Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法によるナチの過去の克服はいかに頓挫したのか(3・完)

2024-03-03 | 旅行
 刑法によるナチの過去の克服はいかに頓挫したのか

 一 1944年7月20日の死刑囚
 二 死刑囚の息子のその後
 三 刑法と国家社会主義
 (1)謀殺罪と故殺罪 ― 1941年までの刑法規定
 (2)謀殺罪と故殺罪 ― 1941年以降の刑法規定
  ①謀殺罪の行為類型から謀殺者罪の行為者類型へ
  ②真正身分犯と不真正身分犯
  ③真正身分犯の共犯
  ④1968年秩序違反法施行法による刑法の一部改正
 (3)謀殺罪改正の背景
 四 2019年2月 ハノーファー
 五 結び

 ③真正身分犯の共犯
 第3は、1941年以降の謀殺罪の正犯を援助した幇助犯の扱いの問題である。刑法には「身分犯の共犯(教唆犯・幇助犯)」に関して、次のような規定があった。


・刑法(旧)50条(身分犯の共犯)
 ②特別の個人的な資格又は事情が、刑を加重し、減軽し、又は阻却する旨を法律が規定しているときは、この規定はかかる資格又は事情の存在している正犯又は共犯にのみ適用される。


 「特別の個人的な資格又は事情」とは、行為者の「身分」を指す。この「身分」を備えた行為者が行為を行った場合、基本類型の「刑を加重し、減軽し、又は阻却する」。つまり、この身分犯は、「不真正身分犯」である。行為者がその身分を備えていれば、この不真正身分犯の正犯が成立し、それを教唆・幇助した者に同じ身分が備わっていれば、不真正身分犯の共犯が成立する。正犯に身分が備わっていても、教唆者・幇助者に身分がなければ、その共犯は成立しない。それに成立するのは加重・減軽される前の基本類型の共犯だけである。要するに、刑法(旧)50条2項は、「身分犯の共犯」に関する規定であるが、その適用対象は「不真正身分犯の共犯」に限られていた。では、謀殺罪のような「真正身分犯」の共犯に関してはどのように定められていたかというと、それに関する規定はなかった。では、謀殺罪などの真正身分犯を幇助した者は、どのように扱われたのか。それには幇助犯の一般規定(刑法49条)が適用された。
 例えば、強制収容所などの現場においてヒトラーのガス殺指令を実行して援助した現場責任者についていうと、謀殺罪は「真正身分犯」なので、謀殺罪の幇助犯である強制収容所の現場責任者には、「不真正身分犯の共犯」に関する刑法50条2項を適用することはできない。彼に適用されるのは、犯罪の幇助犯に関する一般規定である刑法49条(幇助犯)であった。現場責任者は、ヒトラーが謀殺罪という重罪を犯すのを知りつつ、ガスの噴射ボタンを押すという行為によって、ヒトラーの謀殺罪を援助したことが証明されれば、謀殺罪の幇助犯として処罰されることになる。現場責任者が反ユダヤ主義などの「下劣な動機」を備えている場合はもちろん、それを備えていなくても、ヒトラーの指令が謀殺罪にあたることを知りつつ、それを援助した以上、謀殺罪の幇助犯の責任が問われる。そして、現場責任者にはどのような刑が科されるのかというと、彼には謀殺罪の刑と同じ刑が科される。そうすると、科される刑の長短に応じて定められた公訴時効の期間が現場責任者にも適用されることになる。その公訴時効の期間は、謀殺罪の正犯と同じ20年である14)。
 1963年から1965年にかけて、ヘッセン州検事長フリッツ・バウアーは、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判を起こし、アウシュヴィッツ強制収容所で行われた非人道的な人権侵害を謀殺罪として追及した。それは、謀殺罪やその幇助犯の公訴時効の完成が迫っていた時期であった。ナチの不法を追及し、それを克服する最終局面において行われたといえる。ただし、公訴時効が完成する1965年5月9日の直前に連邦議会において第二次公訴時効論争が起こった。謀殺罪の公訴時効の起算点は、第二次世界大戦が終結した1945年5月8日ではなく(初日不算入の原則により、公訴時効の起算点は1945年5月9日、その完成は1965年5月8日になる)、ドイツ連邦共和国が建国された年の1949年12月31日とする刑法改正が成立し、それが遡及適用された(公訴時効の完成は1969年12月31日になる)15)。そのようなこともあって、バウアーは、アウシュビッツ裁判に続けて、安楽死や強制不妊などの人権侵害を引き続き追及する時間的余裕を得ることができた。
