Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法によるナチの過去の克服はいかに頓挫したのか(1)

2024-03-03 | 旅行
 刑法によるナチの過去の克服はいかに頓挫したのか

 一 1944年7月20日の死刑囚
 二 死刑囚の息子のその後
 三 刑法と国家社会主義
 (1)謀殺罪と故殺罪 ― 1941年までの刑法規定
 (2)謀殺罪と故殺罪 ― 1941年以降の刑法規定
  ①謀殺罪の行為類型から謀殺者罪の行為者類型へ
  ②真正身分犯と不真正身分犯
  ③真正身分犯の共犯
  ④1968年秩序違反法施行法による刑法の一部改正
 (3)謀殺罪改正の背景
 四 2019年2月 ハノーファー
 五 結び

 一 1944年7月20日の死刑囚
 フリードリヒ・ユストゥス・ペレルス(Friedrich Justus Perels 1910年11月13日―1945年4月23日)は、1944年7月20日のヒトラー暗殺とクーデタの未遂事件に関与した嫌疑で叛逆罪に問われ、第二次世界大戦が終結する二週間前の4月23日に死刑に処された「7月20日」の一人である1)。
 フリードリヒは、父エルンスト・ペレルスと母アントーニエ・ペレルス(旧姓ヘルメス)の四人兄弟の次男として生まれた。祖父フェルディナント・ペレルスは、ユダヤ教徒の両親のもとに生まれ、後にプロテスタントに改宗したので、フリードリヒはキリスト教の家系において育てられた。キリスト教へ改宗した家系とはいえ、出自を遡ればユダヤ教に行き着く人が、ユダヤ的なものに対してどのような感情を抱くのかは詳しくは知らない。しかし、本来的に宗教というものは、神の教えに対する信仰、それに基づく神との契りであり、神の教えに基づいて生きることに自己の人生の意味と幸福を見出す。他人が何を信じようが、また何を信じまいが、それが直接的な関心事になることはない。しかし、他人が理由もなく虐げられ、また信仰ゆえに迫害されることは、自己の幸福と無関係ではいられないはずである。その意味で信仰心には、普遍的な正義感が備わっている。フリードリヒもまた正義感の強い人だったのではないか。
 フリードリヒは、1922年から29年までベルリンのフリーデナウ・ギムナジウム(現在は、ベルリン・ペレルス広場6―9番地にあるフリードリヒ=ベルギウス学校)に通い、その後はハイデルベルク大学法学部に進んだ。ナチが政権を掌握した1933年に国家試験(司法試験)に合格した。大学時代は、グスタフ・ラートブルフ(Gustav Radbruch 1878年11月21日―1949年11月23日)の法哲学・刑法の演習に参加した。ラートブルフは、ベルリンのフランツ・フォン・リストが提唱した実証的で政策的な刑法理論に魅せられ、刑法学の研究を始め、その後は新カント主義の立場から相対主義的な法哲学・法思想を体系的に講じた法思想の大家である。ワイマール時代には帝国司法大臣(社会民主党)を務め、法理論と法実務を架橋し、とくに刑法改正草案の起草作業において影響力を発揮した。1933年以降、その政治姿勢と人格的態度を理由に教職から追放され、第二次世界大戦が終結するまで国内において執筆活動に従事し、またイギリスの諸大学で講演するなど消極的な活動を余儀なくされた。フリードリヒは、この恩師の姿を見ながら、厳しい時代の到来を予期したのではのではないか2)。
 フリードリヒは、1933年4月1日に司法修習生として法曹の道を歩み始め、自身が所属する告白教会の法律顧問を務め、法曹と信徒の両方の生活を送った。1936年からは、告白教会の旧プロイセン領協会の法律顧問として、ナチ体制によって迫害を受けた人々のために様々な方法を駆使して救済に務めた。1940年にはヘルガ・ケラーマンと結婚し、1942年には長男ヨアヒムが生まれた。厳しい時代であったが、仕事も生活も順調に進むかに思われた。
 1940年、フリードリヒは、友人で神学者のディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer 1906年2月4日―1945年4月9日)を介してレジスタンス活動に接近した。その中には、クライザウ団などの抵抗運動組織もあった。戦争末期、ナチの軍事組織の幹部がナチに反旗を翻し、ヒトラーの暗殺やクーデタを計画したことが知られているが、法曹であり、告白教会の信徒であったフリードリヒもまた、その信念ゆえに抵抗運動に加わることになった。1942年にはスイスへの亡命を希望するユダヤ人に協力するなどの活動に従事した。それは迫害された人々に寄り添う真摯な活動であって、その根源にあるナチの不法体制に対する直接行動ではなかったが、戦局が激しさを増すにつれて、抵抗運動家もまた激しい直接行動へと駆り立てられた。フリードリヒもまた厳しい決意を迫られたに違いない。
