもない。しかし、過去76年間、断続的にこのような紛争が続いていたとはいえ、今回のイスラエルとハマスの対立の直接的なきっかけになったのは、2023年10月7日の事件、すなわちハマスによるイスラエル領内への軍事攻撃であった。歴史を語るにあたり、「もしも」は禁物であるのは承知しているが、あえて言うなら、もしも10月7日の事件がなかったならば、どうなっていたであろうか。この点が私の知りたいことであった。10月7日の事件は必然的で、歴史的に避けることができなかったというのであれば、「もしも」の推測は止めねばならないが、事件の必然性・歴史的不可避性について、このビラでは、いわば先行する事態の集約的結果であるかのように書かれているだけで、それ以上の説明がなかった。これは私にとっては残念であった。その箇所を繰り返す。
「2005年にガザから入植者が引き上げられた。それ以降、イスラエルはガザを違法に封鎖し、その地で生活するパレスチナ人の全住民の生命を脅かした。イスラエルは、あの縦長に続く湾岸沿いの狭い帯状の地区を刑務所に変えた。そこにいる人間は、飢え、清潔な水も与えられず、体を動かすこともできなかった。もちろん、将来を展望することなどできるはずもなかった。ガザは繰り返し空爆に見舞われた。この疑いようもない事態が、2023年10月7日の事件に行き着いた。イスラエルは、その事件を、パレスチナ人を追放し続け、それを自衛の名のもとに正当化するための機会として利用したのである。ハマスとの闘争という口実のもとに、イスラエルはその目的を追求し、イスラエルの国境線を公式に拡大したのである」。
 中東問題やパレスチナ問題に関して無知・無学な私には、この一文を書いた人の意図、それに込めたメッセージが理解できなかった。ドイツ語で書かれたビラの文章を時間をかけて読んでみたが、読み間違いがあったのかもしれない。もう少し時間をかけて考えてみたい。
(2024年05月25日)