 もっとも、公訴時効の起算点が4年ほどずらされたとはいえ、1969年末にはそれが完成する。東ドイツ政府、アメリカのユダヤ人権団体、諸外国の報道機関やジャーナリストは、ますますこの問題を追及する時間を得た。このような国内外の世論と国際的な注目の中で、1969年に連邦議会で第三次公訴時効論争が起こり、謀殺罪の公訴時効期間を20年から30年とし、第二次公訴時効論争と同様に、それを遡及適用する刑法改正が成立した。その結果、謀殺罪の幇助犯の公訴時効も、1979年12月31日に完成することになった。連邦共和国は、これによってナチの不法な過去を刑法によって克服する「意思」があることを国内外にアピールした16)。


 ④1968年秩序違反法施行法の制定と刑法の一部改正
 ナチの謀殺罪の幇助犯の裁きを求める国際的世論は激しかった。ナチの謀殺罪に協力・加担した者に対して容赦する者はいなかった。反ユダヤ主義などの下劣な動機から強制収容所のユダヤ人をガス殺した強制収容所の元看守が、年金を受けて生活しているなど許されなかった。彼らが受けるべきは裁きだけであった。たとえ、そのような動機がなくても、「職務」であること理由にガス殺に協力したことは厳しく咎められた。その過去がまだ過ぎ去っていないことを法の下に明らかにすることが、戦後ドイツの民主主義の存在証明でもあった。公訴時効の10年の延長は当然のこととして受け入れられた。
 しかし、謀殺罪の幇助犯が「下劣な動機」を備えていなくても、それを備えた正犯・幇助犯と等しく扱うのは、被告人が強制収容所の看守などの場合であれば承伏できるが、一般的に考えると、法の前での平等に反することは明らかである。不真正身分犯の幇助犯に身分がない場合には加重される前の基本類型の幇助犯しか成立しないにもかかわらず、真正身分犯の場合、身分がない者には真正身分犯の幇助犯が成立するというのは、やはり不可解である。この問題は以前から指摘されてきたことでもあった。それゆえ、連邦司法省は、1950年代から(ナチの過去の克服とは関わりなく)この問題を解決するために、刑法を改正する作業を進め、1962年に刑法改正草案(62年政府草案)を起草し、来るべき刑法の大改正に備えていた。真正身分犯の共犯(教唆犯・幇助犯)には共犯の一般規定が適用されていたが、刑法50条に新たな規定を設け、身分のない共犯には必要的に刑を減軽する旨の規定(真正身分犯の共犯)が盛り込まれた。ただし、連邦司法省は1960年代に62年政府草案を連邦議会に提案することをためらった。というのも、連邦司法省としては、1960年代はナチの謀殺罪の幇助犯の裁きを求める国際的世論に対応する必要があり、1965年5月8日、さらには1969年12月31日の公訴時効の完成を前に62年政府草案を議会に提案し、それを可決させるならば、「下劣な動機」があったことが証明されないナチの謀殺罪の幇助犯の刑を減軽することになる。その公訴時効期間は、減軽された刑を基準に算定され、その結果、下劣な動機が(あたっとは証明され)なかった幇助犯の公訴時効が1960年5月8日に完成してしまうからであった。これではナチの過去の克服を求める国内外の世論に逆行してしまう。司法省としては、ナチの過去の克服に終止符を打とうとしていると疑われないようにするために、刑法の大改正は先送りせざるをえなかった(刑法の大改正が実現したのは1975年1月であった)。