 1944年7月20日、東プロイセンのラステンブルクにおいてヒトラーの暗殺が企てられた。参謀大佐クラウス・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンブルク(Klaus Schenk Graf von Stauffenburg 1907年11月15日―1944年7月21日)がその首謀者であるとして、翌日銃殺刑に処された。ボンヘッファー、陸軍少佐ハンス・オスター(Hans Oster 1887年10月9日―1945年4月9日)らはその共謀者として逮捕され、1945年4月9日に処刑された。この暗殺計画が告白教会の関係者によって計画されていたことを知っていたフリードリヒは、それを警察機関などに報告しなかったことを理由にそれに協力したとして逮捕され(1944年10月5日)、他の運動家とともに拘置所に収容された。1945年2月2日、死刑執行人の異名をとるローラント・フライスラー(Roland Freisler 1893年10月30日―1945年2月3日)3)が裁判長を務める民族裁判所から死刑の判決を受け、4月23日未明、帝国保安本部特別行動隊によって執行された。裁判長フライスラーは、判決宣告の翌日、別の裁判の開廷中に米空軍機B-17爆撃機の空爆を受けて「殉職」した(妻のマリオン・フライスラーは夫を公務災害によって喪ったとして、戦後も「未亡人年金」を受けることができた。しかも、夫が殉職しなかったならば戦後も社会的に高位の地位に就き、多くの報酬を受けたであろうという理由で、「逸失利益」に相当する「損害補償年金」をも受けた)4)。空爆が一日早ければ、フリードリヒは死刑を免れたかもしれない。息子のヨアヒムは、父を失わずにすんだかもしれない。


 二 死刑囚の息子のその後
 2003年のある日、政治学者のミヒャエル・ブックミラー(Michael Buckmiller 1943年5月21日―)の還暦を記念してシンポジウム「批判的知識人のクローム・イニシアチブ ―― カール・コルシュのアクチュアリティーとコルシュの持つ社会主義左翼の前進のための意義」が開催された。
 カール・コルシュは、1886年8月15日、リューネブルガー・ハイデに生まれ、1910年イエーナ大学で法学博士の学位を取得した法律家であった。1912年ドイツ社会民主党に入党。マイニンゲンにおいて労働者・兵士評議会の設立に関わり、1919年6月、独立社会民主党に移り、1920年にドイツ共産党に入党した共産主義者であった。『マルクス主義と哲学』(1923年)を刊行し、1924年からは「インテルナツィオナーレ」編集長、帝国議会議員、第五回コミンテルン大会代議員として活動したドイツ共産党の指導者であった。1925年3月、コミンテルンの政策に抗議し、1926年5月、ドイツ共産党(コミンテルン・ドイツ支部)から除名され、その後、様々な理論活動を展開する中で、1933年、ナチの政権掌握後、地下に潜伏した。その後はイギリスへ亡命し、1936年末にはアメリカに渡り、フランクフルト大学社会研究所から研究費を受けながら、理論活動に従事した。1961年10月21日、アメリカで死去。享年75歳5)。
 その経歴からも分かるように、コルシュは、一方でロシア・マルクス主義とコミンテルンの政策に反対しながら、他方でマルクス主義科学の可能性と左翼運動の再生のために闘った理論家であり、活動家であった。20世紀末にソ連・東欧における社会主義体制が連鎖的に崩れ、ドイツにおいてもベルリンの壁が崩壊して東ドイツが消滅して10年ほど経過した時点において、カール・コルシュをテーマにしたシンポジウムを開催することにどのような意義が込められたのかは分からないが、新自由主義のグローバリズムへの対抗戦略を構築し、そして資本主義に、そして社会民主主義や共産主義に代わる政治・経済体制の可能性と現実性を模索し、それを担いうる主体形成を推し進めようとする気概が感じられる。この集会に参加し、マルクス主義の理論と運動の新たな地平を切り開く「批判的知識人」とは、どのような人たちなのだろうか。
 この研究集会の開催にあたって、ハノーファー大学の政治学者ヨアヒム・ペレルスが挨拶に立った。「7月20日」の一人フリードリヒ・ユストゥス・ペレルスの息子のヨアヒムである。彼はマルクス主義あるいはカール・コルシュと自身の関係について、次のように自身の経歴を紹介した。