 連邦司法省は、ナチの謀殺罪の幇助犯の裁きを求める国際的世論に「対応」するよう見せかけながら、それをかわすことを企んだ。これが第4の問題であり、ペレルスのいうナチの過去の克服が「頓挫」した原因である。
 それを企んだには、エドゥアルト・ドレーアー(Eduard Dreher 1907年4月29日―1996年9月13日)とヨーゼフ・シャフホイトレ(Josef Schafheutle 1904年3月17日―1973年12年22日)の二人の官僚法曹であった。ドレーアーは、法曹資格を取得した1933年にナチに入党し、1940年代はインスブルック特別裁判所検事として軽微犯罪に死刑を求刑した冷酷な法曹である。戦後は、非ナチ化の手続を経て、連邦司法省に入省した。シャフホイトレは、1933年以降、帝国司法省に入省し、司法官僚としての経歴を歩んだ法曹である。品性に問題があったため、ナチ党官房は、彼の入党申請を何度も却下せざるをえなかったと伝えられている。戦後は、ドレーアーと同じく、非ナチ化の手続を経て連邦司法省に入省した。ドレーアーもシャフホイトレも、彼ら自身がナチの謀殺罪の幇助犯であった。この2人の官僚法曹は、1960年代に制定が急がれていた秩序違反法施行法を利用することを思いついた。彼らは、62年政府草案から「真正身分犯の共犯」の規定を取り出して、それを秩序違反法施行法案に忍び込ませ、1968年5月24日の連邦議会に提案し、可決させた17)。この秩序違反法施行法案に盛り込まれた「真正身分犯の共犯」の規定は、次のような条文であった。


・刑法50条②(真正身分犯の共犯)
 正犯の可罰性を基礎づける特別な一身上の要素(刑法14条1項=特別な個人的特性、関係又は事情)が、共犯(教唆犯又は幇助犯)にないときは、その刑は未遂処罰の規定によって減軽する。


 「正犯の可罰性を基礎づける特別な一身上の要素」とは、謀殺罪のような真正身分犯の身分(例えば、「下劣な動機」)である。それが「共犯(教唆犯又は幇助犯)にないときは、その刑は未遂処罰の規定によって減軽する」とは、幇助犯が謀殺罪が行われるのを知りつつ援助しても、その者に謀殺罪を基礎づける人的属性がないとき、減軽した刑(謀殺罪の正犯の終身自由刑を減軽した5年以上の自由刑)を科すということである。そうすると、真正身分犯の身分を持たない幇助犯の公訴時効の期間は、この減軽された刑を基準に算定されるため15年になる(刑法67条1項)。しかも、その公訴時効の起算点は、謀殺罪のような終身重懲役刑の場合は連邦共和国の建国の年の1949年12月31日になるが、下劣な動機によらない謀殺罪の幇助犯については1945年5月8日とされ18)、その完成時は1960年5月8日であった。例えば、強制収容所の元所長が謀殺罪の幇助犯として起訴された裁判で、彼らがヒトラーのガス殺指令が「謀殺罪」にあたることを知りつつ、ガス噴射ボタンを押すなどして謀殺を幇助したことが証明されても、彼らが「下劣な動機」からではなく、職務命令ゆえに行ったのだと主張したならば、検察官は被告人らに「下劣な動機」があったことを証明しなければならない。この証明ができなければ、謀殺罪の幇助の刑は「5年以上の重懲役」に減軽される。その結果、強制収容所の元所長の罪の公訴時効は、すでに1960年5月8日に完成していたことになる。1960年代に入ってフランクフルトの検事局が起訴しても、それはもはや法的効力はない。したがって、裁判官は公判手続を打切らざるを得ない。捜査中であれば、捜査を打切ることになる19)。