「……私は1962年から67年までフランクフルト・アム・マインで法学を学んだ。勉学を続けることができたのは、法学の講義を聴講するだけでなく、アドルノ、ホルクハイマー等の講義を聴いたおかげだった。その頃、フランクフルトには150人から180人のメンバーを擁する比較的強力なSDS(Sozialistischer Deutscher Studentenbund 社会主義ドイツ学生同盟)が存在していて、彼らはほとんどが社会学専攻だった。法学部生がそこに迷い込むことは、ほとんどなかったといって良い。私がSDSの会合で自己紹介したとき、「自分は法学専攻です」と言うと、「何だって?」、というざわめきが低く部屋中に響いた。この頃カール・コルシュは ― こう言ってよければ ― 秘密の人だった。つまり、未知の人だった。私自身がコルシュの著作に初めて出会ったのは、労働会館で1964年に開催された「7月20日〔ヒトラー暗殺未遂事件〕の20周年」というテーマを掲げたSDSの集会だった。この集会では、ヴォルフガング・アーベントロートが、政治的抵抗の意義と、1945年以降にそれが継承されていないことについて話した……」。
 ヨアヒム・ペレルスは、若い頃の自身とコルシュとの関係を踏まえ、シンポジウム開催の挨拶として、コルシュの著作『社会化とは何か?』(1919年)の意義を紹介して述べた。社会主義と自由の関係は? 社会主義における人間の自由はどのような状況にあるのか? 擁護されているのか、それとも抑圧されているのか? 社会主義における自由は、ボリシェヴィキによって変容させられ、否定(止揚)されてしまった。労働と生産に従事するプロレタリアは、党の理論と党の官僚機構に従属させられている。彼らには自由はない。コルシュは、労働者が置かれた否定的な状況を告発し、社会主義における自由の復権を呼びかけた。ペレルスは次にコルシュの『経営協議会のための労働権』(1922年)の意義を紹介した。社会主義と労働運動の関係は? 労働運動は資本主義社会を乗り越え、社会主義を実現できるのか? 労働運動は、社会民主主義の体制下においていかなる状況にあるのか? 労働運動は、その体制に組み込まれてしまった。労働運動は、その体制を「改良」することはできても、それを乗り越え、「変革」することはできない。コルシュは、このようにコミンテルンとソ連共産党の官僚主義による労働者の管理と抑圧を批判し、同時にワイマールの社会民主主義政府の妥協的・修正的な改良路線を批判した。ペレルスは、このようなコルシュを二重の批判者・反対者と呼び、1960年代を想い巡らせて、「コルシュによるこの二重の反対によって、我々のような当時の若者は、この人物とその著作に取り組むことに興奮を覚えたのである」6)。労働者の搾取の上に成り立つ資本主義を乗り越えたはずの労働者・農民の祖国において、それ以上に過酷な抑圧政治が行われていた。それは1960年代においても同じであった。ペレルスの挨拶から、その理論的・実践的課題を21世紀においてもなおも追求しようとする彼の固い決意が感じられる。
 ヨアヒム・ペレルスの内面は、非常に複雑なように思われる。ナチに抗した7月20日の抵抗運動家の父を持ち、それゆえに父を奪われた可哀想な子ども。誇り高き夫を失った母に厳しく、また優しく育てられた少年。また、父の遺志を継ぐかのように同じ法学を志し、フランクフルトで経済法に関する論文を執筆して法学博士の学位を取得した勤勉な法学徒(フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判を主導した検事長フリッツ・バウアーもワイマール時代に経済法研究で法学博士号を取得した。これは偶然か?)7)。そして、「未遂」に終わった父の抵抗運動の精神、しかも1945年以降のドイツ社会が継承していない政治的抵抗の意味をSDSの活動を通して追求する学生運動家。さらには、1971年からハノーファーで政治学、とりわけナチの過去の克服、マルクス主義と民主主義論などドイツ政治理論の研究に従事し、そこで教授資格を取得した左翼教授。彼の履歴書を机の上に置いて、それを時系列に読み進め、公私にわたる「点」を「線」で繋ぎ合わせると、「ヨアヒム・ペレルス」という一人の人間の立体像が浮かび上がる。

1)https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Justus_Perels; Heinze Hillermeier (Hrsg.) mit einem Nachwort von Gerhard Meyer, "Im Namen des Deutschen Volkes!" Todesurteile des Volksgerichtshofs, 3. ergänzte Auflage 1983, S. 111 ff.; Irmtrud Wojak, Fritz Bauer und die Aufarbeitung der NS-Verbrechen nach 1945, in: Blickpunkt Hessen Nr. 2/2003.(イルムトゥルード・ヴォヤーク〔本田稔・朴普錫訳〕「フリッツ・バウアーと1945年以降のナチ犯罪の克服」立命館法学第337号〔2011年第3号〕559頁以下)。「7月20日」の人々は、その当時は「叛逆者」の汚名を着せられてとして死刑台に送られたが、フリッツ・バウアーは彼らは「叛逆者」ではなかった、反対に彼らはナチによって苦しめられた人々を緊急救助したのであって、そのために行われた暗殺未遂やクーデタ未遂は正当防衛として正当化されるべきであると主張した。この点に関して、連邦裁判所初代長官のヘルマン・ワインカウフは、無駄な抵抗、徒労に終わることが明らかな抵抗には正当性を認めることはできないと述べた。しかし、ナチの過去が不法で克服されるのであれば、その不法に抗した抵抗運動家の名誉は回復されねばならない。不法の克服と名誉の復権は同一の課題である。