 連邦司法省の二人の官僚法曹は、この真正身分犯の共犯の規定を62年政府草案から取り出し、それを秩序違反法施行法案に忍び込ませ、1968年5月24日の連邦議会に提案し、可決させた(同法は10月1日施行)。秩序違反法施行法案は、分かり易く言うと軽犯罪処罰法施行規則であり、その名前を耳にしても、有害さを感じさせない法案であった。それゆえ、連邦議会の議員たちもその有害さを見抜けなかったようである。法案の条文は、長く、複雑で、分量も多かったので、「真正身分犯の共犯」に関連する条項の意味を正確に理解できなかったのかもしれない。しかし、この日から、ナチの謀殺罪の幇助犯は、反ユダヤ主義の民族憎悪からではなく、「職務ゆえに行った」と、悪びれることもなく責任逃れを主張できるようになった。ヨアヒム・ペレルスは、このような刑法(旧)50条2項による裁判の打切りを「裏口恩赦」と酷評して、ヒトラーの犯罪を法的に克服する作業は頓挫したと糾弾した。ペレルスは、父を処刑した国家保安本部の特別行動隊の隊員をも赦免する刑法改正を批判した。


 (3)謀殺罪改正の背景
 少し長い説明になったが、以上がヨアヒム・ペレルスの主張の趣旨である。私はこれを読んで愕然とした。刑法によるナチの過去の克服を「頓挫」させ、ナチの幇助犯を「裏口恩赦」させた理由を知るためには、少なくとも1941年9月の刑法改正によって刑法の謀殺罪規定が変えられたこと、そして1968年5月の秩序違反法施行法の制定によって刑法の一部改正が行われたこと結び付けて理解する必要があるからである。いったい誰がこのような巧妙な法的仕掛けをしたのか。1968年5月の仕掛けは、ナチ時代に活躍し、戦後も連邦司法省に残留した元ナチの官僚法曹の仕業であることは明らかであったが、1941年9月の謀殺罪改正が誰の手によるものであったのかは分からなかった。もしも、謀殺罪の規定が1941年に改正されずに、そのままであったならば、強制収容所の現場責任者らは、ナチの幹部がガス殺を熟慮して計画し、指令を出したことを知りつつ、ガス噴射ボタンを押して援助した以上、謀殺罪の幇助犯の責任を免れられなかったからである。つまり、1941年に謀殺罪の成立要件が複雑化・厳格化され、そのハードルが上げられたため、後にその幇助犯の罪責が問われ難くなったからである。それだけに、謀殺罪の改正を行ったのはなぜなのか、それは仕組んだのは誰なのかを明らかにしなければ、刑法によるナチの過去の克服が「頓挫」した理由の真相を明らかにできないように思われる。
 1941年には独ソ戦が始まり、ヨーロッパ全域は戦場と化し始めていた。国家を総動員して戦われる総力戦の最中にあっても、謀殺罪のような日常的に適用される刑法条項を改正するだけの余裕がドイツ政府にあったのだろうか。それとも、何らかの必要に迫られて改正に踏み切ったのだろうか。私の個人的推論によれば、ここでも帝国司法省の官僚法曹や民族裁判所・特別裁判所の裁判官・検察官たちの陰謀が見え隠れする。彼らは、ドイツが第二次世界大戦で敗北し、その後樹立した新政権が国内刑法の謀殺罪規定を適用して彼らを死刑にするのを見込んで、先回りして謀殺罪の要件を複雑・厳格にし、謀殺罪の正犯で裁かれないよう「保険」を掛けたのではないか。ヒトラーには謀殺罪改正は「犯罪人類学」の科学的成果であると吹き込んで、その裏では敗戦に備えたのではないか。そのように疑いたくもなる。スイスの刑法研究者によれば、謀殺罪規定の改正に関与した者のなかに民族裁判所長官のローラント・フライスラーがいたという20)。「7月20日」のフリードリヒ・ユストゥス・ペレルスを死刑に処したあの裁判官である。彼は、「あくまでも当時の法を適用したまでだ。判決にあたって熟慮と熟議を重ねた。決して下劣な動機から被告人を死刑にしたわけではない」と言い訳して、謀殺罪の成立を免れられるとでも思っていたのだろうか(ただし、戦後連合国が刑法から死刑条項を削除したので、フライスラーが生き延びてドイツ国内の裁判に掛けられ、謀殺罪の成立が認められても、死刑にはならなかったのであるが)。


 四 2019年2月 ハノーファー
 コロナ感染症が世界的に蔓延する一年前の2019年2月、私はその年の4月からダブリン市立大学で一年間の英語研修を受ける予定の娘を連れてハノーファーに向かった。ドイツに行く私の目的は、もちろんヨアヒム・ペレルスに会い、彼に一つの質問をすることであった。私は、ペレルスに次のような手紙を準備した。


 敬愛するヨアヒム・ペレルス教授
 お元気でしょうか。奥様もお変わりないでしょうか。
 私が勤務する立命館大学は、この度、私がドイツに行き、その地で短期間、研究活動に従事する機会を与えてくれました。
 私は、2019年2月18日の夜にハノーファーに到着し、21日の正午頃まで滞在する予定です。21日の午後からはミュンスターに向かい、ハーゲン通信大学法学部のトーマス・フォルンバウム教授に会う予定です。もしもお時間があれば、貴方にお会いしたいと存じます。
 私は、すでに貴方とミヒャエル・グレーフェ博士(ペレルスの指導を受けて博士論文を執筆した)の論稿を日本語に訳し、公表しました。その中では、ナチの不法の克服が1968年制定の秩序違反法施行法によって頓挫したことが主張されています。
 1968年は、世界的に「学生叛乱」の時代だったことは、貴方もご存じかと思います。多くの学生は、当時のドイツ政府がアメリカの帝国主義的な中東政策と北ヴェトナムに対する侵略戦争を支持する態度をとったため、立ち上がり、抗議活動を続けていました。若者たちは正義感が強かったために、急進的かつ暴力的になっていました。左翼陣営だけでなく、右翼陣営も同じでした。彼らの多くは警察により身柄拘束を受けました。謀殺罪や放火罪など、刑法によって厳しく処罰される行為が行われることもありました。
 連邦司法省のグスタフ・ハイネマン大臣は、次のようなことを述べました。若者はいつの時代も正義を求める。学生たちは非常に暴力的な行動を行っているが、それは正義感の表れでもある。彼らが急進的になっているのは、政治的正義を求めようとしているからに他ならない。ハイネマン司法大臣はこのように述べて、司法省の代表としての心境を次のようにもらしました。若い学生たちの行為は重大であるが、それは正義感ゆえのことであって、決して下劣な動機からではない。彼らは所属組織から指令を受けて、暴力的な行為を行っているだけあって、たとえそれが処罰されるとしても、必ず減軽できるよう法律を制定すべきである。ドイツ政府は何らかの行動を起こさねばならない。
 連邦議会が秩序違反法施行法を決議したのは、その直後の1968年5月24日でした。その法律には、真正身分犯を幇助した者のうち、正犯の身分を持たない場合には刑を減軽するという内容の刑法条項が含まれていました。つまり、1962年刑法改正草案から真正身分犯の共犯の規定が取り出されて、それが秩序違反法施行法案に盛り込まれ、それによって秩序違反法施行法の制定とセットで刑法の一部改正が行われたのです。連邦議会の誰一人として、秩序違反法に関する法案の中に重大な刑法改正条項が含まれていることを認識していませんでした。連邦議会議員だけでなく、自由主義的なジャーナリストも、この刑法改正がナチの過去の克服に対して否定的な影響を与えることになるとは考えていませんでした。
 ヨアヒム・ペレルス教授。私は次のことを貴方に質問します。
 連邦議会議員だけでなく、ヘッセン州検事長のフリッツ・バウアー検事長、SDSの学生運動家もまた、秩序違反法施行法の制定がナチの過去の克服に及ぼす影響を認識していましたか。それを今現在、貴方はどのうように考えますか。
 私は、急進主義的・社会主義的な学生運動(例えば、社会主義ドイツ学生同盟の運動)が、ドイツ政府に対して、秩序違反法施行法の制定と刑法の一部改正のためのきっかけとチャンスを与えたのではないかと考えています。その当時の青年運動と学生運動は、第三帝国と連邦共和国の間に政治的、法的、人的な連続性があること、この連続性は克服されねばならないことを主張していました。急進的で批判的な学生運動は、ナチの過去を克服するために重要な役割を果たしましたが、それがナチの幇助犯にとって(予期せぬ)好都合な作用を及ぼしたのです。それはどういうことかというと、強制収容所の元所長や看守がガス殺に協力していたとき、彼らに下劣な動機があったことを証明することは、検察官には困難だからです。ナチの過去の克服と学生運動の関係について考察したドイツの研究がもしあるならば、教えて頂けないでしょうか。