2)ラートブルフは、戦後ドイツに帰還し、ハイデルベルク大学法学部の再建のために尽くした。戦後直後の1946年に南独法曹新聞(Süddeutsche Juristenzeitung)に「法律の形をした不法と法律を超える法」(Gesetzliches Unrecht und ubergesetzliches Recht)を書き、いわゆる再生自然法論(自然法ルネッサンス)を唱え、戦後ドイツ法学の脱ナチ化と再生のための理論的指針を提供した。ドイツ法学では「法律は法律である」という法律実証主義の思想が長く支配してきたため、法律の解釈と適用を職務とする裁判官は、ナチの法律をも適用せざるをえず、結果的にナチの支配に対する抵抗力を奪われ、ナチの不法な支配に巻き込まれた。しかし、ナチの法史は、法律の中には法律の形式をしているだけで、その実質は不法なものが紛れ込むことを明らかにした。そうである以上、戦後の法律家は、法律実証主義に拘泥して不法な法律を法律として適用することは許されない。「法律を超える法」という視点から法律の法的性質を内容的に審査できなければならない。ラートブルフの法律実証主義支配論は、戦前のドイツの裁判官を法律実証主義によって悪法に対する抵抗力を奪い去られた「被害者」として捉えている。しかし、その歴史認識には大きな誤謬があることが指摘されている。Vgl. Dieter Deiseroth, War der Positivismus schuld? - Anmerkungen zum Thema Juristen und NS-Regime achzig Jahren nach dem 30. Januar 1933, in: Betrifft JUSTIZ Nr. 113, März 2013, S. 5-10.(ディーター・ダイゼロート〔本田稔訳〕「責任は実証主義にあったのか? ―― 1933年1月30日から80年目のテーマ「法律家とナチ体制」に関する評論」立命館法学第360号〔2015年〕135頁以下)。本田稔「ナチス刑法における法律実証主義支配の虚像と実像」立命館法学第363・364号〔2016年〕750頁以下参照。
3)Helmut Ortner, Der Hinrichter Roland Freisler - Morder im Dienste Hitlers, 2013.(ヘルムート・オルトナー〔須藤正美訳〕『ヒトラーの裁判官』〔2017年〕)。ヘルムート・オルトナー(本田稔訳)「時間はリセットされなかった ― ドイツでナチの法律家が罪を問われないまま出発でき、多くの人々がそれに理解を示した理由」龍谷法学第51巻第1号(2018年)787頁以下参照。
4)Ralph Giordano, Die Zweite Schuld oder Von der Last Deutscher zu sein, 1987, neueste Auflage 2000, S. 153.ラルフ・ジョルダーノ『第二の罪 ドイツ人であることの負荷』(白水社、1990年)171頁以下は、妻のマリオン・フライスラーが、ローラント・フライスラーの『公務』の関連で「未亡人年金」を受け取る以外にも、1974年以降、いわゆる「損害補償年金」をも受けていたことを指摘している。これは「当時ミュンヘンの戦争犠牲者擁護庁から、フライスラーがもし生存していたら『弁護士か地位の高い公務員として活動していたであろう』という想定の下に支給されていた」ものである。しかし、他の元公務員たちは、「フライスラーというナチス時代の血まみれの最高裁判官が生きていたとしても、おそらく謀殺者として断罪され、死刑か終身刑になっていたに違いない」ので、妻に「損害補償年金」が支給される理由はないと主張したという。
5)ミヒャエル・ブックミラー(青山孝徳訳)『カール・コルシュのアクチュアリティー 批判的研究者のクローム・イニシャティブ』(こぶし書房、2019年)。カール・コルシュは、「忘れられたマルクス主義者」である。ルカーチ、ブロッホと並ぶ1920年代の傑出した理論家であり、同時代の日本共産党員・福本和夫や新明正道らにも大きな影響を与えた。コミンテルン中央と決別し、全体主義とスターリン主義と闘う道を歩んだ。ブックミラーは、『カール・コルシュ全集』の編者として、この忘れられたマルクス主義者を現代において甦らせ、その理論の現実的な可能性を追求している。