 私は大学院で博士論文を執筆したとき以来、第三帝国と戦後ドイツの連続性問題に関心を向けてきました。私の博士論文の主題は、占領期の刑事司法制度改革ですが、刑法上の違法性の概念に関して、戦前のナチの刑法学説と戦後のハンス・ヴェルツェルの目的的行為論の間に連続的な展開があることについても考察してきました。グレーフェ博士は、エドゥアルト・ドレーアーとヨーゼフ・シャフホイトレがナチの幇助犯を恩赦する立法の制定にあたって重要な役割を果たしたことを記しています。日本ではエドゥアルト・ドレーアーの名前はよく知られていますが、彼が戦時期にナチの検察官であったこと、彼が検察官として行ったことについてあまり関心はありません。ヨーゼフ・シャフホイトレは、アカデミーの法律家ではなく、司法省の官僚法曹であったので、彼の名前を知っている日本人はわずかしかいません。シャフホイトレに関して研究されているのであれば、それを教えて頂けないでしょうか。
 私がローネン・シュタインケ(南ドイツ新聞記者・法学博士)『フリッツ・バウアー』を日本語訳してい以来、私は引き続きフリッツ・バウアーに関して研究しています。過去の克服は1968年以降、どのようになったのでしょうか。刑法改正がそれにどのような影響を与えたのでしょうか。この問題に関してご指導いただければ、幸いに存じます。
 ご自愛下さい。
                                 本田 稔


 2019年2月20日、私は娘を連れてハノーファーに住むペレルスの自宅を訪ね、この手紙を渡した。ペレルスの顔写真は、フリッツ・バウアー研究書のニューズレターやホームページに掲載されていたので、手塚治虫の「鉄腕アトム」の「お茶の水博士」に似た小太りのおじさん風なのかと思っていたが、実際に合ってみると、全く違っていた。190センチメートルほどの長身で、ジーンズが似合う細身の、若かりし頃のアート・ガーファンクルに似た人であった。私が渡した手紙を夫人のユッタさんに読んでいただいた。誤記や文法の間違いを訂正しながら読んでいることが分かった。読み終えた後、ペレルスは、首を横に振り、「分からない」というふうに答えた。ユッタさんによると、ペレルスは身体の調子が悪く、慢性の頭痛に悩まされているとのことであった。痩せてしまったのも、そのせいであろう。4人でテーブルを囲んでいる間も、何度も席を立って、窓辺に向かったり、離れた部屋の椅子に腰掛けたりしていた。ほどなくして戻ってきたが、また席を立っては窓辺から外を見たりしていた。彼の頭の中では、過去の様々な出来事が過ぎ去ることなく、当時のままなのかもしれない。父親のこと、学生運動のこと、ナチの過去の克服の問題などにトラウマと頭痛に悩まされながら向き合ってきたのであろう。
 ペレルスが席を外している間、ユッタさんは私に、自分は夫よりも年上で、大学で学んだことはなく、看護師をしていたと話してくれた。書架から「批判的司法」やアウシュヴィッツ裁判の記録書などを取り出して、見せてくれた。「これは持っています。それは読んだことがあります」と言うと、ユッタさんは嬉しそうに頷いてくれた。私と同じくらいの背格好のドイツ人女性であった。私は帰りの電車の中で、二人が1960年代の学生運動の最中にSDSの集会で出会い、そこで「同志」となり、徐々に私的な間柄になっていたのではないか、警官隊と衝突して運び込まれたペレルスをユッタさんが病室で看護したのではないかと、映画のようなシーンを想像してみた。ユッタとヨアヒム。ペレルスには厳しい質問をしたことを詫びることもできないままお別れしたが、それでもハノーファーに来て良かったと思う。二人には感謝している。
 「1968年5月」という日付を耳にすると、ある風景が思い浮かぶ。ヘルメットと角材で武装した学生が現政権に対して抗議活動を行った学生叛乱のシーンである。つないだ手を大きく広げて、通り一杯に歩きながら、スローガンを叫ぶデモ隊の姿である。そこでは常に政治の在り方、それとの自己の関わり方が常に厳しく問い続けられた。アメリカではベトナム反戦運動が、フランスでは「パリの5月革命」が闘われていた。日本においても、日大・東大でも学生の叛乱は凄まじかった。ドイツの学生運動、なかでもSDSの闘争は、ドイツ社会と親の世代が引きずっている戦前の権威主義と秩序維持指向を批判し、非常事態法(Notstandsrecht)の反対に向けて激しく闘われていた。それは国家の緊急事態において基本法が保障する基本的人権の制約を認める法案であり、「NS法」と略され、ナチの再来を想起させた。それゆえ、それに反対することは、ナチ復活を阻止する闘いでもあった。残念ながら、その法案を阻止することはできず、1968年5月30日に連邦議会を通過した。この激しい闘争の最中に、「秩序違反法施行法案」のような小さな法案に構う余裕などなかったのかもしれない。


 五 結び
 ドレーアーとシャフホイトレは、革命運動や学生運動に「弱点」があることを知っていたのであろう。事態が緊迫すればするほど、運動は激しさを増す。争点が明白であればあるほど、運動の戦略・戦術も鮮明になる。しかし、逆に近視眼的になり、他のことは視界から外れていく。運動家は、浮き足だっていく。二人の官僚法曹は、連邦議会で非常事態法案が審議・可決される政治日程を知っていた。つまり、反対運動が最高点に達する(近視眼的になり、それ以外は見えにくくなる)時期を知っていた。非常事態法案が可決される1週間前に秩序違反法施行法案を連邦議会に提出し、案の定、紛糾することもなく通過させることができた。
 もしも、フランクフルト大学の刑法専攻の学生が、1968年5月のSDSの全学集会の場で、「闘争の課題の中に秩序違反法施行法案反対を位置づけるべきことを法学部班として提案したい」と主張していたなら、どうなっていたであろうか。戦略の立て直しを図る議論が行われただろうか。それとも、「はぁ? 何だって?」、「法学部班?」という声が会議室に響いたのだろうか。

14)ドイツ刑法は1871年5月15日に制定され、大改正がなされる1975年1月2日まで、部分的な改正を加えられながらも、基本的な条文配列などは維持されてきた。公訴時効に関しては、(旧)67条1項によると、終身重懲役(終身自由刑)を科せられる重罪(謀殺罪)の場合は20年、長期において10年を超える自由刑を科せられる重罪(故殺罪など)の場合にあっては15年とされた。謀殺罪の正犯の公訴時効は20年であり、謀殺罪の幇助犯には正犯と同じ刑(終身刑)が科されるので、その公訴時効も同じ20年であった(刑法49条2項)。
15)石田勇治『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』(2002年)184頁以下、208頁以下、ペーター・ライヒェル(小川保博・芝野由和訳)『ドイツ 過去の克服 ナチ独裁に対する1945年以降の政治的・法的取り組み』(2006年)255頁以下参照。いずれもナチの謀殺罪の公訴時効の延長問題を紹介しながら、秩序違反法施行法とそれに伴う刑法50条2項改正について言及している。
16)Vormbaum/ Welp (Hrsg.), a.a.O., S. 160 ff.改正法の正式名称は、「刑法改正のための第二次改正法」(Zweites Gesetz zur Reform des Strafrechts [2. StrRG] Vom 4. Juli 1969 BGBl. 1969 I, S. 717 [Nr. 56])。この法改正に先立って、「刑法改正のための第一次改正法」(Erstes Gesetz zur Reform des Strafrechts [1. StrRG] Vom 25. Juni 1969 BGBl. 1969 I, S. 645 [Nr. 52]. Vgl. Vormbaum/ Welp (Hrsg.), a.a.O., S. 82.)が制定され、その第60条第4項第25号により、「第67条は次のとおり変更される。a)第1項の「終身重懲役刑」の文言は「終身自由刑に変更される」と刑罰の名称が変更された。そして、第二次刑法改正法第78条第2項により「刑法第220条〔民族謀殺罪〕は公訴時効にかからない」とし、第3項で「公訴時効期間は、終身自由刑が科される犯罪については30年とする」とされ、終身自由刑が科される謀殺罪の公訴時効は30年にされた。
 さらに1979年には、第四次公訴時効論争が起こり、同年7月16日に「第16次刑法変更法」(Sechzehntes Strafrechtsänderungsgesetz [16. StrAndg] Vom 16. Juli 1979 BGBl. I 1979, S. 1046)が制定され、謀殺罪の公訴時効そのものが廃止された。Vgl. Thomas Vormbaum/ Jürgen Welp (Hrsg.) Das Strafgesetzbuch Sammelung der Änderungsgesetz und Neubekanntmachungen Band 3: 1975 bis 1992, 1. Auflage, Nomos Verlagsgesellschaft Baden-Baden 2000, S. 205 ff.アメリカでテレビドラマ「ホロコースト」が放映され、世界中があらためてドイツの過去に注目した時期と重なる。
17)前掲・石田208頁以下、ペーター・ライヒェル255頁も、ナチの謀殺罪の幇助犯の公訴時効の延長問題を紹介しながら、秩序違反法施行法とそれに伴う刑法50条2項改正について言及している。それらと本稿を併せて読んでいただければ、その法理論的からくりを理解していただけると思われる。
18)1950年代末の第一次公訴時効論争については、前掲・石田180頁以下、ライヒェル243頁以下参照。1960年5月8日に公訴時効が完成するのは、長期15年の自由刑が科される故殺罪、傷害致死罪、特別公務員暴行・陵辱・虐待致死罪などの犯罪である。第一次公訴時効論争では、この種の犯罪の公訴時効期間の延長をめぐって、キリスト教社会民主党が激しく反対したため(立憲主義・法治国家主義は、改正された刑法を被疑者・被告人に不利益に遡及適用する認めない)、連邦議会では刑法改正は行われなかった。謀殺罪の幇助犯に「下劣な動機」がない、その刑は長期15年の自由刑であるので、その公訴時効の完成時期に関しては、この第一次公訴時効論争の内容に基づいて判断された。
19)フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』の映画で、第二次世界大戦末期に親衛隊将校のハンス・マイアーがイタリア・モンテカッティーニでパルチザン活動家のコリーニの父親を銃殺した事件につき、検察官がマイアーに対する捜査の打切りを決定した書面を提示する場面がある。それは、コリーニが1969年に父を殺したマイアーを謀殺罪の正犯または幇助犯のかどで告発したが、検事局がマイアーに「下劣な動機」があったことを証明する証拠がなかったため、捜査を打切りを決定したことを証明する書面である。マイアーがパルチザンを銃殺したことを証明できても、それが「下劣な動機」からであったことを証明できなかったため、公訴時効の完成を理由にして裁判手続が打切られたのである。その当時、打切られた公判手続の数は明らかにできても、打切られた捜査の数は不明であるといわれている。
20)Vgl. Martina Plüss, Der Mordparagraf in der NS-Zeit, 2018, S. 176 ff.; Thomas Clausen, Roland Freisler und die Juristische Fakultät der Universität Jena, 2020, S. 4 f.
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